海の花嫁
瑛
悪魔の子
Prologue.0 猫
名の無い猫だった。真っ白な毛並みと右に月、左に太陽を持った猫だった。
その猫はある日、何処からともなく現れ、その宮殿に住み着いた。
宮殿の主である少女はいつの間にか同居していた猫に名を付ける事はなく、存在を咎めることもなかった。不遜な猫は、それを許容と判断した。
飼い主と飼い猫。そんな名前が付くほどの大層な関係ではなかったが、それくらいの距離感が猫にとっては心地よかった。
張り詰めた湖のような少女の揺らぎを見たくて、沢山悪戯してみたこともあった。花瓶を落としてみたり、読書の邪魔をするように本の上に乗っかってみたり。朝起きたばかりの少女に向かって、飛び掛かったりもした。
けれど、少女はどの悪戯にも応えることはなくて。真夜中の湖畔のような静けさのまま、猫を見ていた。
そのカナリーイエローの瞳に、猫は拗ねて悪戯をやめた。怒られた訳ではなかったけれど、これ以上続けても何も得られない気がしてやめたのだ。猫は賢かった。
言葉のない同居生活は猫が思ったよりも、長く続いた。
向日葵に見下ろされていた彼女が、いつの間にか向日葵と同じ目線で立っていた。年月が経ったことはそれだけで分かった。
「……」
いつも本を読んでいるバルコニーで、その日、少女は本ではなく一枚の手紙を持っていた。
本を追う瞳と何ら変わらない色で淡々と手紙を読んでいる。猫はとんっとテーブルに乗り、覗き込むようにして手紙を見た。
猫は人間の文字が読めた。
それは手紙と呼ぶにはあまりにもお粗末なものだった。
――537年5月13日。アデル・A・アティアトラに対しハイエンド監獄への視察を命ずる。
猫は己の目を疑った。そのたった一文に驚いた猫は足を踏み外し、うっかりテーブルから落ちてしまった。上手に翻って、無事に着地したが両の目はまだまん丸になったまま。
手紙に抗議するようににゃぁにゃぁと鳴いてみるが、少女は手紙を置いて、読書に戻ってしまった。
ハイエンド監獄と言えば、世界各国の大罪人を収監する海中監獄である。噂によれば中では殺人や窃盗が横行し、死体がそこら中に転がっている無法地帯。深海の地獄とも呼ばれ、看守でさえ一日に数十人と殺される場所だ。
そんな場所に視察など、死刑宣告に近い。
手紙はアデルにそこで死ねと言っていた。
にゃぁともう一度強く鳴けば、少女は視線を少し下げ、未だ不慣れな手付きで白くて丸い頭を撫でてくれた。離れていく手に前足を添えれば、少女はお面のような表情のまま、耳を潰すように撫でた。
遠くで抗議するような波の音がした。
綺麗なしっぽがぺしゃりとバルコニーの床を叩いた。
月明りに照らされた白い頬が眩しく輝いている。汚れ一つないシーツに沈む少女は、死んでいるかのように眠っていた。猫はそのそばに座って、少女が眠りに落ちるのをしっかりと見守った。
猫は少女の頬を肉球で優しく叩き、起きない事を確認して月から少女を隠すようにカーテンを閉めた。
あまり物音を立てないように扉を閉め、猫は廊下へ出る。
この宮殿は太陽が賑やかな昼も、月が支配している夜も、静かである。鳥の声も木葉が擦れる音もしない。するのは波の音だけだ。
赤い絨毯の上に猫のしなやかな影が落ちる。陽の光がたくさん入るようにと設計された窓から少し欠けた月が、猫と踊るように付いて来ている。
「にゃ……?」
猫が足を止めた。
小さな蝋燭の光がぼんやりと廊下を照らしている。ゆらゆらと風もないのに揺れるか細い灯が、不気味だった。猫の視界の先、真っ白なカスミソウが活けられた花瓶の傍らに人の形をした人ではない何かが居た。
猫が一歩近づけば、月も近づいて。月の光がその影を照らし出した。
そこには、この世の者とは思えないほどに美しい男が立っていた。
何も描かれていないキャンバスの白肌は造り物のようだった。カスミソウを見下ろすカナリーイエローの瞳は僅かに鋭さがあり、花を視線だけで切り裂いてしまいそうだ。すっと伸びた鼻も薄く形のいい唇も、全てが完璧に配置されている。
張り付けられた笑顔が、人間らしくなくて猫には心底恐ろしく見えた。
「おや」
花に向けられていた目が猫に下ろされる。
びくりと毛並みを震わせて、猫は一歩後ずさった。
「君は、彼女の猫だね?」
一歩、革靴が絨毯を踏む。
男はにこりと笑って、猫に向かって歩いてくる。
猫に対して目線を合わせる事もしない男は、質のいい紳士服を身に纏っていた。革靴は新品同様に磨かれ、歩く姿は緩やかでありながら上品であった。
そこだけを見れば、顔が整った貴族の人間の男に見える。だが男には一つだけ、異質な部分があった。
決して普通の人間は持ちえないもの。
猫の前に、黒い羽根がひらりと落ちた。
男の背中には月を覆い隠せる程の、大きな黒い翼が生えていたのである。
「薄明の猫、君はあの姫君を救いたいと思うかい?」
海の花嫁 瑛 @yana_0213002
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