2-2

 薬のお陰で頭痛は大分収まってきたが、倦怠感はいよいよ手に負えなくなりつつある。こんなとき、誰でもいいから話し相手が欲しくなる。つまり、寄る辺ない憂鬱の海が僕をあの不思議ちゃんの元へと誘う。いや、結局はその波に抗おうとしている部分の僕か。それは僕の中においてのみ異なるだけで、きっと世界にとってはどちらでも構わないだろう。そして多分、異常をきたしているという点では僕も彼女とどっこいどっこいなのだ。とは言え、指定された時刻まではまだ大分あるから、僕は随分前に買って以来まだ1ページも読んでいないまま放置していた小説を読み始める。

 深夜零時、東京駅行きの最終電車に間に合うように家を出る。外は日中予想していたような熱帯夜ではなく、それどころか存外涼しい。イヤホンで音楽を聴きながらその中を駅まで、夢遊病者のようにふわふわとした心持ちで歩いてゆく。

 道に人の気配はなかったけれど、それでも駅まで着くと電車を待つ人の姿はそれなりにあった。二分ほどでやって来た電車に乗り込むと、最寄駅から三鷹駅までは十分程度で至ってしまう。二時までの時間は駅近くのカラオケボックスに入って潰すことにした。でもそこで殆ど歌は歌わず、結局鞄に入れてきた小説を読んで過ごしていた。

 そうして二時丁度にロータリーに戻ると少女は昼間と全く同じ格好のまま、既に待っていた。このセーラー服は一体どこの学校の制服なのだろうかと少しだけ気にかかるが、そんなことよりも彼女はあれから今まで、一度も家に帰らなかったのだろうか。

「絶対に来てくれると思っていました」

 でも目が合い此方に気がつくと、嬉しそうに顔を綻ばせながらそう言うものだから、脳裏に浮かんだ疑問や、日中のクリームソーダの代金について、僕はつい話題に出しそびれる。

「自分でも驚いてはいるよ」

「では行きましょう」

「ああ」

 と言った後で、僕はあたりを見回して当惑する。こんな時間に三鷹駅に来るのは初めてだが、取り立てて奇妙なところは見つからないように思う。奇妙なところが見つからなくて当惑するというのも極めて妙な話であるのだが。

「そういえば、そもそもどうやって、そのティーバ王国とやらに向かうんだ。……まさか電車とか言うんじゃないだろうな」

「ご明察です!」彼女はにっこり笑った。そうして、

「ティーバ王国へはソウブ線で一本なのです」

と言って切符を手渡してきた。それは特急の乗車券のように名刺ほどの大きさのもので、おもて面には日本語で三鷹→ティーバ王国と印字されている。遊びで作ったものにしてはよく出来ていると僕は表情には出さずに感心する。

「三鷹駅から出てるの?」

「はい」

「ティーバ王国まで?」

「ええ」

「訳がわからないな」

 そう言ってから僕はシャッターの降ろされている北口をわざわざ指差してみる。つられて少女もその方を見る。僕は何らかの答弁を期待したが、しかし彼女は何も言わず、そのまま膝上丈のスカートをふわりと翻して、その方向へスタスタと歩き始めたかと思えば、

「えい!」

と言って、ほっそりした長い足でそれに前蹴りを食らわせる。がしゃんという音が静かなロータリーに響き渡る。僕はその音にまずびっくりするが、更に信じられないことが起こる。彼女に蹴られたシャッターが、その課せられた役目を果たすことなく、パタンとまるで、ハリボテのようにあえなく後方へと倒れたのである。それを踏み付けて彼女はぐんぐんとその奥の暗闇へ消えて行く。すっかりその姿が見えなくなってから漸く僕は我に返り、その後を、スマートフォンの懐中電灯機能を起動し、恐る恐る追ってみることにする。シャッターを踏んづけた時、やはりガシャンガシャンという厳つい音が鳴り、あの見事な蹴りがあれば僕などいなくても魔王を倒せるのではと少し思う。駅構内には当たり前に人の気配などなく、胡散臭さを感じつつ完全に電源の落ちているように見える改札に切符の先端をあてがう。するとそれは急に甚だしい機械音を立てて蘇る。僕の手から切符をひったくり、そして安易に僕の侵入を許す。

 かくして僕は、営業時間外であるはずのJR三鷹駅のホームへと至る。階段を下ると少女は白線すれすれのところに立っている。例の陶磁器のような横顔で。説明を求めようと近寄り、彼女も足音に気がつく。しかしその時丁度、

