3-2
「さあ着きましたね。ここはティーバの玄関、ウラヤスで御座います」
いつの間にか、繋いだ手と手は離れていた。キキョウが小走りで駆け出してひょいと橋から街へ降りた。僕は最後の一歩まで歩いて渡りきり、そこで一度来た道の方を振り返る。深夜に三鷹駅を発ってからの時間経過を考えれば、体感的にいまは精々明け方ぐらいのはずだが、その時丁度、太陽は濃い青の美しい海の中へと一本の光の尾を引きながら刻一刻と沈んで行くさ中にあった。どうやら東京とティーバ王国とではかなりの時差があるようで、そうして辺りにはいよいよ目前に迫った長い夜に対する高揚感、がありありと漂っている。行き交う人々の額には汗が浮かんでおり、路面のレストランはどこも早速繁盛している。
掻い摘んで言うと、ウラヤスはこの国随一の歓楽街であるらしい。
「どれくらい歩いていたんだろう。長かったようで、あっという間だったような、何だか変な感覚にあるよ、いま」
「そうですね。ちょっと疲れましたか?」
「お腹は空いてきたかも」
「ここで一つ、残念なお知らせがあります」
「え、なに?」
僕がそう不安げに尋ねると、キキョウが持っていたカバンの口をおもむろに開き中をあさり出した。
「本来勇者様には国が総出をあげてバックアップするのが礼儀なのでしょうけど、申し訳ないことに、現在我が国では勇者様一人あたりこれだけしか支給されないのです」
ガサゴソとあさる音が止んだかと思えば、カバンの中から出てきた彼女の右手には金貨がたった一枚だけ握られている。
「これでどのくらい持つんだ」
「その辺りの店で一晩、二人でたらふく食べて、それで多少のお釣りが返ってくるくらい、と言えば分かりやすいですかね」
「魔王ってそんな日帰り出張感覚で討伐出来るものなの」
「四半世紀倒されてないんですよ。そんな訳ないじゃないですか!」
「ごめん……」
と、僕はとりあえず反射的に謝ってしまったが、その数秒後に何故僕はいま謝ったんだろうと素朴な疑問がよぎる。
「え、じゃあ僕らこれからどうしたらいいの」
「まあまあ、慌てないで下さいよ」
キキョウはコインを摘んだまま両の手のひらをこちらに向け、"慌てないで下さいよ"とジェスチャーを取る。それはまた、マジシャンがマジックを披露する前に、タネも仕掛けもないことを観客に示すために取る行動のようにも見える。僕がひとまず何も言わないのを見ると、彼女はコインを左手に持ちかえ、右手で握り拳のような形を作る。コインをその拳の上に乗せたかと思えば、存外力強く親指でそれを宙に弾いた。
コインはくるくると回転しながら天に昇ってゆき、かと思えばある地点においてあえなく重力に捕らえられると、そこからまた回転しながらするすると、吸い寄せられるように彼女の元へと落下してゆく。左手の甲へ綺麗に着地したそれをもう一方の手で素早く隠すと、キキョウは続けて僕にこう問いかける。
「さて、いまのコインの状態は、表と裏、どちらだと思いますか?」
「分からないな」
「別に外しても何もありませんから」
「じゃあ、表」
そう投げやりに返したら「ご明察!」とキキョウは元気よく答え、彼女の手の中から現れたコインには知らないおじさんの笑顔が刻印されていた。
「幸先がいいですね」
「つまり、賭け事で儲けるってこと?」
「何を隠そう、ここはカジノの街なんですよ」
キキョウが指した先には摩天楼があり、あれらは全てカジノや劇場などが併設されている統合型のリゾートホテルであるらしい。太陽の沈む海辺とは反対の方角のため彼方の空は既に薄暗いが、それが一層摩天楼の煌びやかさを際立たせている。
「本当にカジノで稼ぐしかないのか?」
「ええ。そして、稼ぐにしても最低限の元手が必要なので、いま夕食を取るわけには行かないのです」
「うーん」
「そんな不服そうな顔をしてもダメですからね。我慢して下さい」
「いや、別にお腹が空いて不服そうなわけじゃなくて……」
勿論、僕が不服に思っているのはカジノで稼ぐということに対してである。
「例えば、魔王の手下みたいなものを倒したらドロップアイテムでお金が貰えたりは?」
「そんなものゲームの中だけの話ですから」
「宝箱がその辺に設置されていたり……」
「現実はそんなに甘くないですよ」
「ここは現実ではないだろう」
「言葉の綾ですよ。揚げ足を取らないで下さい」
「ごめん」とまた僕は空気に流され謝罪させられてしまう。
「許して差し上げましょう」
