第2章 明晰夢科学研究所
第8話 不思議な出会い
(アルト・クルート……)
自宅を出てネルの家の方角へと歩き出してしばらく経ったころ、ふと聞き慣れない言葉が頭に浮かんできて、私は足を止めた。
(って何だっけ?)
道の前後に人がいないことを確認して、鞄から文明の利器を取り出す。ぽちぽちと検索すると、すぐにそれらしきものが出てきた。
アルト・クルート──ストラスクライドとして知られる、古代ブリトン人の王国。現代のスコットランドから北部イングランドにまたがって存在していた……。
どうやら私がいま立っているこの辺りも、かつてはそこに含まれていたらしい。だけどそれだけだった。古い土地の名前なら、それを使った店があってもなんらおかしくはない。まるで手掛かりのなかった捜索に、少しとっかかりができた気がした。
淡い期待を胸に歩みを再開すると、やがてくだんの商店街の入口が見えてくる。たぶん私は、昨日ここを通って夢占いの館に行ったのだ。猫で頭がいっぱいだったのか、その時のことはまるで覚えていないのが、我ながら幼くて情けない。
でもほんの少し前の自分なら、ひとりでこんな所に足を踏み入れることなど考えもしなかった。これは成長と言えるのではないだろうか。学年が下の生徒にすら年下と誤解されることもある私だけれど、わずかな歩みを感じて喜ばしい気がした。
(あれは時計塔? ここだ、間違いない。占い館はこの辺りにある)
その道に入った途端、私は強い確信をいだいた。意識は別のところに旅立っていたらしいが、体は、いや目は覚えていた。断片的な記憶がつながり、夢が徐々に思い出されてきた。
右手を頭に伸ばし、花の形をした髪飾りに触れる。早くこれをニーナさんに返さなければ。たしか母の形見と言っていた気がする。
私が持ち去ってしまったことを彼女は怒っているだろうか。とても優しそうな人だったけれど、少なくとも悲しんでいるのは間違いない。
(形見……そうか、あの人のお母さんはすでに亡くなってるんだ)
あの美しい女性はどこか遠くの国から、なんらかの事情があってここへやってきたのだ。ひょっとしたら悲しい思い出があるのかもしれない。
人と話すのが不得手な自分が、なぜかすぐに打ち解けることができた。再会できたら、母から髪飾りを譲り受けた逸話を尋ねても大丈夫だろうか。しゃべり慣れないだけに、線引きがわからないのがもどかしい。
不意に本屋の看板が視界に入り、私の足は無意識に止まった。店名までは覚えていないが、魔女の形をした木の板には見覚えがある。目指す場所は近い。期待と不安が入り交じり、胸が高鳴る。
自らの足に委ねてたどり着いた先に、それはあった。
(
たしかに夢という共通点はあるものの、似て非なるものを目の当たりにして、私の頭は混乱した。はたしてここはどこだろう。まるで記憶がない。
ニーナさんは本当にこの中にいるのだろうか。ぽかんとして棒立ちになっていると、建物から背の高い女性が慌ただしく現れ、こちらに背を向けて入口に紙を張り付け始めた。
(あれはニーナさん? でも、雰囲気がちょっと違うような……)
私は意を決して、彼女のもとへ近づいてみることにした。知らない人に声をかけるのは怖いけど、髪飾りを返さないと私は泥棒になってしまう。勇気を振り絞り、精一杯の声を出す。
「あの……すみません」
「ん? はいはい、なんでしょう」
彼女はすぐに振り返った。自分の声が届いたことにひとまず安堵する。
でも残念ながら、言葉遣いからして別人のように思われた。夢で出会った人に似ているような気もするけれど、はつらつとした感じでだいぶ印象が違う。
黒いドクターコートに身を包み、亜麻色の髪を後ろで束ね、ノンフレームの眼鏡を掛けた背の高い美女。心に残る曖昧な記憶では、本人と判断するのは難しい。
「あなたはニーナさんですか?」
「……えーっと?」
どうやら違うらしい。あてが外れて私はがっかりした。しかしせっかく声が出たのだから、このままもうすこし調べてみたい。
「人違いをしてすみません。私、ニーナさんという夢占い師の方を探しているんです。ご存じありませんか?」
「うーん、ごめんなさい。この研究所の中に、そんな名前の人はいないわね」
「そうですか……。何を張っていたのか、見せていただいてもいいですか?」
「ええ、どうぞ。ここで実験台……もとい、バイトを募集することにしたの」
(バイトかぁ。なになに……)
〈あなたも、自ら想い描く夢──明晰夢を見てみたくはありませんか? 明晰夢科学研究所では、お手伝いしていただける方を募集しております。十六歳以上の方ならどなたでも〉
明晰夢──夢であると自覚しながら夢をみて、時に内容すらも自在に操ること。知ってはいるが、まだ成功した試しはない。
