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 七月に入った。六月は、僕の元に重大なことは何一つ残していかないで、さらさらと降り頻る小雨のように去って行った。そうして長い梅雨が明けてしまうと、太陽は何の前触れもなくもう夏の姿をしていた。

 それは否応なく僕を焦らせた。

 流石にそろそろ期末試験の情報を集めないとまずいということで、今日、久しぶりに大学に登校してみたものの、どれもこれも悉く、ついていけなくなっていた。情報は集まらず、まずいという気持ちだけが僕の元に取り残された。フラストレーションと、もうどうしようもないという諦念が渦巻き、ループして、大したアプリケーションは入っていないのに処理速度が鈍重な頭をもはや支え切れず、俯きながら、何となく知り合いに会うと気まずいという後ろ向きな感情に突き動かされてのろのろとキャンパスを後にし、大学通りを囚人の面持ちで進み、駅へと至る。そうして更に、長いプラットホームの先頭付近まで移動すると、そこのベンチにどっさりと腰かけて、僕は電池の切れたおもちゃみたいに光の消えた目をして電車が来るのを待った。たまり場にされることを嫌ってわざわざキャンパスから二駅のところにアパートを借りていたのだけど、いま思えば杞憂だ。

 自動改札を通った時点で急いで階段を駆け上がれば、もしかしたら前の電車に間に合ったかもしれなかった。でも生憎そんな気力はどこにもなくて、そうしてラッシュ時ではないため次に来るのは十分も後だった。久しぶりに日中に外出したせいですっかり汗だくである。それに追い打ちをかけるが如く、高架のホームは屋根があっても風通しが悪いせいで結局蒸し蒸しとしている。このままでは電車が来る前に僕の身体が溶けて失くなってしまいかねない。

 通説として、大学という場所に人は、二年生になるとめっきり行かなくなるものらしい。原因は、例えば英語、第二外国語などの語学のクラス授業が無くなって専門科目のウェイトが増えるから、とか、悪いお友達や先輩に毒され麻雀などの逸楽に耽るようになるから、とか、単純に面倒くさいから、とか、諸説あるが、かく言う僕も、六月頃になると梅雨前線ごときにあっさりと打ち負かされて、親元を離れ一人で暮らしているうさぎ小屋のように窮屈なアパートに引きこもってしまうようになった。

 しかし、一方で僕は、何事もなければ来年一月の誕生日で二十歳になる。あくまで形式的なものに過ぎないが、それでもあと半年と少しで自身が成人という括りにカテゴライズされるという事実は、僕をこの上なく焦らせ、そして憂鬱な気分にさせた。焦ってもどうしようもないのだ。別に思い描いていた、確固たる大人の像なんてものがあるわけでもないのだから。

 ふと顔を上げると、迷い込んだ蜻蛉がふらふらと、僕の前を横切っていった。そうしてそれを目で追っていると、いつ間にか音もなく、一つ開けた隣の座席に、半袖の白いセーラー服を身に纏った、こんな環境でもどこか涼しげに見える少女が腰をかけていたことに気がつく。その彼女が、すっと立ち上がって黄色い点字ブロックのところまで移動してゆくのを見る。条件反射的に僕も立ち上がり彼女の横に並ぶ。それからまもなくアナウンスが流れる。しかしながらそれは電車の到着を告げるものではなかった。

「まもなく3番線を列車が通過します。危ないですから黄色い線までお下がりください」

 考えてみればさっき電車が行ってからまだ五分も経っていない。僕は余計な労力を使わされたことに対し苛立ち、聞こえるか聞こえないか際どい音量で舌打ちしてからまた座席へと戻ろうとする。しかしながらそこでふと疑問がよぎる。何故少女はこのタイミングで立ち上がったのだろうと。その時彼女はこちらのことなど全く意に介さずに只ひたすら線路の枕木のあたりを凝視していた。それを知り得たということは即ち、僕は小心者を発揮して横目で彼女の様子を盗み見たのであるが、そのことを直ちに後悔した。

 その横顔はその瞬間、陶磁器のように白かった。祖父母の家の玄関に飾ってあった、瀬戸かどこかで買ったというあの高級な人形によく似ていた。生気というものが全く感じられなくて、瞬きの合間に消えてしまいそうな、そんな危うさを孕んだ、僕よりも頭ひとつ分背の低い少女から何だか視線を外すことが出来なくなって、メデューサと目が合ってしまったかのように、僕の肉体はその場に磔にされてしまう。電車が轟々と音を立ててこちらへと迫ってくる。直感的に、僕は彼女がこれから線路に飛び込むのではないかと危惧していた。馬鹿げている。しかしながら電車が通り抜ける一秒前、無我夢中で僕は、すぐ隣の彼女の細く伸びる左腕の手首のあたりをギュッと握っていた。