「でも、自信がないな。僕という男に運があるとはとても思えない。ちょっとコイン貸してくれないか」
「……いいですよ」
キキョウが「ご明察!」と言った時の反応速度を訝しんで、コインの裏側を点検してみると、裏面に刻印されていたのも寸分違わぬ知らないおじさんの笑顔であった。
「バレてしまいましたか」
しかし彼女は依然として笑みを保ったままである。
「このおじさんは一体誰なんだ」
「このお方こそ現国王、ナッシジル=ティーバ様でございます」
「クソ、憎めない笑顔をしてやがる」
思わず語気を荒げると、
「まあ、ご安心下さい。私が貴方の分も勝ってみせますから」
キキョウはそう宣言すると、華やかな大通りから一本外れた、ゲボやら注射針やらがそこら辺に落ちている、光射すところには必ず影が生じるという世の理を表象しているような路地をぐんぐん風を切って歩き始めた。特にあれ程巨大な摩天楼であれば、覆い隠される領域もまた巨大であろう。ボロボロの壁に寄りかかっている、壁と同じくらいボロボロで、ゾンビのようにだらけているジャンキーたちのネットリとした視線を全身に浴びながら、僕はなるべくそちらの方は見ないようにして彼女の後ろを付いてゆく。僕は魔王云々よりもまずこの国で無事生きていけるのかと、当初抱いていたものとは別の思わぬ角度からも俄かに不安になる。……そう言えば、もしこの世界で死んでしまったら僕はどうなるのだろうか。
「そう言えば、言い忘れていたのですが、この世界で万が一死んでも貴方の精神は元の世界へ還るだけらしいので安心して下さい」
キキョウが前を向いたままそう説明をする。僕の心を読んだかのようにあまりに絶妙なタイミングだったから、内容よりもそちらの驚きが勝ってしまう。
「あ、そうなんだ」
「帰りたくなったらいつでも私が貴方の眉間にピストルを撃って差し上げますので、遠慮なくおっしゃってください」
後方からでは前方の彼女の表情は無論窺い知れず、冗談なのか、或いは本気で言っているのかの区別も付け難い。
「それは、……怖いな。ここが夢だとしても、やっぱりなるべく死にたくはないよ」
「はい。ぜひ力を合わせて魔王を討伐しましょう」
目的地へはそのまま数分路地を歩き続けた末に至る。元々は多分倉庫として使われていたのであろう、潮風による赤錆が目立つ無骨な建物にはネオンどころか看板すら出ていなくて、キキョウによると穴場スポットであるらしいが、その怪しさ加減は落とし穴と称した方がしっくり来そうだった。
「ここは地元の人向けなので安い金額からでも賭けられるのです」
「見るからにそんな感じがするよ」
しかしながら、ひっそりとした外観とは打って変わって、ひとたび足を踏み入れると中の熱気は凄まじかった。阿鼻叫喚だけでなく、たまに灰皿なんかも飛び交っている。僕はこれまでこういういかがわしい社交場に出向くような人生を送ってこなかったので、初めて見る異世界の文明につい言葉を失ってしまう。
「あそこのテーブルが盛り上がっているので行ってみましょう」
僕らの持てる全財産、憎めない笑顔のおじさんが刻印された1枚のコインをカジノ内で流通しているチップに変えた後、キキョウが涼しい顔して指を指したテーブルではテキサスホールデムが行われていた。僕はすっかり萎縮していたのと、そもそもゲームのルール自体も大して知らなかったため、一旦彼女に全てを託し、様子を見る運びになった。
「ごめん」
周囲の音にかき消されないよう、僕は彼女の耳元でそう呟く。
「任せてください」
そう言って僕は彼女からカバンを託される。彼女はその場で右腕を数回ブンブンと回したのち、静かに卓に向かった。静かと言っても、眠れる獅子の静けさである。同じ卓に座っていた輩たちの目線が彼女に集まるが、臆している気配はない。勝負師の血が騒いでいるらしいのが傍からでも十二分に伝わってきた。
しかしながらその華奢な背中が頼もしく見えたのは極めて短いその瞬間までであった。
元々流れが出来上がっていたところに一人だけ後から参戦した彼女は、ネギを背負ってきた鴨よろしくあれよあれよという内に卓ぐるみで標的にされる。元々殆どなかったチップは開始以来一度たりとも盛り返すことなく単調減少の一途を辿り、辛うじて身ぐるみまでは剥がされずに僕らが涙目で外へつまみ出されたとき、まだ空は陽の光の名残をとどめているくらいの時分であった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます