第4話 サバトラのネル

 鏡のなかには、目を真っ赤に腫らした惨めな自分の姿が映っている。私は鞄から目薬を取り出して二滴ずつ垂らすと、保湿クリームを顔に満遍なく塗りつけた。

 ネルは入口でこちらを見ないようにして待っていた。足音に気づいた彼女は、頭に手を当て申し訳なさそうにもういちど謝った。


「う~ん、目が真っ赤になっちゃったな。すぐ洗ったから大丈夫だと思うけど、さっきはほんとごめんね」


 私はうつむき加減で相手の顔をうかがいながら、首を横に振った。怒っているわけではないが、恥ずかしくて早くひとりになりたかった。


「あはは、どっちの意味だろ。びっくりしたよ。まあ、泣き顔もかわいいけどさ」


 笑い声に不満そうな顔を向けると、ネルはまたおびえるように腰を引いた。


「じょ、冗談だってば。送っていくよ、一緒に帰ろ」


 顔を洗っている間に持ってきたのか、彼女は自分の鞄を手に下げていた。距離を考えると走ったに違いない。まったく息が切れていない様子から、やはり運動神経は優れているようだった。


「トラヴァーズさんの家は知ってるんだ。うちの近くだからね。いつもはガートルードと帰ってるでしょ。今日は別々に帰る予定だったのかな? そういや忙しいって言ってた気がするな」


 断っても付いてくるに違いない。私はどうも周囲から、ひとりでいると危ないと思われているようだった。なにか訴えるのは諦め、ネルと連れ立って歩き始める。いつものように大通りを避けて、人の少ない隣の小道を進んでいく。


「ねえ、トラヴァーズって長いから、ミアって呼んでもいい?」


 私は小さく一回うなずいて答えた。


「最近だいぶ暑くなってきたね。サッカーは好きだけど、あたしあまり汗かかないから、これ以上は暑くならないでほしいな」


(この辺りは南に比べたら涼しくて過ごしやすいほうだよ。その代わり冬は寒いけど)


 声には出さずに言葉を返す。


「さっきのふたりは先輩なんだけど、ミアのこと知ってたでしょ。目立たないようにするとかえって目立っちゃうんだよ。いつもはガートルードが守ってて近づけないけど、じつはみんな話してみたくて仕方ないんじゃないかな」


(人に注目なんてされたくない。あんなに近づかれるのはちょっと怖い)


 おびえるばかりで、周囲が自分をどう思っているかなんてさほど考えたことがなかった。たしかに、こそこそとしていたら目を引いてしまうかもしれない。堂々とひとりでいればいいのだろうか。それはちょっと自分にはハードルが高い。ガードルードが堤防になっているのなら、彼女にはもっと感謝しなければならない。


「前に聞いたんだけどね、ミアは妹にしたいランキングで一位なんだってさ。女子校でもかわいい子はチェックされちゃうんだよ。えへへ、知らなかったでしょ」


(何それ、知らない間に一位にされても困るよ。お姉ちゃんはもういるし)


 ほかには何のランキングが開催されているのだろう。いつもこっそり聞き耳を立てているけれど、知らないところでどんな会話が繰り広げられているのか、ちょっぴり気になる。自分について言われるのは落ち着かないが、悪口でないのなら良かった。


「ミアの髪って編みこまれててすごいよね。あたしも結ってもらいたいな。まあ、じっと待ってるのは耐えられないかもしれないけど」


(美容師のお姉ちゃんがいつもやってくれるの。ネルの髪もすてきだと思うよ)


 運動をするのにストレートの長髪は邪魔にならないのだろうか。出会ったときは銀色の髪で美しかったけれど、今は黒が混じってかっこよくなった。少女に向かってそう言うのは失礼だろうか。そういえば、ネルもクラスメイトたちからモテているように思える。


「今年の春は何して過ごそっかなー」


 前後に脈絡のない会話が続く。自分も何をしようかと思案していると、ネルはすこし不機嫌そうに言った。


「ねえ、あたしはもうミアの声を聞いてるんだし、そろそろしゃべってくれてもよくない?」


 私ははっとして足を止めた。ずっと黙っていたのに、心のなかで言葉を返し、うっかり会話をしている気になっていた。申し訳なく思いネルの方を見ると、彼女もこちらに正面を向けた。


