3-1

「諸君! 空虚な目標であれ、目標をめざして努力する過程にしか人間の幸福は存在しないのだよ」

「あのー、起きてください。到着しましたので」

「……あと、十分だけ寝かせて」

「もう! 置いていきますよ」

 キキョウに肩のあたりをぶんぶん揺さぶられてしぶしぶ僕は目を覚ます。結構長い間眠っていたような気がするが、その間彼女はやはり、一人でずっと起きていたのだろうか。上等な電車といっても、座った状態で寝ていたら流石に首や腰のあたりにじんわりと痛みが芽生える。ぐりぐりと肩甲骨を回し、その反動を利用して腕を大きく上に伸ばしたあと、立ち上がると僕の足は久々に荷重を感じて少しふらつくが、キキョウは軽快な足取りで先に外に出ていってしまう。一人になると、この車輌の薄気味悪さ--いつのまにか音もなくまた知らない別の場所へと運ばれていそうな--は強まり、僕もさっさとその場を後にする。

 連結部に移ると、キキョウがそうしたのか、最初からそうなっていたのか分からないが外部と内部を繋ぐドアは開け放たれており、明け方のオレンジ色の空を想像していたが、その向こうの空はどんよりと曇っている。半袖で来てしまったため、幾分寒さすら感じる。ここは一体何なのだろう。寒さを感じるのは単に気温が低いというよりも、その景色の寂寥感が与える影響がきっと大きい。悪夢の続きか、はたまた過酷な現実の果てのような趣であった。当たり前にプラットホームなんてものもなくて、だから僕は寝起きだというのに一メートル程の高さを列車の出口から飛び降りる羽目になる。どすりと音を立てて落下した際、勢い余って両手を地面につく。汚れた手同士を擦って払い、立ち上がる。そうして一メートル視点が下がっても、内臓が攪拌されて少し吐き気が込み上げてきただけで、目に映る景色には生憎一切の変化がない。

そのまま三歩だけ進んで振り返ってみると、ソウブ線はその銀の車体に間延びした僕の顔と、僕の背後の荒野が地平の彼方まで伸びているのを映している。空間を構成する要素があまりに少ないから、列車は燃料切れか何かで立ち往生しているようにしか見えないが、確かに線路は其処で切れている。

 だから無人のそれはゆっくりと、砂埃を立たせることもなく、静かに来た道を引き返して行くしかないのだ。そうして列車が消えると、その向こうに列車が隠していた景色が現れる。清涼飲料水のコマーシャルのように、キキョウが五十メートルは向こうでこちらを向いて、手を振っており、いつのまにあんなに先まで行ったのだろうと思う。地形は緩やかに降っていて、その先には、砂浜と、薄赤く濁った恐らく海が広がっている。

 数十秒かかってようやくキキョウの元へ至り、一息ついた後で、

「置いて行かないでよ」

と軽く彼女のことをなじると、

「遅いですよ全く」

「寝起きなんだこっちは」

「気持ち良さそうに寝てましたもんね」

 キキョウが笑いをこらえながら「どんな夢を見ていたんですか?」と尋ねてくるから、僕は何だか油断しきっていた自分が恥ずかしくなって、耳を赤くする。質問には答えず彼女から顔を逸らし、海の方を見遣る。僕たちが立っているところから海まではまだ二十メートルほど距離がある。さざなみが寄せては返し、届く範囲の砂浜を暗い色に染めている。風がないからか、潮の香りが陸まで漂ってこない。いま、たまたま吹いていないだけではなく、何万年も空気がその場に停滞しているような予感がある。

「それで、ここがティーバ王国なのか?」

 今のところ辺りには、人間やその他生物の気配はおろか、生活の痕跡すらなかった。だから多分ここはまだティーバ王国ではない。霧に隠れて遠く彼方までは見渡せないが、眼前の海には一本桟橋がのびている。あそこからまた船か何かで移動するのだろうとアタリを付けていたら、

「いえ、違います。あの橋を渡った向こうがティーバ王国です」

 そう言って彼女は僕が桟橋だと思っていたものを指さし、ほっそりと白い指が視界の隅に入る。

「橋ということは、いまは霧で見えないけど案外すぐ向こうに対岸があるの?」

「いえ、結構歩くので覚悟しておいて下さい」

 そう言うと、キキョウは砂浜を学校指定と思しきローファーでズンズン進んでいった。僕も時折足を取られそうになりながら彼女の後ろを付いてゆく。砂浜に残る彼女の足跡は僕のより一回り小さいが、歩幅は多分変わらない。

 橋まで至ると、人の往来が案外あるのか、赤く塗られた床の塗装がところどころ剥げているのが目につく。足を踏み入れると何らかの木で作られたそれはみしりと軽い悲鳴を上げる。幅は、実際にそうして確かめた訳ではないけど、二人で両手を広げて立つとそれぞれの右手と左手が欄干に触れるぐらいである。僕たちは最初軽快なペースで橋を進んでいたが、霧が沖に向かうにつれ煙のように濃くなってゆき、遂には隣のキキョウの顔すら見通せなくなる。一旦彼女の足音が止み、僕も立ち止まる。

