1-2

「飲まないんですか、アイスコーヒー?」

 少女の目が開き、僕たちは目が合う。そうして彼女は、まるで同年代か年下を相手にしているかのような、余裕綽々の微笑みをその口元にたたえる。

 そこで初めて、自意識過剰にも、現在の僕たちの状況は傍からみればカップルそのものではないかと僕は恥ずかしくなってくる。それしきのことで恥ずかしくなっている自分を格好悪く思う。それで、

「で、一体僕は何をすればいいんだ」

と、ついぶっきらぼうに尋ねる。すると、

「端的に申しますと、私の国、ティーバ王国を救ってもらいたいのです」

と、少女は答えた。至って真面目な顔で。そしてその顔は、いや、顔だけじゃなく身に纏っている制服や、話す言葉や、どの部分を切り取ってみても、彼女は紛れもない日本人であるよう、僕の目には映った。

 だから僕は訊き返すことになる。

「え、何だって?」

「ティーバ王国です」

「ティーバ?」

「ええ」

「王国?」

「はい」

 今はこんな体たらくでも、僕が大学受験を経験したのは僅か一年と半年前のことで、当時は多分、全国的に見てもそこそこ根を詰めて勉強していた方である。センター試験では世界史と地理を、そして世界史に関しては二次試験もあった。しかしながら、その国名は全くもって聞き覚えのないものであった。そうして僕は、自分の知識よりも彼女の方を俄に怪しく思い出す。

「そんな国名、聞いたことないんだけど」

「そうですか? 結構有名だと思いますけど」

 そう言って彼女は心外そうに眉を顰める。

「本当に? というかそもそも実在するの?」

「じゃあ、彼女に訊いてみますか?」

 そう言うと、僕が止める間もなく少女は手を挙げながら同時にすみませんと大きな声を出し、僕たちの元へ、僕と同じか少し上の年代と思われる茶髪の、長い髪を後ろに結んだウェイトレスがやってくる。もし通っている大学の先輩であったら嫌だなあと思う。

「はい、なんでしょうか」

「あの、お姉さんはティーバ王国のことを知っていますか?」

 少女が努めて少女らしい無垢な声を作って質問すると、ウェイトレスは一瞬怪訝そうに少女を睨め付けた。それを見た僕はというと、共感性羞恥を感じてしまい、やはり咄嗟には何も言えないでいる。

 しかしながら、ウェイトレスがそういう態度をとったのは少女が訳の分からないことを尋ねたからではなく、単に業務とは関係のないことで呼び止められたことに起因しているらしかった。

「はい。勿論知っていますよ」

「この人がティーバ王国のこと知らなくて、それで、本当に実在する国なのか疑い出したんです。ごめんなさい。仕事中に呼び止めてしまって」

「いえ、いいんですよ。ごゆっくりどうぞ」

 ウェイトレスが表層0.5ミリメートルのみで器用に笑顔を作りながらバックヤードへと去っていった後で、

「どうです? これで納得してもらえました?」

「うーん。夢を見ているみたいだ」

 僕は一切ふざけてなどいないのだが、ジョークだと受け取ったみたいで少女はアハハと声を上げて笑った。彼女が僕を現在進行形で騙しているようには思えなかった。少なくとも、あの客以上の親しみを僕たちに一切感じていなさそうであったウェイトレスと共謀して僕を騙しているようには。そもそも、この喫茶店へはどちらからともなく、更に強いて言うならば、僕の方から先導して入ったのだ。僕はサーブされてからまだ一切口をつけていなかったコーヒーを飲んでみる。グラスの中の氷がカランと音を立てる。特有の渋みと苦みが口の中に広がり、喉の奥へと侵入していく。味わいも風味も冷たさも、とてもリアルだった。これらが夢とは到底思えなかったから、僕の頭はにわかに痛み出すが、単に冷たいものを急に飲んだからのような気もする。

「一旦、ティーバ王国の存在を認めるとして、それで今その国がピンチなんだっけ?」

「はい、現在ティーバ王国は魔王の侵攻によって壊滅の危機に瀕しております。これを打開するために、貴方の力が必要なのです」

「魔王?」

「はい。魔王です。……もう一度ウェイトレスの方を呼んで訊いてみますか」

「いや、いいよ。もういい。……このペースで止まっていたらとてもじゃないけど今日中には終わらない気がする」

 そこまで言って、僕は溜まっていたガスを抜くかのように大きくため息を吐いた。吐いた分だけ身体はソファにぼすりと沈み込んだ。目を瞑り、一旦現実をシャットアウトする。そうして、良くない出来事に関わってしまったようだと己の不運を客観的に嘆いてみる。たまに外を出歩いてみても、これだから益々引きこもってしまうのだ。これから更に暑さは厳しくなっても来るだろうし、暫くまた家に引きこもっていよう。そうしている限り僕は安らかに眠っていられる。講義だって結局出ても全然何をやっているのか分からないのだし。……幾分の冷静さが戻ってきた後で目を開けると、彼女がただでさえ大きな目を更に大きく見開いてこちらを見つめていた。心配そうに。実に理不尽だ。一体何故、一抹の罪悪感のようなものを僕は抱かなければならないのだろう。

