第12話 明晰夢科学研究所
春休み初日。まだ太陽が顔をのぞかせている午後七時、私とネルは少ない荷物を手に、明晰夢科学研究所の入り口をくぐった。
白い無機質な建物の内部は一転して黒く落ち着いた雰囲気が漂っており、カーテンの下りた空間に漏れる薄暗い照明が温かみを感じさせた。清々しい空気、静かに流れる水の音、わずかに香る爽やかな匂い。眠りを研究する施設の名に恥じない心地よさに、私の持ち込んだ不安はたちまち吹き飛んでしまった。
「まるで森の中にいるみたい。ここならグッスリ眠れそうだね」
「悪くはないけど、あたしは日向ぼっこしながら寝るのが好きかな」
「お昼寝してたら夜に眠れなくなるよ」
いつも賑やかな輪の中心にいるネルは、意外にも受け答えにまわることが多かった。指定されたロビーで雑談を交わしながら待っていると、すぐに奥からエレーナさんが現れた。
ノンフレームの眼鏡を掛けて黒のドクターコートに身を包み、亜麻色の髪を後ろで束ねた美しい女性。こちらを見るなりほほ笑んで、軽く手を振った。
「ミアちゃん、こんばんは。ネルちゃん、初めまして。ふたりともようこそ、明晰夢科学研究所へ」
「エレーナさん、こんばんは!」
「こちらこそ初めまして。今夜からよろしくお願いいたします」
ネルは顔を合わせるのすら初めてだったようだ。すっかり打ち解けた私とは対照に、借りてきた猫のようにおとなしくなってしまった。
「まずはそこのソファーに座って、いろいろ話を聞かせてちょうだい。送ってもらった着替えは部屋に届いてあるから安心してね。女三人だし、とっとと戸締まりしちゃいましょ」
そう言いながらエレーナさんがリモコンのスイッチを押すと、研究所のシャッターが一斉に降りて鍵の閉まった音がした。物々しい雰囲気とともに、いよいよ何かが始まったと感じた。
それから私たちは最終的な契約を交わし、普段みる夢のアンケートに答えた。ネルはあっという間に書き終えてよそ見を始め、わたしはその倍の時間がかかってしまった。エレーナさんはそれらにかるく目をとおし、うなずきながら話し始める。
「ふんふんふん。ミアちゃんの夢には色と音があり、写実的ではない絵が動くこともある……と。じつに現代っ子らしいわね」
「そうでないこともあるんですか?」
「ええ、白黒の人は一定数いるわ。カラーであっても、色に関心がなければ記憶に残らないと云われている。あなたの場合はもともと夢に強い興味があるから、明晰夢をみるのはそう難しくはないでしょう」
「本当ですか? よかった。じつは私、夢日記をつけているんです。母から、おかしくなってしまうからやめろと言われても、こっそり書き続けていました」
「夢はとりとめがないから、たしかにそう言われてしまうこともあるわね。でも、とても貴重な資料になるわ。目覚めると夢はあっという間に忘れてしまうから、手がかりの有無は大きいの。持ってきていたら、預からせてもらってもいいかしら?」
「はい、どうぞ。いつも寝起きに書いているから、字が汚いかもですが……」
鞄から取り出した夢日記を手渡す。今になって私は、自分の夢の中身を他人に見せることが恥ずかしくなってきた。しかしエレーナさんは淡々としていて、まるでお医者さまのようだった。
「あとでじっくり分析させてもらうわね。明晰夢を達成するのと同時に、悪夢を退治するのが今回の目的だから」
「はい、ありがとうございます……」
これではお手伝いというよりカウンセリングだが、この研究所は、夢のデータを収集するとともに、人々の幸せを追求するとの目標をかかげているそうだ。
エレーナさんは書類を読み終えるとおもむろに立ち上がり、私たちにも立つよう促した。
「さて、それでは場所を移しましょう。いろいろ説明しておかなければならないの。最初は個室で、ひとりずつ調査を行います。ミアちゃんの部屋で説明をするから、付いてきてちょうだい」
私はネルが紙にどんなことを書いたのか気になっていたが、残念ながらそれを知る機会はなかった。ちらと彼女をうかがうと、なんだか複雑な表情を浮かべていた。
エレーナさんに続いて奥へと踏み入れる。黒い通路には等間隔で暖色の灯りが奥まで続いており、すでに夢の世界に入り込んでいるかのように感じられた。そんなこちらの心情を察したように、彼女は後ろを振り返らずに言った。
「これは現実、これは現実。起きているあいだは何度も自分にそう言い聞かせて確認し、夢との区別がつくように意識するの。それが明晰夢をみる上でとても重要なのよ」
あらためて、実験はすでに始まっているのだと思い知る。私は右の頬をつついて、今の感覚を現実とむすびつけようとした。子供のころからドリーがよく私の頬を触るので、たびたび夢に出るのである。
