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 店を出ると、三十分ほどは滞在していたのだろうか、入る前と比べて陽はやや西に傾きつつある気がする。時刻は十七時を少し過ぎたところである。駅前の円形ロータリーの中央部に設置されているモニュメント兼時計がそう示しているが、まだまだ涼しくなる気配はないから、多分今日は夜になっても蒸し蒸しと暑いのだろう。

 先ほど少女は僕に、今夜二時に三鷹駅に来るよう言い残して去った。良い子はとうに眠っている時刻であるし、良い子でなくても日中生産的な活動に従事している世の大半の人たちは恐らく眠りについている。日中生産的な活動に従事していない僕でも、そんな時刻から何かをおっ始めようという気にはならない。日中以上に無為に過ごすだけだ。人間の動物の部分の機構がそういう風に出来ているんだとして、だからきっと、あの娘は危ないクスリか何かに手を出して精神に異常をきたしているのだろうと、そう僕は短絡的に解釈した。喫茶店に居た時は何故だか僕が変な、ないし世間知らずな人間であるかのような体で話が進んでいたように思う。でも、よくよく考えてみたら、彼女は僕らが邂逅したあの時、駅のホームで、偉そうにも、

「私を助けてしまった」

なんて宣っていた。だからやはり特急列車にズタズタに引き裂かれて死ぬつもりだったのだろう。別に自殺を図る人間の精神がおしなべて異常であるとは思わない。世界の方が狂っているケースも、それこそ先の喫茶店空間などが良い例で、腐る程あるからだ。でも、彼女がもしそうであるならば、クリームソーダを美味しそうに平らげる姿と、轟々と迫る特急列車を前にして微動だにしない、陶磁器のように白いその横顔も、一本の線で結ぶことが出来た。

 認知的不協和を無理矢理解決している自覚はある。

 ただ夜中に生活しているだけで精神異常と結論付けるなんて、失礼極まりない話である。そういう人たちがもし仮に、何らかの事情で夜にしか生きられないのだとしたら、彼らを押しやったのが他ならぬ昼の社会を生きる人たちだったとしたら、僕の思考したことは殆ど暴力に近い。でも口にしない限りその悪事が露呈することは決してない。そこには明確な壁があり、限りなく暴力に漸近しても、暴力そのものにはならない。そうして僕の生活に、そもそも普段は会話らしい会話すら全くと言っていいほどない。だからどうか許して欲しいと、口にしない以上は誰かに責められることも決してないと言うのに、許しを乞う。それもまた心の中で。自己完結。自家中毒。孤独。……

 孤独を小脇に抱えながら僕は足早に駅へと向かう。改札を通りエスカレーターで高架のホームへ至ると、前に此処にいた時と比べて電車を待つ人間の数は明らかに増えている。帰宅ラッシュの時刻と重なってしまったらしい。その顔ぶれは勿論全く異なっているだろうけど、僕はもう前にいた人たちの印象を、あの少女を除いて覚えていない。

 ホームだけでなく、待つこと数分でやって来た、高尾発、東京駅へと至る途上のオレンジの電車もまた、それなりに混んでいて、そこに乗り込んだ僕は立ち込める人いきれに思わず軽く顔をしかめる。けたたましく音を立てて扉が閉まり、ごく最初だけ静かに車体が動き始める。揺られる、こと一分、乗客の大部分はひとつ隣の駅で降り、別のJRの路線へと乗り換えてゆく。更に揺られること二分、僕が住んでいるアパートの最寄駅へと到着する。

 駅を出て、アパートへ向かう前に駅前のスーパーへと立ち寄る。そこで駅まで出てきた時はよく買っている一番安い弁当と、それから、缶のビールを生まれて初めて買ってみる。酒を最初に飲んだのも、最後に飲んだのも、どこかのサークルの新歓コンパであったから、かれこれ一年以上前のことである。いまの生活をしていて更に酒にまで溺れるようになったらいよいよ取り返しがつかなくなるという自覚はあって、第一僕はまだ未成年である。でも今日は、飲みたいという前向きな理由ではないけど、だから特にどのメーカーのコレと言ったこだわりもなく、もういいや、まあいいかなんて思いながら目についたものを買い物籠に入れた。それをレジで精算するとき、画面に、

「二十歳以上です。はい」

と表示されて、ボタンを押したら、特に何も確認されずあっさりと買えたことに違和感を抱く。酷く形式的である。僕の生まれ育った現代日本では、別に一人で狩りを遂行したり、高所からバンジージャンプをしたりと言った、何らかの試練を突破しなくても大人になれてしまう。酒を買うのに一々バンジージャンプをしなければならない世界も馬鹿げているとは思うけど。

 アパートに帰り、ビールを冷蔵庫にしまった後、まず何の感動もなく弁当を十分ほどで平らげた。安いだけあって量もそれほど多くないが、今日は却って丁度いい。しばらく夕方のニュースをぼんやり見た後、ついに立ち上がり空箱をゴミ箱に捨てると、その足で冷蔵庫に向かい、ビールを取り出す。

