第4章 夢のまた夢
第30話 壊れた世界
不気味な風音が頭上に鳴り響いている。顔を上げると、わたしは街灯が照らす道路の真ん中に寝そべっていた。
直前の記憶はある。ニーナさんたちと離れ離れになり、どこかへと飛ばされてしまった。無事なようだが、はて、ここはいったいどこだろう。
立ち上がってみれば、見覚えのあるカーライルの街並みが広がっていた。しかし不思議なことに、ある部分を境として、そこから先は真っ暗闇となっていた。
自然と足が向かう。前に夢の街を空から見下ろした際、まだ創造されていない領域が同様に閉ざされていたのを思い出す。しかしあのときは、近づくうちに世界が徐々に広がっていったのに対し、今回はそうではなかった。
やがて見えてきた光景に、わたしは絶句した。大きな地殻変動によって断層がずれたように、すぐ先が崖となっている。向かいの地面ははるか遠くに漂っており、あいだにはただ虚無が広がっていた。
「みんな散り散りになって、世界が壊れちゃったんだ……。あそこにあるのは誰の夢だろう……」
ふといやな気配がして視線を上げれば、黒馬がこちらに向かってやってくるのが見えた。ナイトメアだ。ニーナさんの思惑どおり、先ほどよりも幾分か小さいように感じられる。
戦う力のない自分ではどうすることもできない。わたしは背を向けて必死に逃げた。しかし相手は一足飛びにこちらを追い抜いて、中空で振り返る。そして地上に降り立って、またも毛むくじゃらの姿となった。
「モークル、またあなたなの。いい加減しつこいよ。髪飾りはあげるから、どこかに行って」
「……ミアはおでのもの」
化け物はくぐもった声でたどたどしくつぶやき、ゆっくり近づいてきた。
「いや! 来ないで、気持ち悪い!」
「つれないこと言うなよ。おでたちはいつも一緒だったじゃないか。人形の中にも鏡の中にも、おではいた!」
「鏡? あなたは何を言って──」
突如、モークルの姿が次々と変化した。胸のアザをからかった女の子、執拗に当ててくる学校の先生、ひそひそ話をするクラスメイト……。どれもが夢でわたしを苦しめてきた存在──まさしくナイトメアだ。
そして最後に、わたしとそっくりの少女に変化した。しかし金髪には黒色が混じり、眼光は鋭く、口の端は吊り上がり、まるで虎のごとく自信に満ちあふれていた。
「あ、あなた、誰……?」
後ずさるわたしに不快な笑顔を見せながら、片言だった相手は流暢にしゃべり始める。
「俺の名前か? そうだな、お前が以前、とっさに思いついた名前、もう要らないようだから、俺が貰っておいてやろう。ガブリエラ。ハハッ、なかなか勇ましいな!」
「どういうこと? それはたしかニーナさんに出会ったときに出てきた名前……」
「俺さまが誰かわかるか? わからない? ならば教えてやろう」
そう言うと頭を抱えて大袈裟におびえるふりをし、弱々しい口調に変える。
「どうせ馬鹿にされる……。いやだ、こんな自分認めたくない……。そうさ、自己否定だ! 俺さまは、お前自身だ! つらいか? 苦しいか? お前の心のキズをもっともっとえぐってやるっ!」
くわと目を見開き、一歩一歩とにじり寄る。わたしを崖へ追い詰めるように、横へ逸れるのを許さない。
「人間は無意識の集合体だ。お前が寝ている間も休みなく動き続ける器官がある。寝相が悪くて鬱血したとき、誰が起きるための信号を送ってやってると思ってるんだ? それなのにお前ときたら、悪いことはぜーんぶ俺のせいにしやがって、いったい何様なんだよ!」
「何が言いたいのかわからない。あなたはわたしに死んでほしいの?」
「馬鹿かお前。こちとら早く乗っ取ってやりたいってのに、体に何かあっては困るんだよ。でもお前は死ね! 弱いくせに俺の体を占有し続けるな! 返せ、返せよ、俺の体!」
異様な雰囲気に怖気づき、思わず背を向けて逃げ出すも、すぐに首根っこをつかまれてしまった。そのままずりずりと引きずられ、後ろ向きに進んでいく。
「どこに行こうってんだ? つらきゃ逃げればいいとでも思ってんのか。本当に甘ちゃんだな」
「苦しい、やめて! わたしにどうしろっていうの……」
「本当に馬鹿なんだな、お前は。ここは意識の世界。お前が死ねば、俺が体を支配できるんだ。だから、どうすればいいかわかるか? 馬鹿なお前にもわかるよう教えてやる。自分の意思で、ここから飛び降りろ! 今ここで消えて無くなれぇぇぇッ!」
ガブリエラはわたしを地面にうつ伏せにすると、背中をつかみ、亀裂に上半身を乗り出させた。何もない真っ暗な空間に自分の手が泳ぐ。わたしは目をつむり、必死に言葉をつむぎ出した。
