第7話 趣味は釣り

 潮騒が風と共に流れていく。

 人のいない船着き場の桟橋に寝そべったオウジは、海に釣り糸を垂らしていた。


 自作の竿が、風に揺れる。

 彼の隣では、同じように黒犬が伏せていた。


 穏やかな日差しが、妙に心地よい。

 釣れた魚の処理方法は、日干しにしてオウジの晩酌のつまみとなるはずだ。


 彼の今日の仕事は、サボりである。


 場末で零細の冒険者ギルドにとって、『英雄』ゲルダの持ち込んだ話は処理しきれない。


 王都のギルド本部へお伺いを立てるのにも時間が掛かる始末だ。

 朝からギルド長が本部に呼び出され、副ギルド長のカンサスも情報処理に追われている。


 本来であれば、オウジは保護対象として冒険者ギルド本部に護送されるべきであるが、それは嫌なので逃げ出していた。


 自宅にいると捕まるので、こうして海釣り中なのだ。


 竿先が海中に向かって引かれた。

 力強く引っ張り込まれる。


「……おっ」


 彼は慌てることなく、竿を持った。


 しなる竿で魚の引きをいなし、糸が切られないように力を流す。

 逃げる魚の方向を竿で感じ、潜られないために竿を立てる。


 魚が疲れてきたところで、手前へ寄せる。

 のべ竿なので、竿の長さが糸の長さだ。


 竿を天に向けて立てると、魚影が姿を現した。

 根魚で顔は厳ついが、形も良く美味しい出汁の出る魚だった。


「汁にするかな、刺身で食べようか……」


 結局、身を刺身にして、アラを汁で食べることに決めた。

 陸に釣り上げた魚は、躍って跳ねる。


 住む世界を奪われた結果だ。

 申し訳ない気もするが、この魚は美味しい。


 腹が減って、何も食べ物がなければ、美味い美味いと貪り尽くすだろう。

 結局は、罪悪感もその程度だ。


 黒犬が顔を上げた。


「また妙なことを考えていますね、旦那様」


「俺とは口を利かないんじゃなかったのかい?」


 オウジは犬の顔を見ずに、魚の鰓に縄を通した。

 逃げられないよう縄の反対側を桟橋に括りつけて、海に戻す。


 そしてようやく、黒犬を見た。

 彼は失笑する。


「どういう風の吹き回しだろう」

「それは旦那様が、私を愛称で呼んだからです」


「……そうだっけ」


 彼の記憶には、少しも残っていなかった。


 ――――セファル・アレス・リオヌス。


 彼女のフルネームを思い出し、良かったボケてないぞ、と謎の安心感を得る。


 気を取り直して、釣り針に餌を付けて海に落とす。

 海底から少し浮かして、そのまま竿を桟橋の手すりに立てかけた。


 オウジは欠伸をしてから、再び桟橋に寝転んだ。


 ぎし、と桟橋を踏みしめる音がする。

 何処かで感じたことのある殺気だった。


 細身の男性が歩いてくる。


「これを見ろ」


 目鼻立ちが整った、美麗と称して申し分ない美男子が、紙束を見せつけてきた。

 薄い手袋に包まれた長い指が、その表紙を捲る。


 手袋の下にある義手が、カチリと鳴った。


「『断鎧のゴルホス』の資料を集めてきたぜ」

「何やってんの、本業の道具屋より夜の喫茶店の方が儲かってる道具屋さん」


 オウジは資料に見向きもせず、ぼうっと海を見つめていた。

 ケッセルで道具屋を営んでいる美男子――――ノルトが言う。


「うるさい! セファル様に頼まれなければ、誰が今の貴様に援助などするものか! 大体だな、監視としてペルムだらけの洞窟に入らされる我の身にもなってみろ!」


「ああ……そういえば妙な殺気してたね。ご苦労様」


 いきり立つノルトを無視して、彼は黒犬を見た。

 特に何の感情も込めずに言う。


「何でこんなの用意したの?」

「必要になるかと思いまして」


 セファルの表情に変化はない。

 ひたすら真摯に、彼の心を見つめてくる。


 それでもオウジの心境に変化はない。


「いらないなぁ。だってもう年寄だよ? 腰だって痛いし、毎日を生きるので精いっぱいだ」


「それでもまだ、心の火は燻っていらっしゃるじゃありませんか。昔の女に会って、情がわきました?」


 黒犬の目が細められた。

 浮気を疑う女房の視線である。


 彼にとって、そんなものを向けられる筋合いはない。


「……手を出すわけないだろ。何年前の話だと思ってんの。あの子も当時は娘子だよ? 真剣勝負の怖さを教えてあげただけさ。取り返しのつかない怪我をする前にね」


「そうやって、恐怖と恋心を彼女に刻み込んだのですね」


 セファルの追及が終わらなかった。

 どうも拗ねているようだが、犬の所為で表情が読みにくい。


 それに彼女の表情が見えていたところで、オウジにそんな微細な変化はわからなかった。


 だが、彼女を黙らせるには、良い方法がある。


「ん」


 オウジは胡坐をかき、とんとん、と自分の膝を叩いた。

 黒犬が上目で見つめる。


「……そうすれば、私が黙るとお思いですね? まあ私もですね、旦那様が満足されるなら、どのような発散方法でも良いのです。どんな女に気をやろうとも、私が旦那様のお傍を離れなければ問題ないのですから。ええ、わかっておりますよ。私とて、もう若くはないのです。けれども――――」