 電車がホームを通過する様は僕に百鬼夜行という単語を想起させた。……何が言いたいのかというと、つまり、ホームには現在祭りの後に似た静けさが巣食っていた。危惧していた事態は起こらなかったのだ。起こらなかった以上は、僕はただの変質者である。我に返ると慌てて握った手を離したが、僕が握っていた箇所はほんのり赤く色が変わってしまい、元の肌が常人よりも白い分痛々しく映った。でも、彼女の陶磁器じみた顔は、全く平然としていた。そうして、僕を罵る代わりにこんな事を言うのである。

「貴方はいま、私を助けてしまった。ですから貴方には私を最後まで助ける責任があるのです」

「え、責任?」

「そう、責任です」

 責任、なんて言葉を普段、口にする機会もなければ、耳にする機会すらなかった。僕はまだ学生で、未成年で、それはまるで、自分とは関係のない、どこか遠くの国から船に揺られてやって来たむつかしい概念を無理矢理日本語に訳したもの、であるかのように空虚に響いた。

「僕が手を握ったために君に不快感を与えてしまったなら勿論謝るし、慰謝料?、で良いのかなこの場合、を請求してくれても構わない。申し訳ないが僕もまだ学生だからそれ程お金を持っている訳ではないけど」

 言っているうちにその場から泡にでもなって消え入りたくなってきて、声は小さくそして早口になる。それが却って匂い立つ不審者っぽさを増幅させていることに言い終わってから思い至る。彼女は、不思議そうな顔をしている。一体この男は何を言っているのだろうと。

「別にお金は要らないです。ただ私は、私のことを助けて欲しいと申しているのですが」

 一体僕は彼女から何を頼まれるのだろう。彼女は僕なんかに、何を頼むと言うのだろう。特にこの後なんの用事がある訳でもないし、また今日に限らず予定らしい予定など今後も、強いて挙げるとしても授業以外特になかった。またここで下手に無下に扱って「やっぱりこの人変質者でした」と警察に突き出されると僕は言い逃れ出来ない。何より、一刻も早くこの場を離れてしまいたかった。こめかみの辺りにかいた汗が顎まで滴って、ぽたりと地面に垂れる。

 とりあえず彼女の話を聞くべく、僕たちは電車に乗らずに一旦改札を出ることにした。

 そうしてそのまま、どちらからともなく近くの、看板が目についたシュベールという喫茶店に入ることになった。喫茶店は建物の二階にあり、外からは中の様子が伺えなかったが、幸い店は混んでいなく、入るとすぐに窓際の席に通された。喉が渇いていたから僕は即決でアイスコーヒーに決め、少女は少し悩んだ末にクリームソーダを頼んでいた。窓から差し込む日差しはレースのカーテンによって幾分弱められており、そうして空調の効いた室内において、それは僕を苦しめることなくただ店内の雰囲気を淡く穏やかにすることに一役買っていた。その中で彼女のその見た目よりも一層少女らしい様子を眺めていると、一体僕は何故、先ほど、彼女が自殺を図ろうとしているんじゃないかと思い違いをしたのか、不思議になる。

『クリームソーダ』

と、

『死』

はきっと磁石のS極とN極のように相反する概念に違いなくて、考えている内僕はまだ彼女の名前すら聞いていないことに気がつく。自己紹介をするべきなのか、するべきなのかもしれないけれど、特段自身の中に人に紹介できるような材料など何もなかった。自分の紹介はろくにせず人に対してだけ促すのはただでさえ失礼な気がするし、しかも相手が彼女みたいなそれほど歳の離れていなさそうな少女だと、何だか更に下心めいたものがあるようで気持ち悪い。でも何か会話のきっかけがないと彼女の方でも本題に入りづらいだろうし、そういうアイスブレイクを用意するのは年長者の務めなのではないか。いや、でも……。そんな風にうだうだと迷っている内に僕たちの頼んだメニューは卓に提供されて、対面の少女は「いただきます」と呑気に言うと早速フロートスプーンでアイスを崩しにかかり、その小さな口に運ぶや否や冷たさに無邪気に目を閉じたりなんかしている。僕はぼうっとそれを眺めて、自分の喉が渇いていたことを忘れている。

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