借金のカタに侯爵令嬢の屋敷の使用人になった落ちこぼれの俺。え、俺も婚約者候補ですか?
長根 志遥
第1章 リアナ
第1話 朝の一幕
「ルティスさん、早くしてください。何をダラダラとやっているのですか?」
ルティス・サンダーライトが、この歴史ある屋敷の廊下の拭き掃除をしているとき、斜め上から澄んだ若い女性の声が響いた。
顔を上げようとしたが、それを遮るように、すかさず厳しい言葉が飛ぶ。
「手は止めない。ただでさえ遅いのが、ますます遅くなります。まだまだ残っているのですから、さっさと終わらせないと講義に間に合いませんよ?」
ルティスは言われた通りに手を止めず、下から視線だけを向けて、声の主であるリアナ・アイスヴェール――自分の上司でもある――をチラッと見上げた。
どこから見ても、長いスカートのメイド服を身に纏った小柄で童顔の少女だ。
「……返事は?」
「――は、はい!」
リアナは冷たい目でルティスを見下ろした。
彼女はルティスと同じ魔法を学ぶ学園『ムーンバルト魔法アカデミー』の高等部2年に所属している。
ルティスが高等部3年だから、彼女は1学年下の後輩にあたる。
しかし、リアナはこの若さをして、この街の領主であるムーンバルト侯爵――学園の理事長でもある――の令嬢、アリシア・ムーンバルトの屋敷のメイド長も務めていた。
(相変わらず……無表情だな……。怖ぇよ……)
学園でも常にナンバー2の成績で、特に魔法に関してはムーンバルト家が抱える魔法士ですら並ぶ者がいないほど……らしい。本気を出したところなど見たことがないが。
それほどの才があれば王都でも引く手あまただろう。
それでもここで使用人を務めているというのは、両親が共にムーンバルト家を支えた魔法士だったからだと聞いていた。
「お嬢様の登校には間に合わせるように。……かといって、雑な仕事は許されませんが」
(いやいやいや、んな無茶な……!)
心の中でそう突っ込むが、もちろん口には出せない。
言った瞬間に、間髪入れず吹っ飛ばされるのが目に見えている。
……実際、ルティスが1週間前にこの屋敷の使用人になった初日、すぐさまそれを体で覚えさせられた。
彼女はほとんど感情を顔に出さないが、その行動はあまりにも短気で、即座に手が出る――いや、魔法が飛んでくるのは恐怖でしかない。
だから誰もリアナには逆らえない。……屋敷の主を除いて。
「…………返事は?」
「は、はい。承知しました」
「よろしい。では……」
セミロングの艶やかな黒髪をさらりと翻し、リアナは足音も立てずに歩き去った。
後に残されたルティスは、時間に間に合わせるべく、拭き掃除を急いだ。
◆
「おはようございます、お嬢様」
「ええ、おはよう。ルティスさんもそろそろ慣れたかしら? 無理はしないでくださいね」
「はい。おかげさまで」
ルティスが掃除の片付けをしているとき、朝の散歩を終えた侯爵令嬢――アリシアの顔を見た彼は姿勢を正して声をかけた。
アリシアは長く濃いブラウンの髪をふわりと揺らし、いつも優雅な立ち振る舞いをする、まさに見た目通りのお嬢様だ。
しかも、使用人の末端でもあるルティスにも、嫌な顔ひとつすることなく、いつも笑顔で接してくれる。
(ホント可愛いよなぁ……。優しいし、リアナさんとは真逆……。まさに癒し……)
リアナと同じ高等部2年で、成績も常にトップ。まさに学園のアイドルだ。
もちろん、ルティスも例外ではなく、この屋敷に来る前から憧れていた存在でもある。……といっても、それまで近づくことすらできなかったが。
いつも冷淡なリアナを従えていることもあって、その対比から、彼女の柔らかい笑顔が尚更引き立てられていた。
「ふふ、相変わらずリアナにしごかれているみたいね。でもあの子、本当はすごく優しくて可愛い子なのよ? ……仲良くね」
「はい……」
アリシアの話にリアナの顔を思い返す。
(……優しい? 可愛い……?)
