第2話 グレン家の食卓
「…っよし!」
朝風呂で汗を流したリンは自室の姿鏡の前で仕事着の小袖の帯を締めると、背筋を伸ばして気合を入れた。
いよいよ今日から官吏として城に勤めることができる。そう思うと身が震える思いだった。
それまで自分の全てを懸けてきた刀鍛冶という生き方を迷いなく放り出し、苦手な学問に取り組んできた。すべては官吏になるためである。
「リーン、朝ごはんさっさと食べちゃいなさーい」
身支度を終え、自室のふすまを開けて居間に向かったところで母の声が聞こえた。
今日から城で官吏見習いとして働き始めるリンだが、まだ家族から独り立ちはせずに両親や弟のロンのいる家で今まで通り過ごすことにしていた。
リンは官吏としては新人だが、鍛冶師としては一人前どころか当代一と認められた腕前だ。リンの作った刀剣は隣国のユグに高値で売られていくので、16歳ながら金銭の蓄えはそれなりにある。しかし、リンは実家から出て一人暮らしをするつもりは無かった。理由は単純に、実家が城から近いからである。
グレン家はヤマト国ではかなり名の知れた鍛冶師の家系で、その筋では名門と呼んでよかった。ヤマト国にとって腕の良い鍛冶師は生命線である。したがって、リンの父は政治的な権力こそ持たないが、国内では誰もが一目置く存在であり、城に赴くことも多い。そのため、グレン家の屋敷は商業地区の端とはいえ王都にあるので、ここに住めば通勤は楽だ。
「おはよう、母さん」
台所の隣にある広めの茶の間に入ると、みそ汁の良い香りがした。
「リン、早起きして鉄を打ちたいのは分かるけど、急いで食べないと初めての勤務に遅れるわよ。見なさい、ユリなんかとっくに食べ始めてるわよ」
「もぐ…もぐもぐ……もぐもぐもぐもぐ……」
テキパキと家族分のおかずをちゃぶ台に並べる母の隣には、上品な付け下げ(左肩にだけ柄が入った着物)を着た少女が着座し、黙々と握り飯を頬張っていた。
頬に米粒がついていることも気にせずに、口の中に米を押し込むようにして頬を膨らましている。
「おはよう、ユリ」
「もぐ……もふぁよぅ…もぐもぐ…」
リンは少女の隣に座ると、頬についた米粒を摘まんで自分の口に入れてから手を合わせ、「いただきます」と行儀よく言ってからみそ汁の椀と箸を持った。
みそ汁を一口啜ってからおかずの卵焼きや漬物に箸を伸ばし、上品に少しずつ米を口に運ぶ。
それに対してユリは着物こそリンより上等ではあるが、その食べ方に上品さは欠片もない。
「ユリ、もう少し落ち着いて食べなよ」
「もぐ……おばさんの作るおにぎりが美味し過ぎて……もぐ…もちつけまぁい…」
「……なんで仮にも一国のお姫様が朝っぱらから庶民の家の握り飯に夢中になってるのよ」
「……もぐ…ごくん。だってお城のご飯って無駄にお上品で薄味なんだもん。おばさんのおにぎりはちょっと塩気が強めなのよね。それが最高!」
「うちの国では塩は貴重なのに、王族が塩分の摂り過ぎで病気になんてなったら、それこそ民から反感を生むわ。うちはおとうさんも、リンもロンも鍛冶場で汗をいっぱいかくから少し塩を多く振ってるのよ。ほら、追加で味噌を塗った焼きおにぎりももってきたわよ」
ご機嫌で握り飯を頬張るユリを甘やかすように、リンの母は追加の握り飯をユリの前に置いた。ユリは即座にそれを掴むと思い切り大きな口で頬張る。
ユリはリンの幼馴染であり、リンドウ王の娘。正真正銘の王女である。
グレン家は鍛冶師の名門である。リンはグレン家を庶民と自称したが、鍛造した武器の輸出が国の収益の大半を占めるヤマト国にとって、刀仙は人間国宝に等しい。政治に関与こそしないがグレン家は建国時から続く名家である。
