第54話 普通の女の子

 ――コン、コン、コン。


 王宮に行った日の夜。

 ゆっくりと、しかしはっきりとしたノックの音がルティスの部屋に響く。

 リアナとはテンポの違う音に、すぐにアリシアだということが分かる。


「アリシアさん。どうぞ」


 自信を持って声を掛けると、ドアが開き、予想通りアリシアが顔を出した。

 昨日のリアナと同じく、自分の枕を持って。

 ただ、違いは堂々としていることだろうか。


「こんばんは、ルティスさん」


「はい、こんばんは」


 さっきまで夕食の場で顔を合わせていたばかりなのに、今日初めて会ったかのような彼女の態度に、ルティスは口元を緩ませた。


 まだ寝るには早い時間だということもあり、ランプの明かりで、リアナから貰った古代文字の教本を読んでいたルティスは、本をテーブルに置いた。


 アリシアは先に自分の枕を彼のベッドに置いたあと、ルティスの前の空いた椅子に腰掛けた。


「勉強してたの?」


「ええ。俺、得意な魔法以外はあんまり勉強してこなかったので……」


「そうね。学園祭に向けて練習してたときも、実戦ばっかりやってたみたいだから」


「ですね。リアナには相当痛めつけられましたよ」


 苦笑いしながら、自分の胸をさすった。

 学園祭で優勝させることがリアナの目的だったこともあって、完全にそれに特化した練習を積まされていた。


 そのときに、この肋骨が何回折られたか、数えることもできないほどだ。しかも、折られたのは肋骨だけではない。


「それなのに、そのリアナとあんなに仲良くなるなんてね。……まさか、ルティスさんって、そういうのを喜ぶタイプなの?」


「いやいやいや! 痛いのは嫌ですよ、やっぱり」


 慌てて全力で否定しつつ、しかし傍目にはそう見えるのかと思うと、複雑な気持ちにもなる。

 なにしろ、毎日魔法を受ける練習と称して、あの冷たい目で睨まれつつ、ギリギリの攻撃を受けさせられたのだから。

 ただそのお陰で、魔法士を相手にしても、あまり恐怖心を抱くことはなくなった。それがリアナの狙いのひとつだったのだろう。


「ふふっ。まぁ、今日の話でもあったけど、リアナもすごく変わったわよね。前は私が言っても、外ではかたくなにだったもの。……ちょっと羨ましいけど、あの子をあんなにも変えたのは、ルティスさんよ。だいぶ強引に押したんでしょ?」


「そうかも……しれません。リアナがひとり、すごく辛そうに見えて……」


「私としては複雑だけどね。でもリアナを無視して私だけ幸せになるなんてこともできないから……」


「……前から思ってましたが、アリシアさんって、やっぱり優しいですよね」


「そっ、そう……かな?」


 急に褒められたことに面食らったアリシアは、上擦った声を上げた。

 頬を赤らめて照れているところが珍しくもあって、それが可愛く思える。


「ええ。リアナは優しくする対象が限られてますけど、アリシアさんはみんな平等に優しいなって思います」


「ありがとう。……でも小さい頃から、そうならなきゃって言われ続けてたってのもあるのよ。……我儘なところもあるのは自覚してるし」


「優しいのと我儘なのはまた違いますよ。自分の意思がしっかりしてるってことだと思いますし」


「そうね……」


 ルティスに肯定してもらって、アリシアは嬉しそうな表情で彼の顔を見つめる。


 精霊祭の時も、学園祭の時も。更にはこの留学話にしても、リアナに協力してもらって自分の希望を叶えてもらった。

 彼女がいなければ、自分ひとりでは何もできなかった。

 彼のことを先にリアナに譲るのは、そういう気持ちもあるからだ。


 そんなアリシアの胸中を知っているのか、ルティスが続けた。


「……でも、俺はリアナだけじゃなくて、アリシアさんも前とは結構変わったって思いますよ」


「そうかな? 私は変わったんじゃなくて、元々そうだったってだけだと思うわ。リアナくらいしか、これまで安心できる人いなかったから。……ルティスさんは2人目」


「……それは光栄ですね。アリシアさんっていつも女神みたいに笑顔だったし、本当に憧れてましたよ、以前は」


 ルティスは学園でアリシアを見かけたときのことや、屋敷で働き始めた頃の彼女を思い返す。

 今でこそ、その頃のアリシアは、表向きの顔で自分に接していたのだということがよく分かる。

 それが変わり始めたのは、一緒に精霊祭に行った時からだろうか。


ってことは、今は違うの……?」


「あはは、今は憧れてるというより、アリシアさんも普通の女の子だったってことが良くわかったというか。それはリアナも一緒ですけれど……」


 頭を掻きながら思っていることを伝えると、アリシアは顔をほころばせる。


「あ、それはなんか嬉しいかも。……それじゃ、そろそろ私のことも『アリシア』って呼んで欲しいなぁ。リアナみたいに、ね」


「……わかりました」


「よろしくね。……このあとどうする? 古代文字の勉強するなら、教えてあげるけど……?」


 アリシアはテーブルで顎肘を付き、じっと見上げるような格好でルティスに尋ねた。

 ランプの光だけの薄暗い部屋で、首元がゆったりとした真っ白の寝衣の胸元が開く。その奥に視線が吸い込まれそうになって、ルティスはつい「ごくり」と喉を鳴らす。

 そんなルティスの顔を見て、アリシアは口角を上げた。


「ふふっ、今日は私だけなんだから、ルティスさんの好きにしていいのよ? もっとお話してもいいし、もう寝てもいいし、それとも……」


「アリシア……」


 名前を呼びかけながら、ルティスは片手を伸ばしてアリシアの頬にそっと触れる。

 そのきめ細やかな肌を撫でたあと、椅子から腰を上げて彼女に顔を寄せて、テーブル越しに唇を重ねた。


 唇を触れただけのキスのあと、アリシアは目を細めて呟く。


「……ベッドに行きましょ。こっちのランプはもう消すわね……?」


「はい」


 ゆっくりと立ち上がったアリシアが、部屋に明かりを満たしていたランプを消すと、残った常夜灯代わりの小さなランプだけが部屋をぼんやりと照らした。


 アリシアがルティスに手を差し出すと、彼はその手をそっと握る。

 そしてルティスも椅子から立ち上がると、立ったままアリシアの背中に腕を回して抱き寄せた。


「ん……」


 嬉しそうに小さく喉を鳴らし、彼の胸に顔を押し付けた。

 まだ緊張しているのか、ルティスの鼓動の早さが伝わってくると同時に、なんとなく安心感を覚える。


 しばらくその場で抱き合った後、どちらからともなく身体を離して、ふたりはベッドに向かった。


 ◆


「……こういう普通の幸せがいつまでも続いたら良いのに、って思うの……」


 そろそろ寝ようと枕に頭を置いたまま、アリシアは身体をルティスの方に向けて、そう呟いた。


「どうでしょうか。俺もそうであって欲しいとは思います。……そのためにできることをしていかないと」


「そうよね……。そのために王都まで来たんだもの……」


 アリシアは枕ごとルティスの方に少し近づいて、彼の胸に手を這わせた。


「……そろそろ寝ますね。……明日はリアナとふたりの約束だから、ルティスさんもしっかり休んでおいてね。ふふ……」


 ルティスの耳元でそう囁いたアリシアは、ゆっくりと目を閉じた。

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