「いやぁ……。死ぬのは勇気じゃないよ……わたしは強くなるの……」
「強くなる? ハハッ、こいつは傑作だ! サラブレッドがどうして速いかは知ってるよな。そうだ、速いヤツ同士を掛け合わせていった結果だ。ならお前はどうだ? 父親も雑魚、母親も雑魚。劣等種同士が一丁前に子作りして生まれたのがお前だ」
「違うもん、お姉ちゃんもお母さんもお婆ちゃんも、しゃべれるようになったって言ってたもん。お父さんだって、なにも言わずに見守っててくれている。わたしだって強くなれるんだから……」
「ああ、かわいそうに! 同じ一族でも稀にとんでもないゴミが生まれちまうことがある。人間の脳みそは残念ながら交換できねーんだ。だから、な、お前でもわかるよな? 努力なんてしたって無駄なんだ。おとなしくここで自然淘汰されてくんねーかなぁ」
「口悪すぎだよ。誰に育てられたの?」
「ところがどっこい! 自分がキズつく言葉は、自分が一番よく知ってる。俺はお前のなかにいて、お前自身が育てたんだ! 軟弱な思考のなかに眠る唯一の高度なデータが俺さまなんだ。周囲からつつかれて蓄積され、塗り替えられていった、お前の上位互換なんだ。だから、さあ、お人形はお人形らしく、器だけで満足してくれないか?」
「わたしは家族に愛されてる。あなたが何を言おうが響かない」
「口答えするな! いいから消えろっつってんだよ。姉がいなきゃろくに会話もできないくせに。過保護に育てられて野生じゃ生きていけない、お前は
「ネルとニーナさん、夢のなかだけどオンドレア……ちょっとずつ増えてるもん……。きゃあああっ! 痛い! やめてぇ! 引っ張らないで!」
急に髪の毛をつかまれた。ぐいぐいと引っ張られ、すべてが抜けそうになる。
「ペチャクチャうるせえ、黙れメスガキ。ああ、そうだ。釜茹でにしてこの髪を再利用してやろうか。これぞホントの金糸ですって、ハハッ! 歯だって昔は引っこ抜いてカネに変えたもんさ。お前の自慢なんてそれしかないんだから、せいぜい有効活用しようぜ」
わたしは崖のふちをつかみ、どうにかして地面の上に戻った。相手の手を払い、自分の頭を抱えてうずくまる。
「なあ、なんとか言えよ。ナメクジがカタツムリになったって、たかが知れてるだろ。マイマイカブリになって食べちゃおうかな〜。うわ、こいつはすっごい寄生虫。食べたら死んじゃうや」
ガブリエラは攻撃の手をゆるめ、耳元に顔を近づけて煽ってきた。わたしは腕に力を込め、頑なに無視する。すると彼女は立ち上がり、つまらなそうに深いため息をつく。
「はあ……。やっぱりお前は馬鹿な弱虫だ。どうして俺がお前なんかに従わなきゃいけないんだ。こうなりゃこっちが消えてやる。そうやっていつまでもウジウジ生きるのはうんざりだ……」
ぶつぶつ言いながら足音が遠ざかっていく。わたしは油断しないようそのままの状態でじっと耐え、心を無にしようと努める。
やがて、なにも聞こえないことに気づいた。夢魔が現れる際に吹きつける冷たい風はすっかり治まり、脅威は去ったように感じられる。おそるおそる顔を上げると、殺風景な街並みと夜空、そして虚無以外に、目立つものはなにも無かった。
「あいつは……ガブリエラはどこへ行ったの? とにかく、ここから離れなきゃ。いったいどこに行けば……。ネル、オンドレア、ニーナさん……どこにいるの……?」
しばらく放心し、涙を流しそうになるも、ぐっとこらえた。弱気になれば、また奴が現れる。
「泣いてる場合じゃない。わたしがみんなを助けなきゃ」
震える足で立ち上がると、亀裂が視界に入った。反射的に目を逸らし、逆方向に歩み始める。
「とりあえず空を飛ぼう。どうしてもっと早く思いつかなかったんだろう。ふふ……」
おかしくもないのに笑う。自らを鼓舞し、右手に意識を集中させるとホウキが現れた。すぐにまたがり、飛ぶように念じる。すると足は地面から浮き上がった。
「あはは、また低空飛行に戻っちゃった。でも大丈夫。オンドレアと一緒に飛んだときのことを思い出して……」
ホウキはゆっくりと高度を上げていく。ほっとした瞬間、上下逆さまにひっくり返り、宙ぶらりんになった。
「きゃあああ!? うぅ、前よりひどくなってる……。忘れちゃダメ、これは夢。自分の意思で動かせる明晰夢。わたしだって頑張ればできるんだから。待っててみんな。必ず助けに行くから……」
そのままぶら下がりながら、わたしは次なる目的地を考える。そんなとき視界の片隅に、とある見知った建物が飛び込んできた。
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