私の夢には基本的に感触が無く、なにかに触れた際は感情に変換されて認識しているように思う。いま触れている頬は弾力を感じているが、夢では愛されていると受けとめられる。明確に感触と認識する時はだいたい本当に接触していて、意識すると同時に目覚めるのだ。
「さあ、この部屋よ。気に入ってくれるといいのだけど」
エレーナさんが入り口にカードをかざすと、ゆっくり静かに扉が開かれる。ホテルのような一室か冷たい実験室を想像していたが、私が普段寝ている子供部屋と大差ない空間が現れた。
柄のないベージュの壁、ブラウンのカーテンの下りた小さな窓、木目調の家具。おしゃれで高級な感じではない点が、かえって私には合っていた。壁に向いた机の隣には、自宅から送り届けた荷物がそのままの状態で置かれている。
「どう? 本当は自宅を再現するのがいいのだけれど、予算が限られているからね。気になるところがあったら教えてもらえるかしら」
私はひとつだけ違和感を覚えた。大きな熊のぬいぐるみが枕元に座っているのだ。
「えっと……。私、その人形の視線が気になってしまうかもしれません。その子が怖いわけじゃないけど、初対面だし……」
「わかったわ。それじゃあこれは、あとで片しておくわね」
「すみません。でもそれ以外はとても私好みで落ち着きます」
「よかった。それじゃあ次にベッドを見てもらえる? 寝具はあとで調整するけど、確認してほしいのはここ。これは生命活動感知センサーといって、スイッチを切らないでもらいたいの」
エレーナさんが指し示したベッドの脇に、小さな円状の物体が埋め込まれていた。言われなければ気づかない程度の目立たない存在で、光を発しているわけでもない。
「なんだか物々しい名前ですね。いったいどういうものなんでしょうか」
「なにも不安がることはないわ。仮に眠りから覚めなくも、動かして起きるよう促したり、最悪の場合は通報してくれる機能なの。この装置があるお陰で、安心して明晰夢を楽しむことができるのよ」
「目覚めないことがあると……?」
「明晰夢には副作用と言ってもいい側面があることは認めなければならない。楽しい夢の世界に入り浸って、現実をおろそかにしてしまう者が稀にいる。あくまで一般人、それも未成年を預かる側として、安全面は最大限に配慮しているの」
ほかにも脳波を計測するセンサーなどがあり、どうやら私がそこまで気にするほどのものではなかった。最初から実験に協力するのが前提であり、むしろ黙っていられるよりは安心感がある。夢日記を渡してしまった今となっては、探られる恥ずかしさよりも目標に向かう気持ちのほうが大きくなっていた。
「わかりました。小さいので気にならないし、問題ありません」
「そう言ってくれて助かるわ。十四歳の子のデータをとれる機会なんて滅多にないもの。もちろん秘密は守るし、明晰夢をみるための協力は惜しまない。それじゃあふたりとも、短い期間だけど、あらためてよろしくね」
こうして、一週間の春休みを利用した明晰夢の体験が始まった。
私はひとりきりになると、個室に備えられたお風呂に入り、お気に入りの猫耳パジャマに着替えた。その後、再び集まって、枕を合わせてもらったり簡単な講義を受けた。
ネルはシンプルで上質な横縞のもの、エレーナさんは大人っぽいネグリジェを着ていた。パジャマ会議と称されたその集いは至って真面目なもので、残念ながらお菓子を食べたりするパーティではなかった。
明晰夢をみるにはすでに幾つか確立された方法があるそうだが、まずは極めて簡単なものから試すことになった。すなわち、現実と夢の区別を行動にむすびつけて確認し、望みの夢を強くイメージするだけ。
先ほどやったように、私は何度も自分の頬に触れて弾力を確かめた。そして瞑想をし、夢占い師のニーナさんを強く想い、髪飾りや占い館の絵を描いた。
安眠のために夜間のスマホは禁止された。ドリーには緊急の場合を除いて連絡はしないように言ってある。最後にかけたときは、まだ始まってもいないのに早く帰ってきてと言われ、呆れてしまった。
そして夜の十時、私がうとうとし始めると会議はお開きとなった。慣れない環境に自ら飛び込み、優しいふたりとゆったりとした時間を過ごして、今日は大きく事が動いた一日となった。
「ネル、エレーナさん、おやすみなさい……」
かろうじてそれだけ告げると、すぐにベッドで横になった。明晰夢……明晰夢……。私はこのあと明晰夢をみる。自己暗示をかけながら重たい目蓋を閉じる。
「──ニャーン」
遠ざかる意識のなかで、どこからかネコの鳴き声が聞こえた気がした。
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