第一夜

 こんな物語がある。

 いま、私の傍らにはもうまもなく死にそうな女が蹲っている。私の傍らだけではなく、至る所に似たような人々がじっとしている。彼らは本当に動かない。蝋で塗り固められているかのように。捉えようによっては博物館のようにも感じるが、ここは未舗装の通りである。彼らは丁重に陳列されているのではなく風雨の下に野晒しにされている。何より生きている。この場に立ち込めているのは蝋の無機質な香り、或いは観覧する人々の付けた香水の甘い香りなどではなく、糞尿の本能的に不快な臭いである。だから当初私は早く立ち去ってしまいたいと頭では思っていた。

 ただ、身体の方が生憎言うことを聞かなくて、それで立ち尽くしている。立ち去ろうとした刹那、傍らの女に助けて下さいと声をかけられたのである。線香の立てる一筋の煙のようにか細い声音だった。しかし辺りはその時安置室のように静まり返っていたから、私はその声をしかと耳にしてしまった。

 私は旅行者である。このまちとは何の縁も持っていなかった。従い別に耳にしたからと言ってそれを聞いてやる義理はないのだが、ちょっとした好奇心でこのまちを訪れたという罪の意識のようなものもあった。つまるところ、一方の面倒ごとを引き受けたくないという気持ちと、他方のそうした意識が内側で相剋しており、結果として外側では身じろぎ一つせず立ち尽くしている、という次第なのだろう。これも頭の中で密かに考えたことである。数十分がそのようにして過ぎ去った。段々とこの臭いにも慣れてきている自分がいる。

 だから一夜くらいならずっとこのまま居られそうな気がしてくる。傍らの彼女はいまにも死にそうだから、持って今晩というところだろう。私が仮にいまどうこうしたところでその未来は到底変えられそうになかった。私はいま大きなリュックサックを背負ってはいるものの、中に入っているものは衣類などの標準的な旅行道具一式に過ぎない。彼女は一体私に何を期待したというのか。そもそもその虚ろな双眸がちゃんと機能しているのかどうかも最早怪しかった。

 私は、まだ辛うじて彼女の意識があるいまのうちに事実関係をはっきりさせておきたくなり、漸く会話をしようという気になった。

「あの」

 そう声をかける。そのまま二秒待ってみても返事がない。もしかするともう死んでいるのかもしれない。視線をちらとその方へ向けると、呼吸に合わせて微かに身体が揺れているのが見えた。私は気を取り直して言葉を続けることにする。

「私は旅行者です。このバッグの中にも大したものは入っていない」

 返事はない。私は構わずに続ける。

「だから貴方に恵んであげられるのはせいぜいサンドイッチの一切れくらいなんです。それで今のあなたの飢えを癒すことはできても、一日後、下手をすると数時間後のあなたの命すら保証できかねる」

 どうせ返事はないだろうと思っていると、彼女はそのか細い声音で、別にそれでいいんですと呟いた。

「長く生きていたいなんて、全く思いません。苦しいだけだから。ただ、言ってみただけなんです」

 今度は私が黙る番である。女は息も絶え絶えで、比喩ではなく命を削って言葉を紡いでいる。

「気を悪くされたなら、すみません。でも、助けていただいたら、いつかきっとお礼いたします」

 どうやってと私が問うと生まれ変わった後にと女は言う。それが貴方だと果たして気がつくだろうかと更に問うが、女からの返事はない。だから多分気がつくことなんてできないのだろうと私は思う。

 人の記憶なんてどうしようもなく頼りないものである。私は一体、これまでいくつの約束を知らぬ内に反故にしてきただろう。……そのうちに私はこの女に百年前同じように助けられたような気がしてくる。百年前の記憶など無論ない。

 私はリュックサックを脇に放り捨て、代わりに女を背負い込む。女は驚くほど軽かった。虚ろな目の奥側ももう殆どがらんどうなのであった。そうして背負い込む際、不思議と微かに百合の花の香りがした。

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