第55話


 にゃあッ‼︎


 マンフレットがエーファへと足を一歩踏み出した瞬間、それまで彼女に寄り添っていたエメが呻き声を上げた。そしてそのまま勢いよく地面を蹴り上げ飛躍するとマンフレット目掛け飛び掛かって来た。


「っ‼︎」

「エメ⁉︎ やめなさい!」


 様子がおかしいと気付いたエーファが顔を上げ、エメを叱責し止めようとするのが視界に映った。その時には既に顔に鋭い痛みが走り、かと思えば今度はカプリッと鈍い音が聞こえた。手を見るとエメが左手に噛み付いていた。

 

「マンフレット様っ、大丈夫ですか⁉︎ エメ、離れなさい!」


 必死にマンフレットの心配をする彼女の目は赤くなり痛々しいくらいに涙痕が分かる。そんな姿に、奥歯を音が鳴る程に噛み締めた。


「良い……」

「良い筈がありません!」

「良いんだ……。エメは愚かな私を叱ってくれているだけだ」


 噛み付いたまま唸り声を上げ、マンフレットを睨む瞳は潤んで見える。猫が涙など流す筈がないと分かっているが、まるで泣いている様に見えた。

  

「エメ、もう君の主人を傷付けないと誓う。だから彼女と話す事を赦して欲しい」


 じっと見極める様にして此方を窺い見ていたが、暫くするとゆっくりマンフレットの手から口を放した。耳を垂らしエーファを一瞥すると、とぼとぼと部屋の隅に移動すると丸くなった。


「マンフレット様、手当を……」

「いや、平気だ」


 歯形はついているが出血はしていない。仮に流血したとしても自業自得だ。文句など言える立場ではない。それにあれだけ怒りを露わにしながらも、手加減はしてくれていた。それはきっとマンフレットの為ではなく、エーファの為にだろう。優しい彼女が悲しまない様に……。まさか猫に対して敗北感を味わう日が来るとは思わなかったと情けなさに自分で呆れた。


「それよりも、エーファ……君と話をさせて欲しい」


 彼女は一瞬身体を震わせ、少し戸惑いを見せるが頷いてくれた。




 膝を突き合わせ向かい合う。彼女は気まずそうにしているが、敢えて側に腰を下ろした。先程までの勢いが嘘の様に身体を縮こませている様子に、マンフレットは苦笑する。


「さっきは責める様な事を言ってすまなかった。君が屋敷を出て行くと聞いて、頭に血が上ってしまった」

「……」

「離縁の事は失念していた訳ではない。ただ考えない様にしていたのも事実だ。自分で息巻いておいてそれを撤回するのが情けなく恥だと思っていた。先程も話したが、君には私の気持ちを伝えてある故分かってくれていると言い訳をして逃げていた。口付けをして受け入れて貰えたと一人舞い上がり、君も私と同じ気持ちなのだと思い込んだ。誰よりも君を理解しているのはこの私だと、信じて疑わなかったーー私は愚か者だ」


 他者に対して、こんなにも自分を曝け出す事は初めてだ。過ちを認め、ただ素直になる事がここまで怖い事だとは思わなかった。大きく美しい琥珀色の瞳から耐えきれず、マンフレットは目を逸らす。

 そう考えるとエーファの方が遥かに勇敢だと思う。彼女は話している間、一度たりとも目を背ける事なく真っ直ぐにマンフレットを見ていた。きっと相当な覚悟だった筈だ。


「エーファ」

 

 居住まいを正し、まだ少し痛む手をキツく握り締めると再び彼女を見据えた。

 曖昧なまま放置した挙句、彼女を此処まで追い詰め傷付けたのは他ならぬ自分だ。ギーから言われた通り、もっと彼女の話を訊くべきだった。今更だと分かっているが、エーファと向き合いたい。


「君を愛さないと言った事を今は悔いている。君がブリュンヒルデの妹だという理由だけで、君の事を何一つ知りもせず酷い態度をとってしまった。今は短絡的だったと自分を恥じている。今更何を言っているんだと思うだろうが、謝罪したい……すまなかった。この一年、君と過ごす内に気付けばどうしようもないくらいに君に惹かれていた。君を知れば知る程愛おしくて仕方がないんだ。君がいなくなるなんて考えられないっ……考えたくもない。君が私の元を去り、他の男のものになると想像しただけで気が狂いそうになる。他の男が触れるだけでも赦せないーーエーファ、君を愛している。今直ぐに信じてくれなくても良い。私は君を手放せない、離縁したくないんだ。手前勝手な事を言っていると自覚している。だがどうか私が君の側で君を愛する事を赦して欲しい」

 

 一頻り話終えるが、エーファは黙り込んだままだった。嫌な汗が身体中を伝うのを感じた。心臓が早鐘の様に脈打ち、破裂するのではないかと本気で思えた。


「良いんですか……。私、お姉様みたいに完璧な妻にはなれません」


 マンフレットはエーファの意外な言葉に苦笑した。皮肉や嫌味などではなく、真実を知った今でも尚ブリュンヒルデの事をそんな風に言える彼女には、きっと一生敵わない。


「ブリュンヒルデは関係ない。私に完璧な妻は必要ない。私に必要なのは、エーファ、君なんだ。君が私の側に居てくれるなら、この先どんな困難が待ち受けていようとも乗り越えられるーー私は、君と生きたいんだ」

「マンフレット様……私は貴方を愛しても良いですか?」


 小首を傾げ、まるで花が咲く如く可憐に微笑む彼女の大きな琥珀色の瞳からまた雫が溢れ落ちた。その瞳も溢れた雫も宝石の様に美しい。

 彼女の頬に触れ雫を指で拭うと、その手を取られ小さな両手で包まれた。


 






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