第13話 クジラの夢
その日の夢は、にわかに恐ろしく始まった。わたしはすでに最初から、目の前の情景が夢であると理解していたように思う。
自宅のベッドの上にいた。起き上がってリビングへと向かう。そこには長方形の机が中央に据えられ、四脚の椅子が二つずつ向き合って置かれている。ドアから一番近いわたしの席に、誰かが背を向けて座っていた。
その人が誰かをなんとなく理解したわたしは、近づいて呼びかけてみた。
「お婆ちゃん」
すると彼女はわずかに振り向いて、隣の椅子に手を置いて言った。
「ああミア、よく来たねえ。さあさ、ここに座って顔を見せておくれ」
わたしはドリーの席についた。体を横に向けて、とっくの昔に亡くなった彼女の顔を眺める。その面影は朧に揺らめいて、表情は定かではなかった。
祖母との思い出は無きに等しく、写真に残る姿をわずかに知っているだけ。わたしはすこし怖かったが、相手に敵意がないのはわかっていたから、この夢を終わらせる気などこれっぽっちもなかった。
「久しぶりだね、お婆ちゃん」
「大きくなったねえ。あんなに小さかったのに、あたしのことを憶えていてくれてうれしいよ。お前に人形を作ってやれなかったのが心残りだったんだ」
「いいよ、わたしはべつに欲しくない」
「そうかい。ドリーは元気にしてるかい?」
「うん。今でもお婆ちゃんが作った人形を大切にしているよ」
「そうかそうか、それはよかった。あの子は生まれてからずっとしゃべることができなかったから、あたしゃずいぶんと心配したんだ。あんたの母さんも若いころはそうだったから、そういう家系なのさね」
「ふうん。お母さんもそうだったんだ」
「そう、そしてあたしもね」
「なんだ。お母さんはわたしのこと、ダメな子みたいに言うのよ」
「そういうわけじゃない。自分に似ているからこそ、自分が受けたいやな思いをしてほしくはないのさ。だからあの子のことを許してやっておくれ」
「うん、わかった」
べつに母に対して怒ったりしていたわけではなかった。ただ単に、わたしが苦手なことをやらせようとしてくるから、怖くて避けていただけだった。
「それでお婆ちゃんは、いったい何をしにここへ来たの?」
「今日は、旅立つかわいい孫に
「旅? 餞別? なんのこと?」
「お前はさっき要らないと言っていたけど、せっかく作ったこの人形……これも欲しくはないのかのう」
そう言って祖母は、ひざに乗せていた何かをそっと机の上に置いた。それは白猫と黒猫、二匹のかわいいぬいぐるみだった。
「欲しい!」
さすがは人形職人。自分で作ったフェルトのものとは比べ物にならない出来栄え。歓喜したわたしがそれらをつかむと同時に、甲高い悲鳴が上がった。
「そこはだめニャ!」
「気やすく触らないで、馴れ馴れしい!」
二匹は暴れまわって手からすり抜けた。わたしは目を丸くして、朗らかに笑う祖母に言った。
「すごい、まるで生きているみたい」
「ほっほ、なにも不思議なことじゃあないだろう?」
「……たしかにそうね。ぬいぐるみが動くなんて当たり前のことだわ」
なんて馬鹿なことを言ったんだろう。ここはなんでもありの夢のなか。わたしはちょっぴり恥ずかしくなった。
「外に出てごらん」と、祖母は言った。
「こんな時間に? まずは着替えてお母さんに言わないと」
「すでに服は着ているだろう。それにあんたの母さんの母であるあたしが言ってるんだから、許可を取る必要なんてないよ」
言われて自分の体を見つめると、持っているなかで一番かわいくて上等なよそいきの服を着ていた。首元の大きなリボンがすてきな、フリルのついたお気に入り。ドリーが最初の給料で買ったのは、本人のものではなくわたしの服だった。
「わかった。それじゃ行ってきまーす!」
玄関を開けて元気よく飛び出していく。外は真夜中で、空には三日月とたくさんの星々が浮かんでいた。ひとりで夜のお散歩なんて生まれて初めて。こんな悪いことしちゃってもいいのかな。
「でも、どこに行くんだろう?」
ふと立ち止まって辺りを見まわすと、入口の壁に一本のホウキが、これ見よがしに立て掛けてある。
「これは管理人さんの物ね。毎朝早くに掃除してくれてるの。ちょっとお借りします」
ホウキといえばやることはひとつ。わたしがまたがると、いつの間にか付いてきた二匹の仔猫たちが勝手に乗ってきた。魔女っ子に憧れない女の子など、この世に存在しない。ううん、知らないけど絶対そう。
「せっかくなら帽子も欲しいなぁ。とっても大きいやつ」
「ぎにゃー!」
突然、頭の上に乗っていた一匹が叫び声を上げた。いつに間にかかぶっていた三角帽子の下からはい出てくる。
「帽子を出すなら先に言え!」
わたしはその物言いが気にいらず、叱りつけた。