「ここは望みの夢を見るための研究をしている施設なの。あなたは十二歳ぐらいかな? 残念ね」
「ううん、私、十六歳です」
「えー、ほんと?」
「は、はい……」
「ほんとお?」
「は……はう……。本当は十四歳です、ごめんなさい……」
「申し訳ないけど、バイトは法律で十六歳以上と決まってるのよね。あなたは明晰夢に興味があるのかしら。よかったら理由を教えてくれる?」
「えっと……」
どうしてとっさに嘘をついたのか自分でもよくわかっていなかったので、すこし考えてしまった。目の前の女性はにこやかに私の顔を見つめて待っている。
「こんなこと信じてもらえないかもしれないけど──」
「信じるわよ」
「え……」
この人に嘘はつけない気がした。私は途切れた言葉の続きを言うことにした。
「私、夢のなかから、この髪飾りを持ってきてしまったんです。そんなつもりはなかったのに急に目が覚めてしまって。これを貸してくれた人はとても大事な物だと言っていたから、どうしても返さないといけないんです」
「ふうん。それは興味深いわね」
「途中までは良い感じの夢であっても、いつも最後は悪夢で目が覚めるんです。昨夜のものはとても恐ろしくて……髪や歯が抜けました。喉に詰まって息が苦しかった。私、おかしいんでしょうか? 人とちゃんとしゃべることもできないし……」
「私といま話せているじゃない」
「それは、話せる人とそうでない人がいて……。ほとんどの人とは無理で、あなたはちゃんと話せる三人目です」
「三人目か。あとの二人に嫉妬しちゃうな」
そう言って研究所の女性は笑ってみせた。私は思わず下を向き、舗装された黒い地面がひび割れているのが見えた。
「うぅ……からかわないでください。私は真剣に悩んでいるんです」
「ふふ、ひとつ言わせてもらうとね。悪夢というのは、なにも悪いことの暗示とは限らないのよ。もちろん、つらい記憶によって引き起こされるものもあるけれど、自分が変わりたいと思って生じる悪夢もあるの」
「……変わりたい?」
私は顔を上げて、相手の焦げ茶色の大きな瞳を見つめた。
「私は、内気な性格を変える必要なんてないと思っているけど、あなたはそうじゃないんじゃないかしら。未来の自分へと変わるには、現在の自分を殺す必要がある。そうやって悪夢をみる場合もあるのよ」
なんと返したらよいかわからず、黙って唇を噛む。
「じつはもっと単純に、枕が体に合ってない可能性もあるけどね。高さを補おうと無意識に挟んだ手が、鬱血して脳に信号を送り、悪夢で目を覚まさせることもある。あるいはさまざまな生理現象とか……」
だんだんと話がのって長くなりそうな気配を感じたところで、彼女は止めた。
「とまあ、私はそういう夢の研究をしているの。雇えるのは十六歳以上だけど、もしあなたが保護者から許可をもらえたなら、特別にお手伝いとして参加できるよう取り計らってあげる。そろそろ学生さんは春休みでしょう。どう? この春の思い出に」
「うん、お姉ちゃんに聞いてみます……」
「申し遅れたわね、私はエレーナ。これでも一応、夢研究の博士なのよ」
「私はミアです、エレーナさん。いったいどういうことをやるんでしょうか?」
「睡眠環境にすこしずつ変化をつけて、夢を調整していくの。なにか飲んだり幻覚作用を催すものは使わない。リラックスのためのお香ぐらいは使うけどね。ほかの研究員は出払ってて私だけだから、安心してちょうだい。海外で発表会があって、私はお留守番なのよ」
「はい、わかりました」
「それじゃあミアちゃん、いい返事を期待しているわね」
「……あのう」
「なあに?」
「と、友達を誘ってもいいですか?」
「ええ、大歓迎よ」
エレーナさんは私の目を見てほほ笑んだ。さっき言った、話せる二人が誰なのかわかったとばかりの眼差しで、それ以上は尋ねてこなかった。ポケットから新しい紙を取り出して私に手渡すと、手を振って研究所へと戻っていった。
後ろを姿を見送りながら、その場の勢いでネルを誘おうなんて大胆なことを言い出した自分に驚き、恥ずかしくなってきた。だいたいあの子は忙しそうだし、夢になんて興味を示すとも思えない。それでも──
(ダメ元で聞いてみよう)
おそらく新しいことにひとりで挑むのに恐れがあるからなのだろうと、私は自分の行動を解釈した。
夢のなかで借りた物を返しに、また同じ夢をみたいなんて、あまりに荒唐無稽で突拍子のないお話だ。どうやって事情を説明したらよいものかと頭を悩ませながら、私は帰途についた。
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