第2話 二つ名

「はー……はー……」


 急いでリアナの部屋から逃げ出したルティスは、一度私室に戻り頭を抱えていた。

 目が合ったことは確実で、リアナからも自分が覗いていたことを認識されただろう。


(後が……怖い……)


 一見、リアナは小柄な少女だが、その実力は折り紙つきだ。しかも彼女の魔法は戦闘に長けていて、落ちこぼれの自分が太刀打ちできるはずもない。

 このあとにきっと待っているであろう、彼女からの報復が恐ろしく思えた。


 しかし――。


(あんな顔もするんだな……。しかも、意外に胸もあるし……)


 学園でもこの屋敷でも、リアナが表情を崩すことなど見たことがなかった。

 私室で気が緩んでいたのだろうか。

 その笑顔は年相応の少女のようで、元々整った顔立ちと相まって、思わず胸がドキッっとさせられるものがあった。


 しかも、普段ゆったりとした服を身に着けていてわからなかったが、しっかりと出るところは出ていて。

 それがルティスの目に焼き付いていた。


 ――コンコンコン……。


 そのとき、部屋の扉がノックされた。

 ルティスはビクッと体を震わせるが、できる限り平静を保って「はい」と返事を返す。


「……ルティスさん。登校の時間です。行きますよ」


 普段と変わらないリアナの声が扉の向こうから響いた。

 急いで鞄を持つと、中から扉を開ける。

 そこには、いつもと何も変わらない――いや、それ以上に無機質な目でルティスを見るリアナがいた。


「お、お待たせしました」


「…………」


 しかしリアナはしばらく何も言わず、表情も変えず、ただ……じっとルティスを見ていた。


(……こ、怖ぇ……)


 内心ビクビクしながら、ルティスは背筋を伸ばして直立していた。

 やがて――。


「……行きましょう」


「は、はい……」


 リアナは一言そう呟くと、くるっと踵を返した。

 その後ろをルティスは黙って付いていく。


 そして、屋敷の入り口に着くと、ふたりは並んでアリシアが出てくるのを待つ。

 その間も、リアナはずっと黙っていた。

 先ほどのことに何も触れないということが、むしろ恐怖心を煽る。


「お待たせしました。行きましょうか」


 準備を終えて屋敷から出てきたアリシアがふたりに声をかけたが、ふと何かに気づいたような顔をした。


「あら? リアナ、何かありました?」


「いえ、いつも通りです。お嬢様」


「そう……? それならいいけれど……」


 首を傾げつつも、アリシアは屋敷の前に停められた送迎用馬車の後席に乗り込む。

 続いて、その横にリアナ。そして前席にルティスが乗り込んだあと、アリシアの「出して」の声に、御者が馬車を発進させた。


 学園までは歩いても10分程度だが、こうして正門前まで馬車で通うのが毎日の行事だ。

 もちろん下校時も同じで、高等部の生徒会長でもあるアリシアの仕事をリアナが補佐しつつ、それが終わるのを待ってから馬車で屋敷に戻る。

 その間の短い時間だけが、ルティスの自由時間でもある。


「……やっぱりなんかあったでしょ?」


 馬車の中でぽつりとアリシアが呟いた。

 リアナは表情を変えないまま、小さくため息をつく。


「やはりお嬢様にはかないませんね。……ルティスさんの働きぶりに問題があるので、帰ったらしっかり指導しようと思っていたところです」


「あらあら……。でもルティスさんはまだ不慣れですから、お手柔らかにね」


「それは心得ております。しかし、今のうちにしっかりと躾けねばなりませんので……」


 背後でそう話すふたりの言葉に、ルティスは後ろを振り返ることもできず、戦々恐々としていた。


 ◆


「おはようございます、アリシア様」


「おはよう、皆さん」


 学園に着いて車を降りると、多くの生徒たちがアリシアに駆け寄り、朝の挨拶を口にする。

 そのひとりひとりに、アリシアは丁寧に礼をして笑顔を見せた。


(大変だよな……お嬢様ってのも……)


 それがいつもの朝の光景。

 アリシアの使用人になる前は、それを遠巻きに見ている側の人間だったが、今こうして近くで見ているとアリシアの気苦労がなんとなくわかった。

 しかし、それを全く顔に出さない彼女の強さには尊敬できるものがあった。


「それでは、ここで失礼します。お嬢様」


「ええ。今日は仕事がないから、16時ごろには帰るわ」


「承知しました」


 学園の校舎の入り口で、ルティスはアリシアたちと別れる。

 リアナは講義中でもアリシアの護衛を兼ねているから、ふたりは同じクラス。もちろん席もすぐ近くに設定されている。

 一方、1学年上のルティスは全く別の教室だ。


「おはよう」


 自分のクラスに着いたルティスは先に来ていたクラスメートに挨拶しながら、自席に座った。

 アリシアたちと別れている間は使用人としての責務から解放されている。

 とはいえ、クラスメート達は皆そのことを知っていることもあって、軽々しい言動を取ることはできない。


 そのとき、ルティスに気づいたひとりのクラスメートが、空いた彼の前席に座って軽く話しかけてきた。


「よぉ、ぼちぼち慣れたか? 良いよなぁ、あのアリシア様とひとつ屋根の下なんだろ?」


「そう思うか? 別に良いことなんてないって。仕事は大変だしさ……」


 そう話しながらも、ふとルティスの脳裏に今朝のリアナの下着姿が目に浮かんだ。

 役得といえばそのくらいか。

 とはいえ、帰った後に待っているであろう『躾け』のことを考えると、憂鬱でしかない。


「そんなもんか。ま、大変なのもすぐ慣れるだろ。頑張れよ」


「ああ。……ところで、エリックは今日の魔法実技、練習してきたのか?」


「もちろん。兄貴に見てもらったよ。ルティスは?」


 中等部の頃からの友人――エリックは、ふたつ上の兄がいて、学園の大学部に通っていた。

 いつもその兄に教わっていると聞いていた。


「……一応、リアナさんに練習相手になってもらったよ」


「うっわ、羨ましい。超エリートじゃん。いいよなぁ……」


 エリックは羨ましがるが、ルティスは昨日の練習の光景を思い出しながら、げんなりとした。


「相手になってもらったらわかるよ。リアナさんは容赦ないからな……」


 なにしろ、「真剣にやらないと実戦練習になりませんから」などと言ってボッコボコにされ、肋骨を3本も折られたのだから。

 そのあと激痛で動けずに蹲るルティスを見かねたアリシアが治癒してくれたが、リアナとの練習が地獄のような時間だったことには変わりがない。


「そ、そうか……。まぁ、それもわかるけどな……。あの『氷結の魔女』だもんな……」


 この学園には、そのリアナにまつわる伝説があった。

 アリシアが中等部の頃、彼女を誘拐しようとした10人ものマフィアが、リアナひとりに全員氷漬けにさせられたという噂だ。


 その事件でリアナについた二つ名は、いつも感情を表に出さない表情と、得意の氷魔法とも相まって『氷結の魔女』と。

 一方、アリシアにも二つ名があり、いつも穏やかで治癒魔法が得意だという特徴から、『月光の女神』と呼ばれている。


 もちろん、落ちこぼれのルティスにはそんなものはない。


 ――いや、正確には後に彼も呼ばれるようになるのだが、それは余談だ。

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