『まもなく電車が到着します』

と電光掲示板が光り、彼女の目線はすぐに僕からそちらへと逸れる。すると音もなく、ひと昔前のサイエンス・フィクションじみたデザインをした、ギラギラと眩しい銀色の車輌が、恰も元からそこにあったかのように、虚空から、じわりじわりと僕らの前に姿を現した。

 僕は言う。

「さっきから、理解が全く追いつかないんだけど」

 車輌の表面は鏡と化しており、そこには曲線に沿って歪んだ僕たちの顔が映っている。

「私にも仕組みは分かりませんが、これはティーバ王国まで私たちをおよそ四時間ほどで運んでくれます」

 ソウブ線でゆけるティーバ王国。……そこから何かを連想した僕は、

「長いんだか短いんだか分からないな」

と呟く。彼女は何も言わない。プシューと音を立てて眼前の扉が開かれたからだ。刹那、生温い一陣の風が僕たちの横を通り抜けたが、降りる客の姿は無かった。行きましょうと少女に促されるまま、僕はソウブ線に乗り込む。そうしてすぐに扉は閉まり、いよいよ後戻りは出来なくなる。

 乗り込み口は車輌の連結部付近にあり、座席までは更に自動ドアで隔てられている。ポケットにしまっていた切符を取り出し、特に何も書かれていないためどうやら自由席切符らしいことを一応確認してから車中へと移る。やはりそこに乗客の姿は一切ない。少女が一番手前の座席の背もたれを反対側へと倒しボックスシートを作ると僕たちはそこに斜向かいに腰掛けた。内部は夕闇のようにぼんやり暗く、そして夜の町よりもシンとしていた。振動などもなくて、これまで乗ったどの列車よりも上等に思える。そうして間が抜けている自分は、頬づえをつこうとして、そこで初めてこの列車には窓がないことに気がつく。

 彼女は目ざとく僕の失態に気がつき、静かに笑いこそしたが、それに言及しては来ず、

「そういえば、自己紹介がまだでしたね。私は、……キキョウと申します。貴方のお名前は?」

「エンドウだ」と僕は答える。

「すてきなお名前ですね」

「初めて言われたよ」

 僕たちの会話は、お世辞にも弾んでいるとは言えないはずだ。それでも、彼女と会ってから、さっきあの狭い自室で僕を襲っていた閉塞感のことを、もう僕はすっかり忘れている。

「そういえば」別に機を伺っていた訳ではなく、ずっと忘れていたのがその瞬間ふと思い出されて、僕はキキョウに尋ねてみる。「昼間言っていた、僕がクリアしたという条件って一体何だったのか、着く前に教えて欲しいな」

「ああ、別に勿体ぶるようなことでもなかったんですけど」キキョウは口元を軽く右の手で覆ってニヤリと笑った。「それはですね、とてもシンプルなことなのですよ。まず、私の姿が視えること。それから勇敢な心を持っていること。貴方はあの時見ず知らずの私を助けて下さった。その瞬間にこれら二つの条件をクリアなされたのです」

「え、それだけ?」

 勿体ぶられた分、最初耳にした時、僕は条件反射的にそんなことを口走ったが、よくよく考えると彼女はおかしなことを言っている。僕はキキョウの顔をじっくり眺めてみるが、車内が薄暗いせいかどうにも焦点が合わない。

 車内は適温だったけれど、背中に一筋の汗が伝う。

「いやちょっと待って。視える視えないって一体どういうこと? 君は実は幽霊だったりするのか? 僕は、どこへ連れて行かれる?」

「それは、ティーバ王国ですよ」

 列車に窓はなく、そして振動もない。だから実は列車は先ほど乗り込んだ三鷹駅からまだ一ミリメートルも動いていないかもしれない。ただ、そんな調子で静寂が張り詰めているものだから、彼女の言葉は、決して大声を出しているわけではないのに力強く響く。

「そして、私は幽霊ではありません。ちゃんと、生きています。でも、貴方の世界において実体を持たないのもまた確かです」

 その言葉を全く飲み込むことが出来ず、かと言って吐き出すことも出来ずに不安げな眼差しで彼女のことを見つめる僕を見て、キキョウはああすみませんと場を和ませるための笑みを作った。

