ネバーランド
@otaku
プロローグ
僕の傍らで寝転ぶ彼が、これは夢かもしれないと呟いている。彼の傍らで同様に寝転ぶ僕は、顔を空の方に向けたまま、どうしてと尋ねる。視界の端に映る地平付近の空はその時もう茜色をしており、季節は夏だから、いまはもうそれなりの時間である。
「時が過ぎるのがあっという間だからだよ」
そう彼は事もなげに答えた。確かに時が過ぎるのは彼がいう通りあっという間だった。元々今日僕たちは、そろそろ終わる夏休みの片付けなければならない宿題を何とかするべく集まったはずだった。それなのに、ろくにそれには手をつけないまま、休憩という体で外でキャッチボールをしようという話になり、すると彼が大暴投をしてボールが茂みの方へと行ってしまい、ボールはどんなに探しても見つからず、嫌気が差して草むらで大の字に倒れ込み、そうして今である。
でも、一方で、いつもそんなもののような気もしたから、そのまま、
「いつもこんなもんじゃない?」
と僕は言う。言いながら、刻一刻と太陽は僕たちの寝そべる大地の裏側へと落ちていく。裏側ではこれから夜が明けていくのだろう。
彼が、体勢は変えずに顔だけをこちらに向ける。それを横目で捉えながら僕は空を飽かずに眺めている。地平の様相とは異なり真上の空は依然透き通る青色をしたままである。
「いつもっていつから?」
彼の口がこちらを向いているからか、音が質量を持った塊になって、僕の鼓膜にボカンとぶつかってきたような心地がする。夢ならばきっとそういうことが実際に起きていても不思議はない。
「大袈裟かもしれないけど、昨日夏休みが始まったような気がしてる」
「分かるわーそれ」
そうして僕たちは、対して面白くもないのに大袈裟に笑い合う。地面が揺れているようにすら錯覚する。地面はひんやりと冷たい。それは僕たちが熱を帯びているからだ。
「だから多分、ずっと夢を見てるんだと思うんだよな」
ひとしきり笑った後で彼が話を戻した。
「時間の進みが早いと夢を見てるってどういうこと?」
僕も、先ほどは軽く流したけど、ふと気になってそこで尋ねてみる。
「夢を見てる時に、この夢長いなって思うことないからさ」
遥か上空を渡り鳥が集団をなして飛んでいく。彼の話を聞きながら、どうせ夢ならばああいう存在になってみたいとぼんやり思う。それはプールの後の4限の授業のようにぼんやりとしている。鳥がどういう理屈で飛んでいるのか僕にはさっぱりわからなくて、夢とは言い条、僕の思考の顕れである以上、僕の想像の届く範囲外に出ることは叶わないのだろう。
鳥はあっという間に彼方へと飛び去っていき、僕のいる地点からは見えなくなる。
「逆に退屈なのはいつだって現実なんだよ」
「小林先生の話とか?」
「よく分かってるじゃん」
小林先生は僕たちの担任で、四十代の男性教員である。先生はつまらない現実そのものという趣があり、先生でありながら、先生を見ていると、僕はあんな大人になんかなりたくないなとつい思う。
「でも、仮に夢だとしたら、いまこの時は、どちらが見ている夢なんだろう」
そう問いかけた後で僕は初めて彼の方に顔を向けた。彼はずっとこちらに顔を向けたままで、長らく久しぶりに僕たちは目が合ったような気がした。彼の薄茶色の瞳はどこか空虚に映る。人の瞳を近くでまじまじと見つめることなどそうないから、そう思うだけかもしれない。
「それはまあ、俺の方じゃない?」彼はその口元に笑みを浮かべながら言った。「俺が言い出したことなんだから」
僕はその答えに勿論腑に落ちない。
「じゃあ僕は、君の脳が作り出した空想ってこと?」
「そういう事になるね」
「本当に?」
「ああ」
僕は勢いよく上体を起こし、四つ這いになって寝ている彼の顔を覗き込んだ。
「それならいま僕が何を考えているか分かる?」
そう問われた彼は、目を閉じてうーんと唸り声を上げる。僕の顔が夕日を遮って、彼の顔には雑居ビルの路地裏のように薄暗く影が落ちているから、何だか本当に眠っているみたいに映る。或いは死んでいるように。
一陣の風が吹いて、ザワザワと遠くで木々が音を立てる。
目を瞑ったまま、彼が真面目な顔をして言った。
「アイス食べたい、かな」
僕はその時、彼に質問しておいて、特に何についても考えてなどいなかった。一から十まで彼を困らせるためにした質問で、強いて言うならば彼はどんな事を言うのだろうかと考えていた。だから彼が何か答えを言うなり文句をつけようとしていたけれど、思えば別に、好き好んで喧嘩がしたい訳でもないし、その答えがまた、あまりに馬鹿らしかったから、僕は乗っかる事にした。
「アイス買いに行く?」
「アリだな」
