5-1
約束していた時刻から、十分ほど遅れてキキョウは現れた。そうしてひと息つく間もなく彼女は言った。
「お待たせしてしまいすみませんでした。さあ、行きましょう」
「どこへ?」
もう今夜の宿の予約でもとっているのだろうか、くらいに考えていたら、
「イチハラ地区のゴイという村です」
と、彼女はこともなげに答える。
「ゴイ村ってさっき掲示板で見た覚えがあるな」
「ちゃんと覚えていて流石です」
「ということは魔王軍の支配する地域じゃないか」
「ええ、今からゴイに巣食っている魔物を討伐しに行くのです」
「……こんな夜更けから?」
彼女は声を潜めていたけど、僕が眉を顰めていたからか、近くに居た何人かが何気ない風を装ってこちらの様子を確認し、恐らく聞き耳も立てていた。……しかしながらキキョウも僕も風貌がもやしのように貧弱であることがこの場合良い方へと働き誰も僕たちの発言を本気とは受け取らなかったようで、キキョウと《余計なことはするな》派勇者による、ウィーン会議よりもまとまらない踊る大舌戦が勃発する--などと言った、それはそれで面倒な事態へと発展することは幸いなかった。
ギルドの外へ出てみると、入り口脇に一台の馬車が停まっていて、彼女が何も言わずにそれに乗り込むのを見て、また馬車移動かと内心辟易する。しかしながら、ソウブ線を降りて、あの長い橋を渡っている時とは違って、もう裏を返せばそんなことを感じるくらいの心の慣れみたいなものが今の僕にはあった。今回のものは今朝乗ってきたものよりも一回りは大きく、しかしいざ乗ってみると些か窮屈であった。
「……これらは何に使うんだ?」
原因は明白で、車内には多量のダンボールがうず高く積み上げられており、それが僕たちを圧迫していたのだ。そうしてこれらの中に入っているのはいずれも薬品や衣類などの生活物資らしい。もしかしてものすごい長旅になるのではないかと嫌な予感が脳裏をよぎったが、しかしそれにしては食料品の類いが見当たらないのが不自然であった。
「原則、勇者様以外が魔王軍の実効支配する地域へ立ち入ることは禁止されていますし、そもそも普通の人は好きこのんで立ち入ったりはしません」
「まあそうだろうな」
僕も勇者である前に普通の人だから、普通の人の考えることは手にとるように分かった。
「はい。でも、実は魔王軍占領下の村々を暗黙のうちに渡り歩いて様々な日用品を売ることで生計を立てている、闇の商人と呼ばれる人々がこの国にはいるのです」
何故魔王軍が人間の日用品を欲するのか。それは単純に魔物たちが人間を捕食する生物だからである。冷戦状態のいま、魔物たちは自分たちの保有する村のみで何とかやっていかねばならない。しかし魔物たちには人間の生活に関する知識が欠けている。また魔物たちの支配している村々は殆どが農村であったため、村民たちにも医薬品などを作るノウハウが備わっていなかった。魔物たちは、健全な食料を確保するためには半ば必要不可欠なそうした品々を、そのようにして外部から調達しているというのだ。
では何故人間の側でもそうした行為を黙認しているのか。勿論国王などの中枢にいる人間は、勇者タナカが言っていたように、問題を顕在化させることで大々的な戦争へと発展してしまう可能性を考えているのかもしれないが、一般市民の間でも、闇の商人に対する嫌悪感こそあれど暴動のような形でそれが噴出せず、彼らが一応、社会の一員として受け入れられているのは、ひとえに彼らがいなくなることでより直接的に困ることになるのが魔物に支配されている村の人間だからであろう。
ただ、闇の商人の存在は、間違いなく事態を膠着させることに一役買っている。魔王軍の方から新たに何もしてこない代わりに、人間側からわざわざ何か行動を起こそうとする気力も益々奪ってゆく。そうして闇の商人だけが、リスクを負った対価という名目で肥えていく。彼らの内、成功した者はしばしば首都やウラヤスなどの都市部に屹立するタワーマンションに住居を構え、豪奢な暮らしを送っているらしい。
「それに、僕たちは擬態するというのか?」
「ええ、正攻法よりもその方が安全に内部まで侵入出来ますから」
僕たちが乗り込んだのを察知して、車体に繋がれた一頭の黒い馬はゆったりと歩を進め始めた。この賢い生き物は、あとは僕たちが一々何かせずとも目的地まで僕たちのことを運んでくれるらしい。
馬車は、日中キキョウと別れた際にキキョウが去って行った方向へと進んでいった。メインストリートの方はまだまだ賑やかであったが、此方の道沿いのもう殆どの店のシャッターは下されていた。それでもそこはまだ文明の領域で、街を抜けてしまうと夜の闇は更に一段濃くなる。ただ、今宵は幸い満月である。雲が流れると、隣り合ったお互いの顔が何となく視認出来るくらいになる。明るくなったついでにあたりを見回すとそこには草原が広がっており、その海の中に浮かぶ島のように、ところどころで背の高い樹木が生えていた。僕たちが進んでいる道は、交通量の多い首都-ウラヤス間のように舗装されてはいなく、その風景を突っ切るたった一本の、さながら獣道のような細い道であった。此処は魔王軍の支配する地域でなければ、人間の治めている趣もない。多分、この土地の本来の姿なのだろうと思う。
風が吹き、草原が本物の海のように音を立てて波打つ。でもその音は決してうるさくなくて、何年か後のふとした瞬間に思い出していそうな、とても穏やかな夜である。
