第54話


 鎮痛薬の効き目が悪く中々頭痛が治まらないマンフレットは、仕事もそこそこに仮眠を取ることにした。普段仮眠を取る時は、小一時間も経てば勝手に目が覚めるのだが今日は違った。

 マンフレットが目を覚ますと部屋は薄暗く、小さな洋燈に一つだけ灯が灯っていた。直ぐに頭にギーが浮かぶ。灯りを入れに来たのなら、ついでに起こしてくれればいいものの……。

 身体を起こし時計を確認すれば、短針は九の文字を示していた。思っていた以上に眠っていた事にため息を吐く。確りと睡眠をとった為か、頭痛は治っていた。だがその代わりに仕事が滞ってしまった。

 

『今夜は徹夜だな』


 マンフレットは自室を出ると迷わず執務室へと足を向けるが、数歩歩き踵を返す。


(まだ起きているか……)


 今日は朝に顔を見たきりだ。せめて「お休み」くらいは言いたい。そのついでに時間はそんなに取れないが、少し雑談するくらいなら構わないだろう。

 マンフレットがエーファの部屋に方向転換をし廊下を歩いていると、人の気配を感じ思わず足を止めた。使用人の誰かだろう。普段なら気にも留めず素通りするのだが、まだ寝惚けているのかも知れない。妙に気になった。


『ニーナ、泣いちゃダメよ』

『でもっ、ゔ……奥様がいなくなってしまうなんて……。私、寂しくてっ……』


 聞き耳を立てると、廊下の曲がり角の先から女が啜り泣く声が聞こえてきた。そしてその会話の内容に一瞬にして頭が真っ白なる。


(いなくなる? 誰がだ?)


『でも離縁なんて……信じられないわ。最近はお二人共とても仲睦まじくなさっていらっしゃったのに……』

『離縁とはどういう事だ⁉︎』

『だ、旦那様⁉︎』


 人生の中で廊下を走るなどした事があっただろうか。いやないと断言出来る。そもそもそんな品の無い発想自体持ち合わせていない、筈だった。気が付けば身体が勝手に動いていた。


 エーファが明日、屋敷を出て行くーー。


 廊下を疾走しながら頭の中は延々と先程の侍女達の言葉が繰り返されていた。



 余裕のないマンフレットはエーファの部屋の扉を乱暴に開け放った。部屋に入ると目を丸くした彼女が此方を見ていた。


 何故何も言わず勝手に屋敷を出て行こうとしているのかーーエーファに事情を訊かなくてはならない。無論あくまでも冷静にだ。頭ではそう考えていた。だが奇麗に片付けられている部屋に小さなトランクケースが一つ置かれている光景が目に入り、一瞬にして頭に血が上った。マンフレットは捲し立てる様にエーファに詰め寄る。


「明日で丁度、私がマンフレット様に嫁いで来てから一年なんです」

「っ‼︎ーー」

「一年後、離縁すると仰られておりましたので」

「き、君は、私と離縁したいのか」


 淡々と事実を彼女から告げられ心臓が跳ねた。失念していた訳ではない。だがエーファには既に想いを告げており、昨夜も口付けをしても彼女は拒絶する事もなく自分を受け入れてくれた……そう思っていた。だが本当は嫌だったのだろうか……。だから別れも告げず自分の元を去ろうとしているのか。


「いいえ」

「なら何故だ……。私は君に気持ちを伝えた筈だ。私の気持ちを知りながら去ろうと言うのか」

「あの時マンフレット様は熱に浮かされているとばかり……なので本気だとは思いませんでした」


 確かにあの時はまだ熱に浮かされ床に伏せており、心身ともに完全ではなかった。だが彼女に伝えた想いに嘘偽りなどないと誓える。


「なら君は、私が欲求を満たす為だけに口付けたと思っていたのか? 心外だ! ……それに君は嫌ではなかったと話していただろう。まさかあれは嘘だったのか?」


 何一つ彼女へ気持ちが伝わっていなかったと思うと苛立ちが隠せない。悔しくて悲しくて、寂しい。

 以前から鈍感だとは分かっていたが、そこもまた愛おしく感じていた。だが今はエーファの鈍さに幻滅をしている。


「……です」

「何だ、言いたい事があるなら」

「私の方こそ心外です!」

「なっ……」


 予想外の反応にマンフレットは目を見開き固まった。

 エーファは目を逸らす事なく真っ直ぐにマンフレットの目を見てくる。


「私は嘘なんて言っていません。例え譫言でも愛していると言って貰えた事も、酔った勢いだとしても口付けをされた事だって嬉しかった。もし今直ぐに操を差し出す様に言われたら私は喜んで差し出します。何故だかお分かりですか」

「まだ、君が私の妻だからだろう」


 エーファの勢いに押されながらも辛うじてそう答えるも、またしても首を横に振られてしまう。


「勿論妻としての責務と問われるならば拒みませんが、それだけではありません」

「ならば、何だというんだ……」


 彼女が分からない。

 まるで言葉遊びでもしている様な物言いにマンフレットの苛立ちは募る一方だ。


「マンフレット様をお慕いしているからです。でもそれは昨日今日の話でも、一年前からの話でもありません。マンフレット様が私なんて存在を知らない、もっとずっと以前から私は貴方の事が好きでした……。お姉様と結婚すると知った時も悲しくて苦しかった。でも結局は相手が誰であれ、私ではないのは確かなので諦め想う事をやめました。だからマンフレット様に嫁ぐ事を知った時、嬉しい気持ちよりも複雑な思いの方が強かったです。一年前のあの日、貴方から離縁すると告げられ落胆してもう期待はしないって決めたのに……それでも莫迦な私は心の何処かで希望を捨て切れずにいました。でもやっぱりお伽話みたいに上手くなんていく筈はなくて……。それでもこの一年、何度も期待して諦めて、また期待して……。だからなのでしょうか、素直に貴方を信じられないんです。信じたくて、信じたいのに、でも信じるのが怖いんです」


 まるで後頭部を鈍器か何かで殴られた様な衝撃を受けた。瞬きすら忘れて莫迦みたいに彼女をただ見ていた。


「マンフレット様、私はどうすれば良かったですか? 期限を過ぎても図々しく屋敷に居座っていれば良かったんですか? マンフレット様は約束を反故にする様な方ではありません。だからこの一年は見捨てられる心配をした事はありませんでした。でもこれから先は何の保証も約束もない……。これからは毎日、何時追い出されるかも知れないと怯えながら過ごしていかなくてはならないーーそれなら追い出される前に出て行こうと思ったんです」


 耐えきれなくなったのか、そこまで話すとエーファの瞳から大粒の涙が溢れ出した。それを隠す為に彼女は顔を背け手で覆う。


「申し訳、ありませんっ……違うんです、本当はこんな事言うつもりではなくてっ……」


 マンフレットは自分の愚かさを思い知り、自分自身に幻滅をした。




 

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