第3話 人形と猫

 春休みを間近に控えた、ある三月の夕刻。明るい日差しを避けて木蔭にたたずんでいた私のもとへ、ガートルードが息を切らして駆け寄ってきた。


「ミアさん、今日は用事があって残らないといけないので、先に帰っていただけますか? 申し訳ございません」


 生真面目な口調の少女に対し、私は黙って小刻みに三回ほどうなずいた。


「くれぐれも気をつけて帰ってくださいね。それでは……」


 ネルと成績上位を争う彼女だが、相手が唐突に不甲斐ない結果を出したことで、教師から級長に指定された。張り合った末にサバトラの気紛れに引っかかり、負担が増えてしまったのだ。


(できる子は大変だなぁ)


 忙しそうに跳ねる後ろ髪を眺めながら、のんきなことを考える。我ながら細かくて面倒な性格をしていると思うが、不安がなければ率直な感想をいだく単純なところもあった。

 日の当たる場所に出ると、ぽかぽかとした陽気に包まれて気持ちがいい。今日も一日、いつものようにおびえて過ごした。ここ数日は誰とも会話をしていない。そんな悩みもここにいれば吹き飛んでしまいそうな気がした。


(そうだ! あのにゃんこたちに会いに行こう)


 良いことを思いついた。自分でも口角が上がるのを感じながら、軽い足取りで校庭の隅の倉庫へと向かうことにする。運動をしている子たちの視線を避けて端を歩きながら、近ごろ野良猫がやってくる物置小屋を目指す。

 心のなかで花びらを一枚ずつちぎり、いるかいないかを占う。昔からネコが好きだった。生まれてから一度も触ったことはないけれど、彼らは臆病でありながら、大胆で余裕があるように思われた。自分に必要なものをそなえていると感じていた。


「いた!」


 思わず声を出してしまった私は、慌てて辺りを見まわした。さいわい近くに人の姿はない。遠くの方でサッカーに夢中になっている少女たちの声がときおり聞こえてくるだけ。ほっと胸をなでおろし、日向ぼっこをして眠る二匹のネコのもとへ近づく。


「かわいいにゃ~ん」


 誰もいないとわかれば遠慮することもない。スカートが地面につかないように気をつけながら、しゃがんで寝顔をのぞき込む。

 一匹はやや貫禄のある白と黒のぶち猫で、もう一匹は金色の長毛で顔が小さかった。二匹は並んで眠り、どちらも毛並みが良くて、汚れや傷がある様子もない。おそらくどちらもオスで、つがいではなさそうだった。


「ねえ、なでてもいい?」


 一応、ダメ元で聞いてみる。するとふくよかなほうが、こちらを一瞥いちべつして喉を低く鳴らし、再び目を閉じて丸くなった。


「いいの? やった!」


 許可だと解釈した私は、おそるおそる手を伸ばし、頭に触れてみることにした。お腹や尻尾は怒る可能性があると聞いているが、頭ならきっと大丈夫だろう。初めての体験に自らの心音が高鳴るのを感じる。


「わあ、あったかい」


 相手は目をつむったまま、おでこを手に押し付けるような動きをした。その瞬間、首元に何か赤い物が見えた。


「あれ、首輪つけてるんだ。そっかぁ、あなたたち野良じゃなかったのね」


 残念そうにつぶやくと、ハンサムなほうが顔を上げて、答えるように高く鳴いた。


「ニャーン」


「ふぅ~ん、そうなんだ。あなたたちも大変なのね」


 私はほほ笑みながら、わかったように返事をした。どうやらこの二匹は、ご主人とけんかをして家出してきたらしい。頭のなかで、自然と物語がつむがれていく。


「ブニャ」


 手元のほうが声を出した。ご機嫌を取るために首周りを優しくなでてみる。


「そんなこと言わずに帰ってあげて。きっとご主人も反省してると思うから」


 それからしばらくのあいだ、背中をさすりながら一方的な会話を楽しんだ。


「私、白猫と黒猫が飼いたいの。でもお母さんにはとても言えない。これ以上、負担をかけたくはないから。ううん、ほんとは許可してくれると思うけど、勇気が出なくて。昔はちゃんとお話できてたのに、いつの間にかお姉ちゃんとしかしゃべれなくなっちゃった」


 話しながら今度は金色の長毛種にも手を伸ばす。ふかふかでとても触り心地がいい。相手は寝返りして、背中もなでるよう暗に催促してきた。


「でもね、最近お姉ちゃんとも口をきいてないの。ううん、けんかしたわけじゃないんだけど、なぜか言葉が出てこないの。話し相手なんてお姉ちゃんしかいないのに……。ねえ、どうしたらいいと思う?」


 二匹はすっかり寝入ってしまったのか、声を出すことはなかった。邪魔せぬように手を引っ込めて、ぼんやりとグラウンドを見つめる。

 少女たちが大きな掛け声を上げて、サッカーを楽しんでいた。私はひざを抱えこみ、眼前の光景を眺めながら物思いにふける。

 春が過ぎれば夏が来て、あっという間に一学年が終わりを迎える。日陰にいて孤独な自分と比べ、陽光の下で戯れる少女たちがまぶしく見えた。


 独りでいるのは嫌いではなかった。いやむしろ、誰かに構ってもらうのは自分が惨めに思えて、そっとしておいてほしいと感じることもあった。いい子ちゃんの点数稼ぎに利用されているとまでは言わないが、気の毒で哀れな少女と扱われているようで、だんだん悲しくなってくる。


