第29話 ナイトメア

「いや、そんな、ネル! しっかりして!」


 わたしは急いでサバトラのもとへ駆け寄った。小さな体を抱き上げると、かろうじて息をしているのがわかる。


「なんだ? 今の女神の名は……。聞いたことがない……」


 オンドレアは首をかしげ、夢魔夫妻は心配そうにネルを見つめた。ガートルードは勝利を確信したのか魔剣をかき消し、虚空から憐れみの眼差しで宿敵を見下ろす。


「ふん、たわいない。結局、わたくしにかすり傷ひとつ負わせられませんでしたわね。さあ、ミアさん。そんな駄猫はほっといて、共に甘美なる夢の世界へと旅立ちましょう」


 右手を伸ばしてこちらに語りかける。わたしは涙目で彼女をキッとにらみつけた。


「どうして……どうしてこんなひどいことをするの……? あなたは最低よ! ガートルードちゃんなんて大ッ嫌い!」


 カンビオンは「ガーン!!」と打ちつけられたような衝撃を受けてよろめき、「へなへな……ぺたん」と床に崩れ落ちた。


「あちゃー、とうとう言われちゃったねぇ」


「まったく、やり過ぎですよ、ガートルード」


「さすがに甘やかしが過ぎたか。我々は育て方を間違ったようだな……」


 ギャラリーにまで追い打ちをかけられて、才色兼備の優等生はとうとう泣き出してしまった。


「わーん! ミアさんに捨てられ、両親からも見限られ、わたくしはもう生きていけませんわー!」


 びかびかと部屋が照らされる。続いて鳴り響いた爆音に驚き窓を見やれば、いつの間にか外は激しい雷雨になっていた。敵味方双方の落ち込んだ感情が、またも天候に影響を与えたようだ。しかし室内ならば平気だろうと思った矢先──


「ゲホッ……」


 突然、カンビオンの少女が吐血し、青い鮮血が床中に飛び散った。


『ガートルードちゃん??』


 わたしと夫妻の声が重なる。崩れ落ちた娘のもとへ、両親は慌てて駆け寄った。


「ガートルード、しっかりするのよ!」


「まずい、発作が……。近ごろ安定していると思っていたが、やはり治っていなかったか……」


「いったい何が起きたの? ガートルードちゃん、いつもはあんなに元気だったのに……」


 突如として起こった凄惨な出来事に、わたしは混乱した。セルマとアーヴィンは娘を介抱しながら、沈痛な面持ちを浮かべる。


「私たち夢魔にとっては、この夢こそが現実で、現実は夢なのよ。ミアちゃんの知るガートルードは、この子がなりたいと思い描いた、いわば明晰夢……」


「すまないが、我々は帰らせてもらおう。君たちも気をつけたまえ。じきにここへ奴がやってくる。ナイトメアが……」


「ナイトメア? モークルが……?」


 サキュバスとインキュバスはカンビオンを大事そうに抱き上げ、虚空へ消えてしまった。怪物と化したあのイタズラ妖精が再びやってくるというのか。


「みゃー……」


 腕の中からかすれ声。鳴き声かそれともわたしの名前だったのかはわからない。小さな手を伸ばし、苦しそうに言葉をつむぐ。


「ごめんにゃ、ミア。まるで歯がたたなかったにゃ……」


「いいよ、生きてるだけで充分だよ、ネル。夢魔相手によく頑張ったね。それよりオンドレア、あなたのちからでなんとかしてあげられない? お願い……」


 かたわらのエナレスに哀願する。さほど深刻そうな表情をしていない彼女は、すぐにうなずいて柳の枝を取り出した。


「もちろん任せて。こんなのすぐに治してみせるよ。ちちんぷいぷい、痛いの痛いの飛んでいけー♪」


 傷ついたネルの体からもくもくと湯気が立ち昇る。サバトラは腕の中で、しっちゃかめっちゃか暴れまわった。


「ぐにゃあああああ!! 熱い、熱いにゃあー!」


「ネル!? オンドレア、あなたいったい何をしたの!」


 床に転げ落ちたネルの動きが突然、ぴたりと止まった。


「……あ、治ったにゃ。まだちょっと痛むけど、なんともないにゃ。ありがとにゃん」


「ああ、よかった……。エナレスってすごいのね。ありがとう、オンドレア」


「無事でなにより。それよりも、さっきのヤツがおでましみたいだ。ナイトメアというのは人によって姿かたちが異なる。あんななりだけど、油断しないほうがいい」


 いったいいつからそこにいたのか。モークルは部屋の隅にうずくまり、こちらをうかがっていた。いかつい剛腕で毛むくじゃらの頭をなで、似つかわしくない白い花をこちらに見せつける。