「説明不足でしたね。まずはティーバ王国について、ある重要な事実をお伝えしておく必要がありました」

「色々設定があるんだな」

 僕は去勢を張って、茶化すようにそう言ってみるが、彼女はあくまで真面目腐った面持ちで、

「驚かないで下さいよ。ティーバ王国はズバリ、夢の国なのです」

「驚くも何も、まだ何を喋っているのか全然分かりかねているんだけど」

「貴方は普段夢を見ますよね」

「まあ、そうだね」

「ティーバ王国は、つまり貴方たちの世界の人々が寝ているときに構築した夢の中にあるのです」

「へえ」

「なんか反応薄いですね」

 彼女がなじるように薄目で僕のことを見る。僕はため息をつき、眉間の辺りを指で挟んでマッサージする。

「薄いんじゃない。さっきから驚きっぱなしで、ちょっともう驚き疲れているんだと思う。どうにも現実味に欠けるというか、うーん、どうやって現実から夢の世界に行けると言うんだろう」

「昼間、貴方が私の右腕を掴んだ瞬間から、実はもう貴方はこちら側の世界へ来ていたのです」

「というと?」

「貴方が私に触れた瞬間、貴方の精神は夢へと突入したのです」

「精神?」

「はい」

「じゃあ、僕の肉体は」

「さあ」

「さあって……」話の雲行きが怪しくなってきたことを感じる。でもにわか雨に降られるくらいならまだマシで、「……もしかして、僕の身体はあのホームに今も転がされているんじゃないのか」

「そうかもしれませんね」

「だとしたら、あの灼熱の中放置されていて無事なんだろうか」

「仮にそうだとしても」キキョウの声音はどこまでも泰然としている。他人事だからだろうか。「……きっと誰かが通報してもう今ごろは病院のベッドで安静にしていると思いますよ。日本はとても良い国なので」

「そうかな」

「それに、普通に考えたら、肉体の機能が停止したら精神の方も消えちゃいますって」

「それは、そうかもしれないけど……」これほど普通じゃない事態の五月雨斬りを喰らった後で今更普通を問われることが気にくわない。でも、何だか、いまこうして生きていられていること自体が奇跡のようにも他方思えてくるから、僕は万物に感謝せねばならないのだ。万物には無論彼女も含まれる。そうして僕は冷静さを取り戻す。世界は案外いつもこんな風に紙一重のところでうまく回っているのかもしれない。

「話を元に戻しますと、私たち夢の世界の住人は貴方たちの世界では精神しか持たないので通常の人には見えないのです。しかし、適性を持った心の持ち主には視えると言われています」

「なるほどな」

 結局、キキョウの話は本質的に僕の疑問に答えるものではなかった。適性? 果たして自分に魔王を倒す適性なんてあるんだろうか。僕に出来ることがあるとすれば、精々目の前で線路に飛び込んで死のうとしている人の手首を掴むことくらいで、それ以上でもそれ以下でもない。そこに勇敢さなんて抽象的な概念を被せて議論を敷衍させるのは甚だ危険である。しかしながら、腑に落ちたわけではないけど、きっとこれ以上、どう転んでも完全に納得することなど出来ないような気がする。時間を重ねれば重ねるほど、勝手に納得出来た気になるだけで。そしてそこにも結局同じ危うさが付き纏う。

「なるほどな」

という言葉にはだからそんな諦念が多分に込められていたのだが、対面の少女は存外満足気である。そうして会話は途切れ、また静寂がのさばり始めた頃には、ざっと三時間は昼寝をしたというのに僕は最早耐え難いほどの眠気を抱え込んでいた。

「到着したら起こして差し上げるので寝ても構いませんよ」

 まるで見透かしているかのようなタイミングでキキョウはそう声をかけてくる。それじゃあ君が眠れないじゃないかと思うが、思考は声にはならず、僕はただ彼女の言葉に曖昧に頷き目を瞑る。夢の中で眠るだなんて、これまた奇妙な話だが、……いや、さっき昼寝をしたときにはもう既に夢の中だったのだっけか、しかしまあごちゃごちゃとものごとを考えている余裕なんてもう僕には残されていなくて、次の瞬間にはシームレスに夢を見ている。それが夢だということもとりたてて意識せず。

 もしこの世界が『胡蝶の夢』であるならば、夢の中で眠りについた僕は、反対に現実へと戻ったのだろう。

しかし、その時僕の見ていた夢は、


 東京市四谷区生まれ。終戦後、一九四七年に大学を卒業し、一度大蔵省に勤務するが九ヶ月で退職、作家となる。一九四九年に最初の長編小説を発表して以降、精力的に執筆活動を行い、その耽美的な作風で一世を風靡するも、一九七〇年十一月、この国の未来を憂いて、自衛隊市ヶ谷駐屯地にて割腹自殺を遂げる。享年四十五歳。


というものだった。

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