 もう何もかもが面倒くさい。人に合わせるのも、人に合わせてもらうのも。ここを捨て、どこか遠くに行ってしまいたい。でも自分にはそんなこととてもできやしない。

 どうしてこんな無駄な悩みを抱える必要があるのだろう。人類は少々、お利口になりすぎたのだ。


「あーあ、人間なんて滅んじゃえばいいのに」


 自分でもびっくりするような悪態が口に出た、その時──

 頭上からバキバキという音とともに、一本の太い木の枝が落ちてきた。二匹のネコは鳴き声をあげてどこかへすっ飛んでいく。私が慌てて天を見上げると、続けて大きなサバトラが叫びながら降ってきた。


「うにゃあああっ!」


 ひらりと空中一回転。スカートが大きくめくれ上がる。


「うわったったったっ! あっぶにゃい、落っことすとこだった!」


 片足で跳ねながら、なんとかスマートフォンを受け止める。私はあんぐりと口を開けてその少女──ネル・ケイスネスを見つめた。


「……にゃ」


 目が合ってぴたりと動きを止めたヒト科のメスは、誤魔化すように付け加えた。


「あははは! いやー、聞く気はなかったんだけどね。たまたま上で寝ていたら……」


 ネルは背筋を伸ばし、いてもいないのに言い訳を始める。


「あのおとなしいトラヴァーズさんが猫と話し始めちゃったから、ちょっとカメラを回して……」


 手をわたわたとさせながら、恐れるように一歩ずつ引きさがる。私は思わず一歩踏み込んだ。


「撮ったの?」


「そりゃあもう、ばっちりと。み、みんなに見せちゃおっかなぁ~」


「ダメ!」


「えー、普段は静かなのにいっぱいしゃべって、挙句にあんな毒舌を──」


「だめ、やめて……」


 私は背伸びをして取り上げようとするが、掲げたネルの手にはとても届かない。私の身長が百四十とすこしなのに対し、ネルは百六十ほどもあった。


「ふふふ、きっと驚くだろうね~。トラヴァーズさんの声、まともに聞いたことないってみんな言ってるもん。うわさ話に飢えてるから、こういうのはすぐ広まるぞぉ」


 クラス中の少女たちが自分を見つめて笑う光景を想像してぞっとする。体が固まって、笑う相手の顔を震えながら見上げた。


「まずは誰に送っちゃおうかなあ──って、待って! ちょっと待って、泣かないで!」


 いつの間にか、自分の瞳から涙がぽろぽろとこぼれ落ちていた。十四歳にもなって恥ずかしいとわかっていても、その流れを止めることはできなかった。


「わかった、消すから! すぐに消すから!」


 ネルは大慌てて操作し始める。しばらくすると画面を突き出して弁解するように言った。


「ほら、消したよ、だからゆるして。寝てたってのはうそで、メンバーを撮影してたんだよ。そしたら声が聞こえたから、自然に撮れちゃってさ。ちょっとからかっただけで、みんなに見せる気なんて最初からなかったんだ。お願い信じて……」


 手を組んで必死に哀願する。私はしゃくり上げながら、涙で濡れる目を手でこすった。


「あっ、猫を触った手で目をこすったらだめだよ」


 その時、いつの間にかそばに来ていたふたりの少女が話しかけてきた。


「どったの? 何かあったん?」


「ミアちゃん泣いてるじゃん。おいネル、美少女いじめるなよ~」


「ち、違うよ。ちょっと驚かせちゃっただけでさ……」


(うそつき)


 保身のために言葉を偽ったネルを、私はすこし軽蔑した。優しい子だと思っていたのに、こんなことをするのなら、先生がガートルードを級長にしたのは正しかった。


「ミアちゃんは相変わらずお人形さんみたいだね〜」


「ちっちゃくてかわいいな~。ねえ、頭なでてもいい?」


「ダメだって。あっち行けよう」


 私はネコに触れていない手首で涙を拭く。背の高い少女たちに取り囲まれて怖い。


「そろそろ先生が見回りに来るよ」


「見られたら面倒なことになるかもね」


「げげ。と、とにかくいったん顔を洗わないと目がかぶれちゃうから、一緒にトイレへ行ってくる。猫を触った手で目をこすったんだ。ほんとにわざと泣かせたとかじゃないから……」


「わかったわかった、早く行ってら」


「お花を摘むって言いなさいよ。変なことするなよー」


「しないってば! さ、行こう、トラヴァーズさん。あっちはあんまり人が来ないんだ」


 ネルは私の肩に手を回し、動くように促した。うつむいたまま抱かれるように、校舎の端へと歩きだす。木蔭から出ると一気に気温が上がる。サバトラとあだ名されるその少女の手は、なんだか太陽のように温かい気がした。



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