「いいから来い。お前が良い」


 警戒しながらも近づいてくるセファルを両手で捕まえ、膝の間に押し込んだ。

 緊張して四肢を真っすぐピンと伸ばした黒犬が、変な声を出した。


「――――ふわうぁっ」


「海でも見て落ち着きなよ」


 オウジは遠くを眺めながら、黒犬を撫でる。

 眉間から頭、背中から尾に至るまで、丁寧に手を這わせた。


「ふ、ふぅぅぅぃぃぃぁぁぁぁぁ」


 セファルの手足がゆっくりと弛緩し、恍惚とした表情が見て取れる。

 これで暫く撫で続ければ、余計なことを言うこともないだろう。


「あ、そこは、こんなところで……でも、旦那様となら……」


 たまに腹側も撫でてやると気持ち良さそうにするので、何とも撫で甲斐がある。


「き、貴様という奴はぁ!」


 今度はノルトが顔を赤くして、怒髪天を突いていた。

 しかし、この男は放って置いて構わない。


「くうっ、姫様、なんという幸せそうなお顔で、このノルト、どうすればっ」


 こうして勝手に膝を着くのだ。


 オウジは視線を竿先に戻し、釣れないねぇ、と呟いた。


 ぱたりぱたり、とセファルの尻尾が気持ち良さそうに揺れる。

 波の音と、穏やかな日差し。


 そして、あまり釣れないのはいつものことだ。

 このまま過ぎていくのかと思われた、その時であった。


「――――」


 ノルトが表情を鋭いものに変えて、桟橋の向こうを睨んだ。


 その先には、冒険者と思しき人影が近づいてきている。

 ぎしり、と床板が鳴る。


 その冒険者が、ノルトの間合いから外れたところで止まった。


 頭から深く外套を被って、視線すら見せない。

 日頃から素面で表を歩けぬ日陰者だろう。


 薄っすらと血の匂いすら漂うその気配だと、殺した数は両の手を使ってもまだ足りない。


 その冒険者が、桟橋の上に紙の包みを放り投げる。

 薄く笑った口元だけを印象に残し、そのまま背を向けて去った。


「ちっ」


 ノルトが汚物でも踏みつけたときの態度で、その紙包みを拾い上げた。


 その中には、一房の髪束と、一本の小指が入っていた。


 オウジにとっては、見覚えのある髪色だった。

 まだ若い、少女の小さな小指が、紙の上で転がる。


 撫でられていたセファルが、主人を心配して、下から顔を覗き込んだ。


「……旦那様?」


 オウジは、彼女を撫でるのを止めなかった。


 ただ、目つきだけが鋭く尖っている。

 竿先を睨みつけ、細身の美男子に命令する。


「ノルト、読め」

「ああ……この紙か」


 髪束と小指を大事そうに懐へ入れたノルトが、紙に書かれた文を読む。


「我、本懐を得たり。最初の地にて決闘を申し込む。貴殿が来ない場合は、娘らの四肢を落として慰み者にする所存――――」


 途端、ぎしりと歯噛みの音が響いた。


 セファルもノルトも、驚きはしない。

 この男が、こうであることに、何の疑問も抱かない。


 オウジの歪んだ口元から、怒気が漏れ出る。


「本懐、だと。この俺を、舐めおったな……。人質を取らねばと出てこられぬと、侮りおったわ! ノルト! 湿布を持て!」


「了解した、大将。それでこそだ」


 真面目な顔をしたノルトが、腰裏の道具袋から常備している湿布を取り出す。

 立ち上がったオウジの腰に、薬草を煎じて練り込んだ特性の湿布薬を張り付ける。


「効き目は一晩だ。効果が切れたら、倍の激痛が襲うぞ」


「それが、どうした」


 オウジはノルトを睨みつける。

 その目が血走っていて、正常な判断を下しているかどうか怪しいが、一つだけ確かなことがあった。


 この男は、今でも東方の蛮族であるということだ。


「旦那様、具足はご準備できております。あれから何一つ、手入れを欠かしておりません!」


 黒犬が懇願するように、身体を起こした。

 オウジは、ほんの僅かに口元を緩める。


「褒めて遣わす。後で存分に愛でてやろう」


「――――お待ち申しております」


 彼女の黒髪を一撫でして、彼は桟橋に足を叩きつけて歩いた。


 人相まで変わってしまう程の形相で、一念を果たしに突き進む。

 その手に大太刀が握られるまで、それほど時間は掛からなかった。




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