「あっ、わたしの髪飾り!」


「また性懲りもなく現れたのにゃ。それはミアに勇気を与えた大切なもの。お前なんかが着けていいものなんかじゃないのにゃ」


 サバトラは立ち上がろうとするも、ふらついてわたしの脚にもたれかかった。


「ぐにゅう。まだ全身がギシギシするのにゃ……」


「ネル、まだ動いちゃダメだよ!」


 モークルは、前に自分を痛めつけた相手が苦しむ姿を見て、耳障りな低い笑い声を響かせた。立ち上がって開いた両手を上に向けると、ネルに折られた黒光りの爪が音をたてて再生する。そして巨体で床をきしませながら、ゆっくりとこちらへ歩み寄ってきた。

 わたしは思わずサバトラを抱き上げたが、なにか抗えるチカラがあるわけでもない。大きく開かれた怪物のあぎとに体がすくみあがる。するとオンドレアが前に進み出て、懐に手を伸ばしながら言った。


「ここはボクに任せてよ。こんなときのためにダガーダンスの腕を磨いてきたんだ。ちょっぴりカッコいいとこ見せちゃおうかな!」


 彼女は口に二本の短剣を咥え、さらに両手の指のあいだに八本も握った。ふらふらと片足立ちをし、小刻みにジャンプして回転を始める。


「オンドレア、何してるの!? 危ないよ!」


「くらへ〜! ひっさつわらっ! あくせるぜんかい! 【皆殺剣舞ポウニ・ガス】!」


 エナレスは回転が最高速度に達したと同時に短剣をすべて解き放った。それらは放射状に射出され、遠心力を活かして敵に一直線となって飛んでいく……はずだった。

 軌道は想像をはるかに下回り、鋭利な先端が、わたしとネルのすぐそばの床へと次々に突き刺さる。


「きゃあああああ!?」

「うにゃああああ!?」


 華麗に回転を止めたオンドレアは、ぽりぽりと頭をかいてつぶやく。


「むー、速さがちょっと足りなかったか。難しいなぁ」


「何するにゃー! 危なすぎるにゃ! ミアに当たったらどうするつもりだったんだにゃ! この、この、このー!」


 ボロ雑巾のように倒れていたネルは突然跳ね起きると、命を救われた恩義も忘れ、その肉球でもってピンク頭を徹底的に打ちのめした。


「うわー! 痛い! 痛い! 痛いよお!」


「ちょっと、ネル! やめてあげて!」


 あまりにも無様なありさまに、モークルは腹を抱えて笑い転げた。太い手足をばたつかせ、いまにも床板が抜けそうだ。

 ──その時。

 廊下側から別の大きな足音が、こちらに向かってやってくるのが聞こえてきた。ひと踏みごとに床を打ち鳴らし、怒りに満ちているのがうかがえる。


「にゃ? 第四の刺客!?」


「ま、まずい! あれはまさか!」


 ノブが回り、扉がゆっくりと開かれる。

 固まって震えるわたしたちが見た先に、鬼の形相と化した夢占い師の姿が現れた。


「オンドレアちゃ〜ん? さっきからなんだか楽しそうねぇ。ずいぶんと騒がしいようだけど、枕投げでもしてたのかしらぁ?」


「ね、姉さん! ちょうどいいところに! 大変なんだよ、助けて!」


「怖いのが来るから早く寝なさいと言ったはずよね。お話が盛り上がってしまったの? それとも、まだお仕置きが足りなかったのかしら?」


「姉さんのが怖いよ! じゃなくて、モークルが部屋に侵入してきたんだ! ほら、すぐそこ!」


「モークル……? な、何よあれ!? 私たち以外、誰も入り込めないよう結界を張っておいたはずなのに、なぜ!」


 毛むくじゃらの怪物にうろたえるニーナさん。先ほどのサキュバスが侵入に手こずったとこぼしていたように、館には特殊な防御機構が施されており、どうやら安心しきっていたようだ。


「じつはオンドレアがいろいろ良くない妄想をして、内側から敵が──」


 思わず口がすべったわたしをオンドレアは慌てて遮る。


「違うよー! ボクだけのせいじゃないよう! それより姉さん、あいつはナイトメアだ! ミアの髪飾りを奪って逃げたのに、また戻ってきたんだ!」


「なんですって……ナイトメア……?」


 その瞬間、モークルの体がモゾモゾとうごめいた。いきなりふたつの名を耳にしたニーナさんは、おそらく伝承に残るナイトメアの姿を想像したに違いない。

 茶色かった化け物の体毛は光沢のある黒へと変化し、鼻とあごが伸び、手足が細くなっていく。二足歩行から四足となるも、後脚は煙のように揺らぎ、うねるように虚空へ浮かび上がる。