「猫なら猫らしく、語尾に『にゃ』ってつけなさい」
「恥ずかしい!」
「もう一度」
「恥ずかしい」
「ダメね、やり直し。言うまで連れていかないから」
「……恥ずかしい……にゃ」
柄の先端では白い方があくびをしているから、上にいるのは黒いほうなのだろう。どっちもメスで、白は要領がよく、黒はおっちょこちょい。
設定も決まったところで、ようやくわたしは飛び立った。空高く、高く──。
「ぜんぜん飛べてないニャ」
「低すぎるにゃー」
「うるさい!」
夢のなかだからといって、そう都合よくはいかなかった。一応、浮かんではいるものの、足は地面にすれすれで今にもつきそうだし、ぐらぐらと左右に揺れている。
「もっと股をしめるニャ」
「へたくそ!」
「落とすよ、黒いほう!」
早いとこ名前を決めないと。でも今はそれどころじゃなかった。
「前を見て! ぶつかるニャー!」
「右、右に傾いて!」
なんとか壁に激突せずに済んだ。普段は選ばない大通りを低空飛行で進み始める。
「そうだ! このまま行けば、ニーナさんの所に行けるかも」
「こんな時間じゃ寝てると思うニャ」
「そうそう、夜に行くなんて非常識だぞ」
「この前はお昼だったのよ。この世界の時間はどうなっているのかな?」
たとえ無駄でも、ちゃんと行けるかどうか試しておきたいと思ったわたしは、そのまま占い館を目指すことにした。道路は相変わらず、人っ子一人いなかった。
「はあ、どうして上手く空を飛べないんだろう」
「誰でも最初からうまくいくわけないニャ」
「ほんとにいつも要領が悪いんだからってにゃあああ──」
むかついたので首を振ってやった。ご主人さまが誰か、思い知らせてやる。
「ここを右に曲がれば……見えた、時計塔だ」
「なんだか地味だニャ」
「ライトアップすればいいのにね」
「前にロンドンの有名なとこに行ったことがあるよ。そう、あれは引っ越しをする前に──」
「わー、回想やめ!」
頭の上から抗議の声。ふと気づけば別の場所にいた。さっきよりずっと高く、大きな時計塔が光っている。
「あれれ? 景色が変わった?」
「このバカ! ワープしちゃったじゃないか」
この世界では繊細な思考が求められるようだ。思ったことが直ちに反映されて、まるで魔法のよう。
「あれはビッグ・ベンで、下はテムズ川ね」
「わー、見るなバカ! 落ちる!」
「バカバカ言うな!」
噛みそうになりながらも怒鳴る。ホウキの柄はどんなに引っ張ってもずっと下を向いたまま、真っ逆さまに落ちていく。ああ、どんなに楽しいひとときも、やっぱり最後は悪夢で終わるんだ。どうすることもできなくて、そのまま川に飛び込んだ。
息が苦しい。猫たちが水中で必死に上を指差している。ホウキを手放すと体はゆっくりと上がっていった。
「ぷはっ! 助けて! わたし泳げないの」
なんとか顔を水面に出すと、お尻を浮かべた二匹が遠くの方へと流れていくのが見えた。
「待って、行かないで! ああ……」
こんなことならもっときれいな海を想像すればよかった。そう思った瞬間、すぐに辺り一面が透きとおるブルーに変わった。わたしは水中に沈みながら、祖母から贈られた二匹を失くしたことを悲しがった。
いつもならとっくに目覚めているだろうに、この悪夢はなぜか終わらなかった。これが夢だとわかっているのに、どうしても終わらせることができない。わたしは苦しくて深いため息をつく。
「あれ、息ができる……」
もっと早く気づいていれば、あの子たちと離れ離れになることもなかったのに。管理人さんのホウキと、せっかく手に入れた大きな帽子もどこかにいってしまった。ゆっくりと沈みながら、このまま落ちるとこまで落ちていってもいいやと思った。
お気に入りの服で死ねるのなら、それもまた悪くない。目をつむり、夢の流れに身を任せる。毎日が不安で不安で仕方がなかった。ほんのちょっと自分なりに頑張ってみたらこれだ。なんだか面倒くさくなってきちゃったな……。
水の底に行くほど暗くなっていくはずなのに、なぜだか周りが明るい。いつまで経っても死にやしないし、目覚めもしない。わたしはうっすらと瞳を開けてみた。
はるか遠くから何かがやって来るのが見えた。青くて大きな、優しそうな生き物。
クジラだ。
それも一頭や二頭じゃない。上から光が射し込む海の中、右奥からクジラの群れがこちらにやってくる。大きい個体の隣に小さな子がくっついている。あれは親子だろうか。
いろいろ不思議なことが起きたけど、最後にここへ来れて本当に良かった。
幸せな時間とは儚くて、そう長くは続かないもの。視界は急速に暗くなっていった。
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