リンの父ギン・グレンとリンドウ王も親友と呼べる間柄で、王家とグレン家は家族ぐるみの付き合いだった。
ヤマト国は大陸で最小の国で、国民の数は一万五千人程度。王家を中心とした独立国家ではあるが、規模としては他国で言えば街と言われる程度である。したがって国王と民との距離も近く、王家は庶民にとって崇敬されながらも親しみ深い存在である。
ユリも一国の王女でありながら日頃から護衛もつけずに王都を闊歩し、市場のおばさん方から「ユリちゃん」と気安く呼ばれている。
さらにリンとユリは偶然にも同じ年、同じ日にそれぞれグレン家とアサクラ家に生まれており、姉妹同然に育てられた。ユリはグレン家にとっても娘のようであり、リンも城の女中たちから王女と同様に可愛がられてきた。
王と王妃はリンに甘く、グレン家夫妻もユリに甘い。
「それにしても、ユリは最近食べ過ぎよ。そんだけ食べた栄養はいったい何処にしまい込んで……いや、なんでも…ない…」
リンはユリのよく目立つ胸元に目線を向け、続いて自分の平坦な胸と見比べて肩を落とした。
ユリは幼い頃はリンよりも小食で小柄だったが思春期の頃から食欲が急増し、暇さえあれば何か食べているほどだった。
それにも関わらずユリは女性として育つべき所は著しく成長しながらも、細身の体形を維持している。
そして何故かリンは未だに小柄な少年のように細く、大人の女性の体へと成長する気配すら見られない。
「ま……まぁいいわ。とにかく遅刻しないように、さっさと食べてお城にいくわ。で、今さらだけど…、なんでユリはフツーにうちで朝ご飯食べてるわけ?」
「そりゃ、初出勤のリンを迎えに来たに決まってるじゃない!」
焼きおにぎりを飲み込んでユリが答えた。
「いやいやいや。なんで新米の官吏見習いをお姫様が迎えに来るのよ」
「だってリンは私のために、鍛冶師にならずに官吏になってくれたんでしょ?そりゃあ迎えに来たくなるじゃない」
「それは……」
「ずっと私の近くにいてくれるためだけに、お城に勤めてくれるんでしょ?」
ユリは隣に座るリンの膝にコロンと倒れこんでリンの顔を笑顔で見上げた。
リンが顔を火が出るように上気させる。
「そ……そんなわけないでしょ!私は国の役に立ちたくて……」
「見苦しいよリンねーちゃん」
弟のロンが居間に入ってくる。こともなさげにリンとユリの向かい側に座る。
「国の役に立ちたいなら、ねーちゃんが刀打った方がいいに決まってるじゃん。ユグに売ればそれだけ儲かるんだから」
ロンはリンと同じように手を合わせて「いただきます」と言ってから朝食に手を付ける。
「リンねーちゃんがユリねーちゃんと一緒にいたいっていう、ものすご~~く下らない理由で官吏になったのなんて、城の人の全員にバレバレだからね」
「なっ⁉ちがう!ちがうわよ!私はっ……」
「え~?ちがうの~?」
真っ赤な顔から上気を出しながら否定するリンの首にユリは両腕をからめて、その胸に顔をすり寄せた。リンの反応を弄んでいる。
「大丈夫よリン。おとうさんも王様も、ずっと前から分かってるというか……。諦めているというか…。まあ、ふたりとも女の子だから孫の顔が見られないのは残念だけど、うちにはロンがいるし、王家にはアオイとマツリがいるから…」
「まあ、アオイ兄ちゃんもマツリ兄ちゃんもフツーに女の子が好きだからお世継ぎ問題は大丈夫だよね。ねえちゃん達は好きにしたらいいよ」
「だからっ!ちがうのーーー!!」
母と弟に見透かされていたことが恥ずかしすぎて、赤面したリンは箸と茶碗を握ったままで叫んだ。
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