 醜悪な獣はあっという間に、美しい雌馬メアへと変貌を遂げた。夢占い師は慌ててわたしのそばへ駆け寄ってくる。


「これはまずい。たくさんの邪気を吸い込んで、とてつもない強さになっているわ。この残り香……まさか淫魔までこの部屋に?」


「それは退治したというか、勝手に帰っていったよ。どうやら最初からミアのことをつけ狙ってたみたいだ」


「そこのケット・シーはネルちゃんね。どう、戦える?」


「にゃ……ニーナさんはすべてお見通しだったのにゃ。なんとか頑張るにゃ」


「よし、それじゃあみんなでミアちゃんを守るわよ。来た!」


 黒馬が前脚を高く掲げていなないた。

 ニーナさんは手にしたステッキを巨大化させて錫杖にすると、敵の前へと立ち塞がる。だが白いドレスをまとう華奢な体は、とても接近して戦うのに適しているとは思えない。

 ネルはすぐにその隣に立ち、オンドレアは姉の背後にまわる。戦うすべのないわたしは、またひとり蚊帳の外になってしまった。


 新たな戦いが始まった。

 治療を受けたとはいえ満身創痍のネルは、やはり先ほどに比べて動きがにぶい。ニーナさんは細い腕で白銀の得物を振りまわし、敵の前脚を払おうとする。オンドレアはふたりのサポートをしながら、隙あらばダガーを投げつけた。

 ナイトメアは三人の攻撃を難なくかわし、口からどす黒い瘴気を吐き出す。ネルがそれを吸い込んでよろめくと、ニーナさんはすぐに回復の呪文を唱えた。心の治療を施す夢占い師は、どうやら癒しのちからを身につけているらしい。


 突然、床に散乱していた家具が震えはじめる。それらはポルターガイストのように部屋中を飛びまわり、わたしたちに襲いかかった。


「ミア、危ない! 伏せてるんだ!」


「オンドレア、わたしいったい何をすれば?」


「キミはベッドの下にでも──」


 エナレスがそう言いかけた時、最前線のネルを重点的に攻めていたナイトメアは、急に矛先をニーナさんに変えた。飛び交う家具に対処する彼女がこちらの核と見切ったか、執拗に攻撃を加える。


「くっ、強すぎる……。オンドレア、これを生みだした人数はいくつ?」


 錫杖で敵の攻撃をしのぎながら、夢占い師は妹に尋ねた。


「えっと、ボクたち三人に夢魔の家族が三人。姉さんを入れたら七人だ。ネルの猫たちも来てるから……」


 どうやらナイトメアの戦闘力は、夢に紛れ込んだ感情をもつ生命体の数に依存するようだ。


「なるほど、それじゃあとてもで勝てる相手じゃないわね……。私がおとりになるから、みんなはその隙に逃げて!」


「そんなの無理にゃ!」


「無謀だよ、姉さん。ここから体に呼びかけて、強制的に眠りを解除するしか!」


「不可能ではないけれど、脳が損傷を受けてしまうかもしれない。それに今回の目的はミアちゃんの悪夢を退治すること。夜明けまでにはまだまだ時間がある。ここはなんとかやり過ごし、夢を砕いて分離させるのよ。いいから言うことを聞きなさい!」


「たしかにシンクロを切ればチャンスはある。でも──」


「あなたは屋根の結界に魔力を集中させて。敵はその破壊を優先するはず。早く!」


 苦痛に顔をゆがめながら耐える姉を見て、オンドレアは決意したようだ。手のひらを天井に向け、小さく何かをつぶやく。

 すると木材越しに、屋根に描かれた三日月の輝きが増し、ナイトメアは苦しそうに頭上を暴れまわった。壁に何度も体をうちつけ、砕いた木材を周囲に飛び散らす。

 楽しかった明晰夢は、今や混乱の様相を呈している。ニーナさんはわたしを頭数に入れてくれたが、足を引っ張るだけで何もできない。


 宙をのたうちまわるナイトメアは高々と跳躍し、とうとう天井を突き破って夜空へと舞い上がった。

 うがたれた穴から激しい雨風が一気に部屋へとなだれ込み、わたしは吹き飛ばされぬようベッドの柱にしがみ付く。

 吹き乱れる風に、もはや誰が何をしゃべっているかもわからない。耐えきれずに離してしまったわたしの手を、ニーナさんがつかむ。しかし部屋の壁が四方に分かれて倒れ込み、とうとう建物全体が崩壊してしまった。


 桁外れだ。ベッドひとつを残して、占い館は跡形もなく消え去った。ここに至るまでの苦労を思うと、心が張り裂けそうになる。これはまさに悪夢だ。信じたくない。

 小さなネルが竜巻にのって吹き飛んでいった。続いてオンドレアが悲鳴を上げて遠ざかっていく。


「いやあ、ふたりとも……! に、ニーナさん……!」


「大丈夫よ、ミアちゃん。頑張って、あなたならできる。自分の悪夢に打ち勝つの……」


 それが最後だった。

 手が離れる。

 暴風に呑み込まれたわたしは、きりもみしながら夜空へと舞い上がっていった。

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