「あの、手を繋ぎませんか? はぐれたり、海に転落されたりしたら困るので」

 不意に声が聞こえたかと思えば、霧の中からにゅっと彼女の手が僕に向かって伸びる。そのほっそりとした手のひらは握ると案外柔らかい。また足音が一定のリズムで鳴り出すと、0.5秒後、僕もその手に引かれてまた歩き出す。

 そうしてキキョウはまるで自分がちゃんと此処にいることを示すかのように、ティーバ王国について話をし始める。

 ティーバ王国はその勃興からティーバ家が代々治めており、偉大なる王、ティーバ一世が天下を統一したのが遡ることおよそ三百年は前になるらしい。爾来、安寧が保たれていたところに、魔王軍を名乗る人外の集団が癌細胞の如く突如領土の南端に現れ侵攻してきたのがいまから丁度、四半世紀前のことであった。平和に慣れきっていた王国の軍ではまるで歯が立たず、大袈裟な比喩表現などではなく、これまで培ってきた王国の歴史と比べると殆ど炎天にさらされたソフトクリームが溶け切るくらいの間に国土の南側半分は魔王の手に堕ちてしまった。王国滅亡も時間の問題であろうと思われたまさにそのとき、神の思し召しか、王国の西端の海に橋が架かり、今まで未開であったその向こう側へと行けるようになった。古より語り継がれていた伝説によると、遥か彼方空と海の交わる地にはユートピアがあるとされていたが、しかし国王直属の調査隊を派遣させると、橋の終わりにはただ、どこまでも痩せた大地が広がっていただけであった。そうして目につくものと言えば、得体の知れない−−何やら高度な技術の使われているらしい−−乗り物と、その足元からは真っ直ぐと、乗り物のための道が地の果てまで敷かれている。……

「それから紆余曲折あって、どうやらこの乗り物の終着点の世界に、私たちの世界を救ってくれる勇者がいるらしい、となった訳なのです」

 僕が殆ど気の抜けた相槌しかしていなかったのが気に障ったのか、彼女は最後そう大雑把に話を締めくくった。ただ僕は、別に彼女の話が取り立ててつまらなかった訳ではなく、単に魔王を討伐するという荒唐無稽なミッションがいよいよ現実味を帯びて来たことで血の気を失っていただけである。

「魔王だかを倒す術なんて、僕はあいにくのところ何も持ち合わせてないよ、前にも言ったと思うけど」

 僕がそう言うと、心なしかキキョウの握る手の力が強まったような気がした。窺い知れないけれど霧の向こうで彼女が横目でこちらを見つめているようにも。

「見て分かると思うけど、全然屈強ではないし」

「生憎霧で姿は見えませんね」

「言葉の綾だ」

「すみません。でも私よりは屈強ですよ」

「それはまあ流石にそうだけど」

「私は、どちらかと言えば肉体が屈強な人よりも、心が優しい人の方が好きです。欲を言えば両方兼ね備えている人が良いですけどね」

「もしかして慰めてくれてる?」

「人の言葉を疑う人は嫌いです」

 間髪入れず笑う声がする。繋がれた手が笑い声に合わせて微かに揺れる。「怒りました?」とわざわざ尋ねてくる。顔が見えないのを良いことに言いたい放題であるが、もしかすると僕の緊張を解こうとしてくれているのかもしれない。

「まあ筋肉はともかく、聞いていた話ですと勇者様はこちらの世界では魔法を使えるはずなのですが」

「そうなの?」

「ええ」彼女は言う。「……だって、ここは貴方にとっての夢の中の世界ですよ。そう考えると使える気がしてきません?」

「いや、いまのところ全くそんな気配は無いな」

「そうですか」

 会話が途切れる。僕は彼女の言葉について考え始める。夢を見ている時、ああこれは夢の中だなとうっすら自覚することはあるが、夢の中において、僕は何らかのキャラクターを与えられており、夢の体系にガッチリと組み込まれている。そうして夢が否応なく進むにつれ、いつのまにか僕は夢だと自覚していたことをすっかり忘れているのが常である。現実の側から見た時、夢は得てして破茶滅茶であるが、それは現実の論理に合わないだけであり、夢自体に論理がない訳ではない。本当に何でも思い通りになると言うなら、魔法なんて迂遠なものに頼らずとも、そもそも直接魔王の消滅を願いさえすれば目的は達成されるはずである。

「何か考え事でもしているんですか?」

「ちょっと魔法は使えそうにないから、魔王の消滅を天に願っていた」

「他力本願ですねー。私が言うのも何ですが」

 僕のなけなしの願いは、しかし隣の彼女によってあっさりと笑い飛ばされてしまう。そのパリッとした声に、思いがけず強い風に吹かれたかのように僕は錯覚する。

 そうして此処は夢の世界だから、錯覚は現実となる。僕たちを取り巻いていた霧が、野分のように、僕たちが来た方向へと急速に流れてゆき、たまらず目を閉じる。そうして開くとたちまち視界が明瞭になっている。建物を彩るネオンの灯りが姿を現す。久方ぶりに、喧騒を耳にする。僕たちはもう、多くの人々で賑わう港町へと至っている。

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