そうして僕たちは自転車を走らせてコンビニまで向かう。県道脇の田んぼではもう稲穂が黄金に色をつけ始めている。それに見惚れていると、前を行く彼の自転車のガチャンガチャンという音が随分と遠くになっていることに気がつく。待ってよと呼びかけて、でもその声は決して彼の元まで届かないから、僕は自転車のギアを一段上げる。重くなったペダルを立ち漕ぎすると僕の自転車もまた、壊れるんじゃないかと不安になるくらい甚だしい音を立てて風を切る。ここは海が近いから、新品の自転車でさえ、きちんとメンテナンスをしなければ一年ほどでそうなってしまう。
一足遅れでコンビニに着くと、彼は律儀に店先で僕の到着を待っていた。
「先に入ってて良かったのに」
僕が息を切らせながらそう言うと、
「実は財布持ってきてなくて」
とポケットに手を突っ込んだまま、照れ臭そうに笑った。
「明日返すから貸してくれよ」
「しょうがないな全く」
自転車を全力で漕いだことでアイスよりも飲み物の気分になっていたから僕はコーラを、他方彼は初志貫徹をしてカップのバニラアイスを買った。軒先のゴミ箱の横にしゃがみ込んで、そこでお互いの買ったものを何となくそうしたくなって乾杯させる。僕はキャップを開けると一気に三分の一ほどを体内に入れ、思わずゲップが出る。隣で彼が汚いなと言って笑う。彼は、アイスが手の熱でいい具合に溶けるのを待ちながら、ぼんやりと僕たちも通ってきた県道の往来を眺めている。無駄に大きい駐車場を隔てているから喧騒は絶妙に遠く、ぼんやりと眺めるのにそこは適していた。
こんな田舎でも、県道では絶えずどちらかの向きに車が過ぎ去っていった。車はどれもヘッドライトを点灯しており、夜がもうすぐそこまで迫っていることを僕たちに示唆している。
彼が一台の大型トラックを指さして、
「あれは一体今からどこへ向かうんだろうなあ」
と呟いた。皆目見当もつかなかったけど、僕は、
「空港か、もっと先の東京の方じゃない?」
と答える。彼に続く言葉はない。でも別に気まずさなどは感じていなくて、僕もぼんやりと物思いに耽ることにする。すっかり汗は冷えてきて、心地よい涼しさがあるから、何だか頭はいつもより冴えてくるような気がして、でもそうした時に脳裏を掠めた気づきのようなものは、大抵後からでは不思議と思い出せないのである。
その時僕は漠然と、遠くの土地について考えることは遠くの未来について考えることと、とてもよく似ていると思った。そうして近くの未来−−片付けなければいけない宿題のことや、もうすぐ日が落ちてしまうことなど−−について考えることは嫌いだったけど、遠くの未来に想いを馳せるのはそれ程悪くなかった。
五分ほどそうしていたら、ある時「お兄ちゃんー!」と呼ぶ声が通りの方からして、人影がこちらに近づいてくる。すると彼が「よくここにいるって分かったなあ」と言って笑う。少女は彼の妹で、もうすぐ夕飯ができるというのに中々家に帰らない兄を迎えに来たのである。
「お兄ちゃん、夕飯前にアイスなんか食べていけないんだ」
「じゃあお前は食べなくていい? 一口あげようと思ってたけど」
兄にそう問われて、少女は幼いなりに葛藤していたけれど結局「食べる」とぽつりと返事をし、そうして彼が夕飯前にアイスを食べたという事実は隠蔽される。
一口と言っていたけれど、それからは殆ど同じ配分で彼と妹はアイスを分け合っていた。食べ終えるとそこのゴミ箱にカップを捨てて、彼は「じゃあまた明日な」と僕に言う。
「うん、また明日」
彼らがコンビニから立ち去り県道を進んでいくのを、僕はその場でしゃがみながらずっと見ていた。彼らの姿が見えなくなった後で、僕もそろそろ帰らなければと思い、ペットボトルの残りを一気に飲み干して立ち上がる。
しかしそこで、果たして僕は、どこに帰ればいいんだろうかという問いに行きあたる。
助けを乞うように仰ぎ見た空は一面墨汁を垂らしたかのように黒く、今日という日はもう、疑いようもなく夜になっていた。
すると冷えた汗から僕は涼しさではなく寒気を感じ始めている。
振り返るとコンビニは跡形もなく消滅している。
僕はその場に立ち尽くす。でもそれは、どうすれば良いか分からないからではなく、どうすれば良いかがありありと分かってしまったからである。
けたたましい警笛音が鳴る。僕はうめき声を上げながらそれを止め、手元に引き寄せる。
スマートフォンの液晶に表示されている時刻は丁度八時である。もう起床しなければ授業に間に合わなくなる。
そんなことを考えている瞬間にはもう、僕はどんな夢を見ていたか殆ど忘れ始めつつある。
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