第二夜

 こんな物語がある。

 ここは夢の世界で、この世界において私は魔法使いである。そう聞かされた時、てっきり全ての物事が私の思うままになるのだと、そんな早とちりをした。実際のところは、私を捉えていて最早私の一部分と言っても差し支えない堅牢な檻から完全に自由になることなどできなかった。夢と現実は密接不可分の関係にあるらしい。

 現実世界における私は農家である。父も祖父もそうであった。私にはなりたいものがあったが結局農家になった。

 最初になりたかったのはピアニストだった。当時好きだった保育園の先生が弾いていたことから興味を持って、母に習いたいと告げるとそんな金はどこにもないと一蹴された。その時、子供ながらに世界にはどうにもならないことがあるということを理解した。

 小学校に上がると今度はサッカー選手になりたかった。部活動だけでなく、地区のトレセンにも通うくらいには熱を上げていた。しかしハムストリングを負傷して、根本的な治療をするにはもっと大きなまちの病院まで行く必要があると医師に告げられて、結局十四の時に自ずから引退を選んだ。

 それから、私は何となく美術部に入って、しかしそこで思いの外絵を描くことに熱中した。サッカーをやっていた時と同じくらい帰宅が遅い息子に対し、父は勉強しろとは一切言ってこない人だった。どうせ農家になるのならそんなものは必要ないという考の持ち主であったのだ。ある日、父に美大に進学したい旨を告げると、彼はお前の書いた絵を持ってこいと静かに言った。そうして持ってこさせた絵を画家の前でビリビリに破いた。このゴミを片付けろと母に命令し、机が綺麗になった後で、何か言いたいことがあるんじゃないかとまた静かに尋ねた。私は農家になりますと震える声で彼に告げた。

 しかしあの時声が震えたのは実は悔しさからではなかった。儀式の厳かな空気に身震いしたのである。私は父が大学進学を許可してくれる筈ないことを知っていたし、そもそも自身に画家として生計を立てられるほどの才がないことも薄々分かっていた。私は農家の子であり、全ては予定調和的に執り行われたのである。

 このようにして私を捉える檻は形成されてきたのである。だから檻を仮に取っ払ってしまった際、その内側に果たして何が残っているのだろうか。そんなつまらないことを私は危惧している。私は雑念を振り払うべく、座禅を組み直す。悟りは到底訪れる気配がない。

 私が使者と出会ったのは八月のある晴れた日のことであった。トラックを走らせていると沿道のバス停に一人の女が佇んでいるのが見えた。農協に行ってきた帰りでこの後特に急ぎの予定のなかった私はトラックを止めて彼女に話しかけることにする。彼女は案の定見かけない顔であった。

「どこまで行く予定ですか」

 そう尋ねると彼女は駅までと短く答えた。私は小さくため息をついた。ここから駅まで、少なくとも五キロは離れている。

「しょうがないから送っていきます。ここでバスを待っていてもあと二時間は来ないでしょうから」

 私の提案に対し彼女はお優しいんですねと笑った。この猛暑だというのにそういえば暑さをあまり感じていなさそうであった。

 それ以来、私は家に帰っていない。私は悟りを開くまで帰らないことに決めた。しかし私は坊主ではなく農家である。お門違いのことをしているという自覚が悟りの邪魔をする。もう向こうの世界では収穫の時季も過ぎてしまったことだろう。腰を痛めているというのに父には悪いことをした。父は私がいなくなったことに対して何か思っているだろうか。二年前、晩夏に台風が来て路地野菜が全て駄目になった際、父は文句一つ言わないで、黙々と圃場を片付けていた。きっと今年の収穫も黙々と作業していたのだろう。

 それは一つの悟りの形である。私はそうはなれない。しかしながら段々そうはなれないと思うのも一つの悟りの形であるような気がしてきた。ただ、それが故に、逆説的に私はもう向こうの世界に帰ることができない。

 いつのまにか使者はその身に私との子を宿していた。今度は私が父になる番である。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る