 冷えたそれのプルタブを捻るとプシュッと次元が裂ける音がする。

 何となくの後ろめたさからテレビの電源を消す。静かになった部屋を見回してみる。次元が裂ける前と比べて、何一つ変わっていないように見える。缶に目を向ける。その中に果たして何が入っているのかは飲んでみない限り分からないようになっている。だから意を決する。

 瞳に映る景色が急速に色を失う。

 遂には暗転する。

 次に目を覚ましてもまだ、部屋は色を失ったままであった。でもそれは単に、酔い潰れた僕を置いて時間が順当に推移し、窓の外の世界がもう紛れもない夜となっていたからだった。カーテンを閉めようと思うが、倦怠感が身体を支配している。そればかりか頭には鈍痛がある。それでも僕の身体を拘束している一番の原因はそれらではなかった。僕は極めて現実的な問題に頭を悩ませている。

 何とか立ち上がってカーテンを閉める。電気をつけると頭の痛みは更に増し、明るくなった部屋とは対照的に、気持ちは余計に暗くなった。引き出しの中を漁り、奥底にロキソニンを見つけ出すと、それを唾液で飲み込み、また仰向けに倒れ込む。電気を保安灯にすれば良かったと思ったが、もう一度重力に抗うのは億劫で、そばに乱雑に置かれていた上着の袖を目の上に被せ、光をシャットアウトする。起きたばかりでとうぶん眠れそうにないから、麻痺した頭で物思いに耽ることになる。

 大学の授業についていけないという事態の重大さに、すっかり僕は参ってしまう。ついていけなくなったのは、本当は今に始まった事ではないのだ。兆候は少なくとも一年の秋頃にはあった。でも僕はついその事実から目を逸らしてきた。階段を地下へ一段一段下るように、最初は徐々に、大学へと足が向かなくなった。そうすると数少ない友人たちとも疎遠になって、益々部屋に引きこもるようになり、僕の精神は住む人の居なくなった家屋の如く荒廃していった。いや、これは現在進行形のことである。このままではいけないと思いつつも、現状を好転させる術を何も持たない。楽な方へと無意識に流されている内に、僕の身体は沖合いへといつの間にか運ばれており、そこからはもう自力では戻れないし、海水はゆっくりと、しかし着実に僕の体温を奪ってゆく。つまり僕の人生はもう挽回の効かない袋小路に追い込まれてしまったのだ。そんな感覚に苛まれ、身体にうまく力が入らない。いつ頃から僕の人生にこのような閉塞感は漂い始めたのだろうか。そもそも、特にやりたいことがあって大学に入ったわけではなかった。僕が授業についていけなくなった、いや学問に対するモチベーションを失った根本の原因はそこにあった。ただ漫然と勉強が得意で、でもそれは親の英才教育の賜物でしかなくて、なのでこうして親元を離れるとあっという間に堕落してしまった。

 親に対して申し訳なく思う一方で、現在のこの状況の遠因は親にあるとも僕は睨んでいる。幼少時、ジョブ・ローテーションによって数年ごとに全国の支店を縦横無尽に渡り歩かされる父と共に、僕もまた幾度となく転校を余儀無くされてきた。仲良くなってもすぐさよならを繰り返す日々で、その内に段々と、僕は友人を作ること自体を避けるようになり、それに呼応して興味関心の幅も狭くなっていった。長い一日の時間を潰すためだけに、僕は与えられた勉強にのめり込んでいった。そうしてさえいれば親の機嫌も良かったからだ。でも、後から振り返ったとき、そこに青春と呼べる美しい代物は殆どなかった。そうして、三つ子の魂百までとは言い得て妙で、僕はきっとそのツケを死ぬまで払い続けるのだろう。

 辛うじて覚えているものの、既に埃を被って久しい、虫食いだらけの脳内アルバムを過去に向かって一枚一枚めくり始める。それは明らかに仄暗い、現実逃避の色を帯びている。

 確か小学三年生のとき、僕は新しく越して来た或る海辺の町で、ハルという同学年の少年と出会い、当時の僕としては珍しく仲良くなった。僕の住んでいた社宅近くの一軒家に住んでいて、彼にはアキという三つ年の離れた妹が居た。だからか彼はとても面倒見の良い男で、有り体に言ってしまえばその地区の少年たちのボスだった。自ずから全く人と関わろうとしないため転校早々孤立し始めていた僕のような存在のことも気にかけてくれて、結局のところ僕はずうっと寂しい思いをしていたから、彼のそうした気遣いが身に染みて嬉しかったことを覚えている。

 あの頃、殆ど毎日のように僕たちは遊んでいたはずだ。それなのに、具体的に何をして遊んだかはもううまく思い出せない。僕がつまらない毎日を堆積させていくことで、単にいまの僕がつまらない思いをするだけでなく、数少ない美しかった過去の日々まで決して掘り起こすことの出来ない地層深くへと埋葬されゆくことに気がつき悲しくなる。そこには結局二年ほどしか居なかったと思う。最後の日、ハルは僕にまた会おうと言ってくれたが、それから程なくして、彼は交差点に侵入して来た居眠り運転のトラックか何かに轢かれたと聞いた。多分、今なお意識は戻っていないはずである。……

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