「ゴイまではどのくらいなんだ」
「大体四、五時間ってところじゃないでしょうか」
「長いな」と僕は言う。しかし、まだたったの二日なれどこの旅のようなものは思い返すとその大抵がこんな調子で待ち時間ばかりであったから、四、五時間程度では大してうんざりしなくなっている。それでもあえて口に出したのは、この異常な夢を受け入れたと思われるのが何となく癪だったからだ。
そんな僕の心のうちが傍から見てバレバレなのかは分からないけど、キキョウは
「寝ても良いですよ」
なんて言って微笑む。分からないから、その微笑みの中には微量に挑発が含まれているよう感じる。
「いや、ここでは眠れないよ。揺れが気になって」
「デリケートなんですね」
キキョウがクスリとまた笑う。そうだよ僕はデリケートなんだ、昨夜も君のいびきがうるさくて全然眠れなくてね、などと応戦はしない。この柔らかな雰囲気を利用して、彼女に尋ねてみたいことがあったからだ。
「別に嫌だったら無理に答えなくていいんだけれど」
「はい。なんでしょう」
「その、なんでキキョウは魔王討伐にそれほど意欲的なんだ? 僕はずっとキキョウを通じてしか話を聞いてこなかったから、それが普通のことなんだと思っていたけど、……どうやら違うらしいから」
キキョウの中には、煮えたぎるような正義がある。その根源が何であるのかは、多分本人にも分かっていないような気がする。もしかすると、それ自体には根源などというものはないのかもしれない。或いは、私は正しくあるべきだから正しくあるべきなのだ、何故正しくあるべきなのかというと、それは正しくあるべきだからで、……と言った具合に遡り続けることになり、それ自体は無限回遡及出来るものでも僕らの生は有限だからいずれ、それも無限という概念と比べれば刹那の内に訳もわからず力尽きる。ただ、彼女が、このような世界であっても魔王討伐にこだわる理由からきっと、彼女が形成してきた/彼女を形成しているロジックが垣間見えるはずで、そこから僕はほんの少しだけ彼女のことを分かった気になれる。それは単なる僕の独りよがりの自己満足で、危ういものなのかもしれないけれど、この夢において、僕は一から十まで彼女に振り回される損な役回りらしいから、せめて僕の中で納得をつけることは、この旅を円滑に進める上できっとそれなりに大事だ。
そんなことを思い始めながら、果たしてその時の僕は彼女の発する答えをどれくらいちゃんと予想していただろう。言い換えれば、彼女の発する答え自体にどれほど興味があったことだろう。白状すれば、僕は純粋に、彼女について興味を持ち始めていて、だから何かを知ることさえ出来ればその中身は何だって良かったのだと思う。でも、何かその人の秘密を共有する行為には、必然的に責任が伴うのである。
此処で僕はまた責任という言葉に帰着する。
十秒ほどの短いようでその只中にいる者にとってはそれなりに長い沈黙の後、彼女の口から出てきた答えは、次のような簡素なものだった。
「それは、きっと私自身が南部の出身だからですよ」
南部。キキョウは昨日、あの長い橋の上で、国土の南側半分は魔王の手に堕ちてしまったと語っていた。あの時果たしてどんな想いで語っていたのだろう。彼女がどんな声音で話していたかが思い出せない。何故なら僕はその瞬間自分の心配で手一杯だったからだ。
そうして次は僕が会話のボールを持ったまま沈黙することになる。沈黙が長引くほど、ボールの質量はどんどん重くなってゆく。車輪が大きめの石ころを踏んづける度、馬車は跳ねて窮屈な車内に押し込められた僕らの肩は軽く、触れ合う。触れ合う彼女の肩は本当に、ちょっと叩けば折れてしまいそうなくらい細くて軽いのに、僕は彼女から発せられたものの重さに戸惑ってしまっている。
隣の男が地蔵のように固まっていることに気づき、キキョウは補足する。
「南部出身、と言っても、私の村は私が五歳のときにある勇者様の手によって解放されました」
「そんな勇者らしい勇者もかつては居たんだなあ」
僕はそんな、毒にも薬にもならない、論述問題の字数を埋めるためだけのような言葉を何とか吐き出す。
「今もちゃんと居るはずなんですけれど、……しかしあまり期待はしていなかったものの、やはりギルドにはロクな人間がいませんでしたね」
「彼らは多分、悪い人たちではないと思うんだ。良い人たちでもないけど、……つまり、本当に普通の人たちなんだよ」
「エンドウさんは優しいですね」と言ってキキョウが僕を一瞥する。その時僕は視線を斜め前のあたりに向けたままだったけど、その気配が伝わる。僕は胸が痛くなる。僕もまた彼らと同じような普通の人間だからだ。優しいから彼らの気持ちが分かるのでは決してないのだと思う。
でも、キキョウも別に、褒めたつもりで《優しいですね》と言ったのではなく、その時僕の八方美人的な態度に呆れていたのかもしれない。そうして、僕は八方美人的な態度を取り続ける限り、キキョウの過去を深く知る資格などないような気がしてくる。
しかしながら彼女は、永遠に訪れないかもしれない僕の覚悟なんてものは当たり前に待たず、ぽつりと己の過去を僕だけのために語り始める。
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