第35話 猫の王国ケイスネス

 わたしは占い師の姉妹と共に、砕かれた最後の地を目指す。

 隣を飛ぶニーナさんはホウキに横乗りし、大人の魔女らしくじつに優雅だった。両手を広げてモモンガのように飛ぶ人もいるそうで、夢の飛び方にもいろいろあるらしい。

 ネルの心を反映してか、空には太陽が燦々さんさんと輝き、眼下には平和な森林が続いている。彼女は悪夢をとうに打ち倒したか、もともと大した悩みを抱えていなかったのかもしれない。やがて立派な城が目の前に現れ始めると、わたしは驚き呆れてしまった。


「まさかネルはこの短時間に、夢で王国まで再建しちゃったの? ものすごい想像力ね……」


「なんだかんだ言って、女王としての自覚があったんだね。ここまでのものを一朝一夕に考えられるわけがないよ」


 オンドレアもこれには感心したようだ。わたしたちはテラスに降り立つと、玉座の間を目指すことにする。

 城はまったくの新品で、ここまできれいだと威厳や情緒は感じられなかった。単純な造りとなっており、中央から真っ直ぐに行けばすぐに会えるだろうと思っていた。

 しかし予想に反し、ネルは玉座にいなかった。とくに危険もなさそうなので、三十匹のケット・シーを呼び出し、手分けして探すことにする。夢とはいえ念願の居城を手に入れた彼らは、歓声をあげて方々に散っていった。


「ネルってばどこにいるんだろう。世界がある以上、ここのどこかにいるはずなのに……」


「えへへ、いちど座ってみたかったんだよねぇ」


 オンドレアは探しもせずに、嬉々として猫用の玉座に腰掛けた。彼女が偉そうにふんぞり返った瞬間、背もたれが奥へ横倒しになり、結果的に隠し部屋へと続く通路が見つかった。ネルはなんとそこにいたのだ。


「やってもやっても終わらないのにゃ〜」


 ぐるぐるメガネを掛けたサバトラが机に向き合い、小さなお手手で鉛筆を走らせている。半泣きになりながら、必死に何かの勉強をしているようだ。そこでわたしはようやく理解した。


「あ、これって一応、悪夢だったんだ……」


 ナイトメアの姿かたちは人それぞれ。彼女にとっては、終わらない勉強こそが悪夢であったらしい。なんでもそつなくこなす印象であったが、影で努力をしていたのだ。


「ネル、何してるの。ここは夢だよ。なにもこんな時まで勉強しなくてもいいじゃない」


「ダメにゃ〜、話しかけないでほしいのにゃ。女王になるには、まだまだやらなきゃいけない事がいっぱいあるのにゃ〜」


 鉛筆の芯が無くなれば終わりだと言うが、いくら書いてもまったく減る様子がない。これが彼女の悪夢、無限鉛筆である。

 オンドレアや集まってきた猫たちが、この光景に反応を示す。


「帝王教育ってやつだねぇ。上に立つのも大変だ」


「おお、ネルさま、爺はうれしゅうございますぞ……!」


「さすが女王さまなのにゃー」


 のんき過ぎてお話しにならない。ネルはわたしの言葉に耳をかさず、鉛筆を取り上げようとした手も振り払ってしまう。


「みんな、感心してないで止めてあげてよ。これじゃ疲れがとれないよ」


「ノンレム睡眠なしにぶっ続けで明晰夢をみてる時点で、朝になったらグッタリだと思うよ」


「オンドレア、すこしは真面目に考えて。ニーナさんも笑ってないで、なんとか言ってください」


「そうね。ネルちゃんは自己暗示の魔法がかかっているみたいだから、ひょっとしたらキスで悪夢から解放できるかもしれないわね」


「そんな、おとぎ話じゃあるまいし……」


 たしかにその手の物語はあるけれど、決して人前ではないはずだ。しかしほかに良いアイデアもないし、相手はただの猫である。背に腹は代えられないので、「えいっ!」と鼻先にそっとキスをした。すると効果があったのか、ネルはハッとしてようやく手を止めた。