……何を言っているのかわからない。
確かにリアナの顔は整っているが、いつも無表情に自分を蔑むような彼女の――正直言って憎たらしい顔しか思い浮かばなくて、ルティスは苦笑いを浮かべた。
「ふふっ、そのうち分かるわ」
その顔を見たアリシアは笑いながら、小さく手を上げて立ち去った。
ルティスが、この屋敷に住み込みで働くようになってから、まだ少ししか経っていない。
長い付き合いのあるアリシアとリアナとは違い、どちらのこともまだ詳しく知らないのだから。
◆
「ふぅ……」
あてがわれた私室で、学園の制服に着替えてひと息ついたルティスは、鏡でネクタイを確認する。
もし曲がっていたりすると、リアナに「身だしなみすらまともにできないのですか?」と言われることは間違いない。
アリシアとリアナ。
どちらも同じく、1学年下の後輩に当たるが、もちろんふたりとも自分から見れば格上の存在だ。
リアナは使用人とはいえ、この屋敷を取り仕切っているエリートだし、何事も完璧にこなす。成績が2番だというのも、アリシアを立てているだけだという噂すらある。
アリシアに関しては言わずもがなだ。
そしてルティスはというと。
この街で劇団の運営をしていた父が昨今の不況で、アリシアの家――ムーンバルト家に莫大な借金を作ってしまったことを発端として、少しでもその足しになればと、ルティスもこの屋敷で働くことになった。
その取りなしをしてくれたのが、アリシアだった。
だから、リアナの小言に耐えてでも、その借りは返さなければならない。
「さ、行くか……」
この屋敷に使用人は他に何人もいるが、高等部に通うのは自分の他にはアリシアとリアナだけ。
通学においても、アリシアの警護を兼ねてルティスも同行することになっていた。自分の実力では、弾除けくらいにしかならないけれど。
部屋を出たルティスは、まだ登校するには少し早いとは思いながら、まずはリアナの私室に向かう。
――コンコンコン。
部屋の扉をノックする。
いつもならば、「今出ます」と無機質な声が聞こえてくるだけだ。
しかし、今日は返事がなかった。
(いないのかな……?)
真鍮でできた扉のノブを回すと、鍵はかかっていないようだ。
なんとなく、そのまま扉を少し開けて、隙間から中を覗く。
(やっぱり、いないな……)
部屋には人の気配がなかった。
まだ時間があるとはいえ、ゆっくりできるほどの時間でもない。
どうするべきか悩んでいると――。
ガチャリ。
リアナの部屋から続く別室の扉が、音を立てて開くのが見えた。
(あぁ、洗面台にでも行っていたのか……)
ルティスの私室にはそういった設備はないが、メイド長でもあるリアナの部屋には、お手洗いや風呂まで付いているということを聞いたことがあった。
そこにいたから、ノックに対して返事がなかったのだろう。
しかし――。
(――ヤ、ヤバい!)
その扉から出てきたリアナは、まだ着替え中だったのか――いわゆる下着姿だったのだ――。
しかも、普段見ている無表情な顔と全く違い、機嫌良さそうな笑顔で。
(あのリアナさんが……嘘だろ……?)
見てはいけないとわかっていながら、目を逸らすことができなかった。
「ふふふーん♪ 今晩はハンバーグぅ〜 嬉しい〜」
鼻歌混じりに軽い足取りで歩くリアナだったが、不意にルティスが覗く扉の方に顔を向け――バッチリと目が合った。
「◎△$♪×¥●&%#?!?!!」
一瞬、彼女の目が点になったあと、みるみるうちに顔が真っ赤に染まっていく。
そして、言葉にならない言葉を発しながら口をパクパクさせて、床にへたり込んだ。
しばらくして――。
「ふにゃあああぁああぁぁぁーーー!!!」
ルティスが慌てて扉を閉めたのと同時に、屋敷にリアナの悲鳴が響き渡った。
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