「大丈夫ですか? どこか具合が悪いんですか?」

「いや、具合は悪くない。と思う。……確信は持てないけど」

「では魔王は倒せそうですか?」

 そこにはグランドキャニオンよりも大きな論理のギャップがあったが、彼女はあくまでも真面目な顔をしている。

「やっぱり、ティーバ王国を救って欲しいというのは、その、僕に魔王を倒して欲しいってことなの?」

「ええ」

「魔王っていうのはそれで、どんな姿をしているの」

「私も実物を見たことはありませんが、きっとこの世の何よりも恐ろしい姿をしているのではないでしょうか」

 そう言って彼女は両の人差し指を目尻に、そして親指を口元にあてるとそれぞれを吊り上げて恐ろしげな顔を作ってみせたが、僕はそれにはあえて触れずに、

「なるほど」

と言って、意を決してまだ三分の二ほどあったアイスコーヒーを直接グラスに口を付けて一気に飲み干す。その際、また軽く頭に冷たさ由来の痛みが走る。だから持っていたグラスを置く動作がやや粗雑になり、閑静な店内にドンッと響き渡る。その音に反応して対面に座る少女の肩がぴくりと微かに揺れたような気がしたが、それも気が付かなかったことにする。鞄から財布を取り出し、小銭入れを探してみるが生憎丁度良さそうな金額の硬貨がなかったから、千円札を取り出しテーブルの中央のあたりに差し出す。少女の目線が紙幣の中の肖像画に移る、その隙を突いて椅子から立ち上がり、彼女のつむじを見下ろす。この間僅か十秒ほどの出来事である。

「悪いけど、もう少し探してみれば、きっと僕より最適な人はいくらでも居ると思うよ。じゃあ」

 そう言って立ち去ろうとした時、ガタリと年季の入ったテーブルが音を立てる。

「お待ちください! きっと、この世界のどこかには確かに貴方より適任な方がいらっしゃるのかもしれません。しかし事態は一刻を争います。そしていま、私の目の前には貴方しか居ないのです!」

 そう声を張り上げ懇願する彼女にはただの少女らしからぬ鬼気迫るものがあった。別に直接手を引かれたりされた訳ではないが、不覚にも面食らった僕は勢いを削がれ、バッグを抱え込んだままパタリとまた席に着いてしまう。それを見て、手をつき前のめりになっていた少女も姿勢を正す。

 僕たちはテーブルを挟んでまた向き合う格好になる。

「よく分からないけれど、僕は、……自分で言うのも何だけど取り立てて何かに秀でているわけでもない、ごく普通の、冴えない人間だ。僕なんかにその役目が務まるとは、到底思えないんだけど」

 言いながら僕は悲しくなる。仮に何かに秀でていたとして、すっかり文明に飼い慣らされた、現代日本に生きるおおよその人間に魔王討伐が務まるとは思えない。だからレトリックで口を衝いて出た言葉に過ぎないにしても、それでも、自分が冴えない人間だと言ってしまうことは、そこはかとなく自分のことを傷付ける。自分でさえ自分のことを信じられないとして、他に誰が信じてくれると言うのだろう。

 少女はしかし、力強い瞳で僕のことを捉えたまま、決して目を逸らさない。瞬きすら先ほどからしていないように思う。そのことに気がつくと、また僕はホームの時みたく一寸も体を動かせなくなる。何かが轟々と音を立てて近づいてくるような幻聴をさえ耳にする。

「いえ、貴方は取り敢えず条件を満たしました。ですからごその点はご安心ください」

「条件?」

「それは、ティーバ王国を救う決心がついたら話します」彼女は僕が何かを言うより早く、こう続けた。「とにかく、今夜二時に三鷹駅でお待ちしております。それでは」

 そうして呆然としている僕を置いて彼女は颯爽と出て行ってしまった。……

「あ!」

 そのため僕は、彼女が頼んだクリームソーダの代金まで支払う羽目になったのだった。

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