「にゃにゃ? あたしはいったい何をしてたのにゃ?」


「ネル、夢でまで勉強しなくても大丈夫だよ」


「ミア、どうしてここに……? 勉強? うあああああ! うわーん、ミアー!」


「よしよし、怖かったね」


 胸の中へ飛び込んできたサバトラの頭を優しくなでてあげる。わたしはふと、現実でネルに同じことをされたのを思い出し、夢で立場が逆転したのがおもしろくなった。

 そこで何を思ったかオンドレアが唐突に机へ向かい、ぐるぐるメガネを掛けて本を開いた。


「うわ〜、ボクもお勉強しないと〜! 立派なエナレスになれないよぉ〜」


「な、何してるの……?」


「日本の偉大なる文化『ヘンタイ』について、レポートを書くんだ。ああ、忙しい忙しい」


「うん? ニッポンはわかるけど、それってなあに?」


 ニーナさんはピンク色の頭をわしづかみにした。そして妹が手にしていた薄い本を分厚い参考書を変化させ、にこやかに言った。


「変態というのはね、幼虫が蛹になり、やがて蝶へと成長していく過程のことよ。さあ、そのまま朝まで生物の勉強を頑張りましょうね、オンドレアちゃん」


「ぴえ〜ん! 助けてミア〜!」


 よくはわからないが、オンドレアも頑張っているらしい。わたしも負けてはいられないなと思った。

 それからしばらくして、わたしたち四人と三十二匹は、女王の間で歓談を楽しんでいた。ネルは再び猫耳少女に姿を変え、赤カーペットに腰を下ろして、新たに仲間に加わった二匹の仔猫をひざ上でかわいがる。


「──こうして猫魔女のお陰で、ケイスネスには『猫による平和パックス・ロマーニャ』の時代が訪れ、ケット・シーはお腹を上にして寝るようになったのにゃ」


 猫の女王が、祖国の歴史や物語を読んで聞かせる。そのどれもが初めて耳にするもので、わたしにはとても新鮮だった。話はやがてケイスネス滅亡のくだりへ差しかかる。


「猫魔女は使い魔の白猫と黒猫を連れて旅立っていったにゃ。そしてある日のこと。みんなで日向ぼっこをしながらお昼寝していたら、犬の妖精クー・シーの群れが現れ、あたしたちの王国は滅ぼされたにゃ」


「だからみんなは犬が苦手なんだね」


「猫は人の上に立ち、犬は下に立とうとしたにゃ。滅亡はすべてケット・シー自らのおごりが招いたことなのにゃ。だから今度は人間と結託し、にっくきワン畜生を駆逐してやるのにゃ」


「そういう話なの!?」


 なかなか物々しい事情があるらしい。ケット・シーは元いたアイルランドに戻るべきというのが、クー・シー側の主張である。妖精の世界も人間同様、移動によるトラブルが深刻なようだ。

 猫魔女として認められたわたしが争いだけはダメだと説くと、何か良いアイデアはないかと求められる。結果として、現実に課題として持ち帰る羽目になってしまった。たしかにこれは一種の悪夢といえた。


 気づけば外は夜空となって、三日月と星々が浮かんでいる。ネルは己の悪夢を打ち倒し、精神が安定した証拠だった。

 長かった明晰夢の旅も終わりが近づいているのかもしれない。仮にわたしの夢に巣食うナイトメアが現れたとしても、今度はみんなと協力してやっつけられるだろう。


 ネルは最後に、妖精界でのケイスネス王国復活を願って、大きな花火をいくつも打ち上げた。女王を慕うあまり勝手に夢へ潜り込んできた配下たちもこれには感動し、あらためて忠誠を誓った。

 そんなとき、ちょっとした地震が起きた。ニーナさんによれば、壊れた夢の世界が再びひとつにつながっただけで、さほど心配はいらないという。安心した猫たちは、またわたしの帽子の中に入っていった。


「夜明けが近いわね」


 夢占い師の言葉に、場の空気はすこししんみりした。とくにオンドレアとは、次にいつ会えるかまるでわからないのである。落ち込むわたしに彼女は言った。


「ボク、良い場所を知ってるんだ。最後はそこに行って、気分よくお開きにしようよ」


 よからぬ考えで混乱をもたらしたエナレスだが、あのすてきな雲海を生み出して楽しませてくれたのも、ほかならぬ彼女である。

 わたしたち満場一致で賛成し、『はげ山のてっぺん』なる殺風景な場所を目指して、オンドレアに付いていくことになった。

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