「あ、ごめん。今のいやな感じだったかな。無理に話すことはないよ。べつにミアが望んで一緒に帰ってるわけじゃないもんね……」


 今すぐ何か言葉を返さなければいけない。寂しそうに小声になっていくネルを見上げ、私は思い切って口を開いた。


「あ……の…………」


 振り絞った勇気はすぐにしぼんでいってしまった。こちらの顔を見つめるネルは驚いた表情を浮かべ、すぐに嬉しそうに笑った。


「いいよ。ありがと」


「ち、ちがうの……」


 間髪を入れずに言葉を発すると、相手は不思議そうな顔をして、黙って続きを待った。


(そうだ。言いたいことがあるんだった)


 気づいた瞬間、詰まっていた言葉がようやく喉から出てきた。


「あの、授業のとき、助けてくれてありがとう……」


「えっと……、あたし何かしたっけ?」


「起きてたのに、寝たふりして、物を落とした」


「ああ、文学の授業か」


 首をかしげて頭をかいていたネルは、思い出したのか軽くうなずいた。


「あの先生はちょっと感じが悪いね。あまり気にしない方がいいよ」


「うん。やっぱり起きてたの?」


「んー……。よく見てるなぁ。ああいうのはなんか我慢ならなくてね」


「ありがとう」


 もういちど礼を言うと、ネルは照れくさそうに顔を逸らしてしまった。


「うん、帰ろ」


 その行動がかわいらしく見えて、私は思わず笑ってしまった。もちろん相手が自分の顔を見ていないと知っていながら。

 再び連れ立って歩き始める。やはりこの小道は人通りが少なくていい。周囲を見まわしてもこちらを見ている人は誰もいなかった。ネルはこちらを見ずに歩幅を緩めて、わずかに差がついた距離を縮めてくれた。


「ケイスネスさん……ううん、ネル」


「なに?」


「ネルの髪もすごくすてきだと思うよ」


「ありがとう。あたしは前のほうがよかったんだけどね。一色に染めようか迷ってるんだ」


「そのままでいいと思う」


「そう? でも、サバトラ言われてるから

なぁ」


「サバトラネコ、かっこかわいいよ」


「かっこかわいい、か。ミアは猫が好きなんだね」


「うん、家で飼ってみたいの。じつは触ったのはさっきが初めて」


「へえ。それにしちゃ、あいつら気持ちよさそうだったけどね」


「ネルはあの子たち知っているの?」


「……まあ、ね。サボってるとき、いつも下で寝ているから」


「人が樹の上でネコが下なんておもしろいね。さっきサボってたんだ?」


「こう見えてひとりが好きなんだよ。人間と合わせるのは疲れちゃってね」


「人間……と?」


「あっ、いや、ほかのひととね! ミアが人間なんて滅べって言ってて驚いたよ」


 私は独り言を聞かれたのを思い出し、赤面した。


「う……、あれはその……」


「まあ、気持ちはわかるよ。他人と一緒にいると疲れるんだよね。ところでさ、うちにも猫がいるんだよ、いっぱい」


「ほんと!?」


「あはは、食いつきいいな。……見に来る?」


「行く!」


「えっ!」


 自分で尋ねておいて、ネルは驚いたようにこちらを見つめた。


「だめ?」


「いや、即答するとは思わなくて。親御さん心配しない?」


「親御さんって……。私だって、もう十四なんだけど」


「ごめんごめん、年下扱いしたわけじゃないよ。まだまだ明るいし、連絡しとけば大丈夫かな」


「うん。しておくね」


 寄り道したことなど一度もなかったし、幼いころを遡っても、よその家に上がった記憶はほとんどない。不安と期待が入り交じり、なんだかとてもわくわくした。


「よし、それじゃ決まり。うちに友達が来るのはミアが初めてだよ」


「いっぱいって何匹いるのかな?」


「それは行ってからのお楽しみ」


 ──友達。これまで自分は、ちゃんとそう言えるひとがいただろうか。保護者といえる存在はたくさんいたのかもしれないが、同等と思える関係は築けてこなかった。

 カーライルでの日没は、今の時期、午後八時にも近くなる。ひょっとして今いる現実は、白昼夢なのではないだろうか。学校が終わっても、今日はまだまだ終わりそうになかった。

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