第2話 人形の夢
帰宅した私は、洗面所の鏡と向き合っていた。なんだかいつも以上に意識がぼんやりとして、今を考えることができなかった。
私はいつも周囲から「お人形さんみたいだね」と言われている。なぜそのような言葉をかけられるのか、自分でもわかっていた。とくに褒めるものが無いからそう言われてしまうのだと、ちゃんと知っていた。
たしかに鏡のなかには、今にも壊れてしまいそうな人形がいた。線の細い金色の髪、雪のように白い肌、折れそうな華奢な体。気だるげな薄青の瞳が、じっとこちらを見つめている。小さな子供に乱暴に扱われたら、いとも簡単に手足がもげてしまいそう。
決して自らの意思では動けない、ただのお人形。
(この人形の名はミアというの)
鏡の己を見つめて思う。
ひとたび外に出れば、誰とも普通にしゃべることはできない。優しくするように大人たちから言いつけられた〝お友達〟にそっと耳打ちをするだけ。たとえ家の中にあっても、父はおろか母にすら考えを伝えられない。
ただひとり、八つ上の姉、ドリーとだけは会話ができた。彼女だけがこの人形の扱いを知っていた。
(わたしは、お姉ちゃんのために生まれ……いいえ、作られたお人形)
ドリーは私に似合う服を着せて、壊さぬようにそっと椅子に乗せ、後ろから髪を結う。その日のコーディネートにぴったりの髪飾りを選び、最後にいつもこう言った。
──「完成」
されるがままのあいだ、私は姉にいろいろな話をした。ドリーはなにを聞いても笑顔でうなずき、優しく頭をなでてくれた。
だから私は姉を心から愛しているし、大切にされることに喜びを感じている。
でもついさっき母が、ふたりきりの時を見計らって、いつものように押し黙る私へため息まじりにつぶやいた。
──「ミアがそんなんじゃ、ドリーが結婚できない」、と。
姉に恋人がいるなんて、ただの一度も聞かされていなかった。
私はドリーにだけはなんでも伝えられたのに、向こうは自分にすべてを言えたわけじゃないと知って、とても悲しかった。
自分の部屋に駆け込んで落ち込んでいると、いつものようにドリーがやってきて、なにか悲しいことがあったのかと問いかけた。私は自分を見つめる不安そうな顔を見た途端、涙が滝のようにこぼれ落ち、温かな胸に抱きしめられながらむせび泣いた。
こんなことはこれが最後だと思いながら。
言葉に出さず「ごめんなさい」と叫びながら。
胸のうちで「さようなら」と告げながら。
夢のなかへと落ちていったの──。
* * *
ここはかわいいドールハウス。大きな耳をした毛むくじゃらの人形が、左右にカタカタと揺れながらしゃべる。
「ごきげんよう、お嬢さま。本日はどこへお出かけに?」
「あら、モークル。今日はお城の舞踏会に行くのよ」
わたしは馴れ馴れしい召使いに言葉を返した。わが家に雇われている、野良育ちのいやしい妖精。ご飯だけは必要な分を与えられているけれど、何度教えても作法は覚えられない。ボサボサの茶色い体毛がいかにも安っぽさを醸し出している。
「いいなあ、さぞかし美味しいメシをたらふく食えるんだろうな。おでも一度ぐらい連れていっておくれよ」
「何を言ってるの。お城にあなたなんて連れて行けるわけがないでしょう。わたしに恥をかかせる気?」
わたしは腕を組み、粗野な妖精を見下ろす。相手はからかうようにピョンピョン跳ねた。
「おっ、見せつけてくれるねぇ、柔軟な関節を。なあに、言ってみただけだよ、言うだけタダだしさ」
「あんたとは出来が違うの。わたしは全部で二百以上も動かせるのよ」
「ほえ~、おでなんか一つしかないぞ。まっ、首が回るだけマシか!」
モークルは足をカタカタと前後に揺らして笑う。笑った顔に作られているから、いつも能天気なのである。
「まったく、のんきでいいわね。いいこと、わたしが帰ってくるまでに、ちゃんと掃除を済ませておくのよ」
「わかってますって、お任せくださいお嬢様」
「そうやっていつもセルマに怒られているくせに。あら、噂をすれば……」
揺れ動いていたモークルは、安定感のある太い足でもって直立不動に立たされた。わたしは足を曲げられて、小さな椅子に腰を下ろされる。
「お嬢様、そろそろお時間です。じきにお迎えが上がりますゆえ、階下の方へ」
「わかったわ。ありがとう」
現れたメイドに、わたしは小さくうなずいた。
彼女はこの家の使用人を取り仕切るハウスキーパー。光沢のある黒髪を肩で揃えた、美しい女性ビスク・ドール。あとから作られたにもかかわらず、わたしより年上ということになっている。この世界の設定は、あらゆる部分で破綻している。
「そんじゃおでは、おとなしく馬小屋に戻るとしますか。バーイ!」
馴れ馴れしい挨拶をしたモークルが慌ただしく退場した。きっと
あっという間に景色が変わり、椅子に座ったまま、お城の場面へと切り替わった。幕に描かれただけの背景だが、ここは間違いなく城なのだ。たくさんの動かない人形たちがわたしを遠巻きに見つめていて、舞踏会であるのがうかがえる。
前方から一目で王子と判る人形がやってきた。長い黒髪に蠱惑的な瞳。豪奢なコートにマントを羽織る、男性ビスク・ドール。あれは姉のお気に入り──
「アーヴィンさま!」
わたしが両手を合わせて叫ぶと、王子は嬉しそうに片手を上げた。
「ドリー!」
どうしてわたしをその名で呼ぶの? いだき始める妙な違和感。この世界は夢であり、目覚めの時が近づいているのをうっすらと感じていた。
「よく来てくれたね、ドリー。もう会ってはくれないと思っていた」
「いいえ、そんなこと。だってわたしは本当の愛に気づいたんですもの」
どうやらわたしは彼とけんかをしていたらしい。ついこの前は華やかな結婚式を挙げたような気もするが、今日はその前日譚なのだろうか。
「ああ、愛しのドリー。どうかぼくにそのお手を──」
わたしは座ったまま右手を差し出し、アーヴィンは眼前にひざまずく。その唇が手の甲に近づいたちょうどそのとき、広間に大声が響きわたった。
「ちょっと待ったー!」
「なんだ? お、お前は……モークル!」
王子は忌々し気に叫ぶ。毛むくじゃらの妖精は抗議するようにゆらゆらと前後に揺れた。
「はぁはぁ、間に合ったぞドリー」
「まあ、モークルなんてこと、どうしてここに来たの! そんな恰好で恥ずかしい!」
「見てくれなんて関係ない! きみはこの前、そう言ってくれたじゃないか!」
「ど、どういうことなんだ、ドリー?」
「ドリーはお前よりおでを選んだってことさ!」
「ばかなこと言うな! そんなわけ──」
わたしは勝手に動かされる体についていけず、話が滑るように流れていくのを感じた。くだらなく思えて集中ができない。気づけば心は体をすり抜けて、もぬけの殻となった人形を
巨大な女の子がひとりで人形遊びをしている。金髪であどけない、見慣れた顔だち。
もしかしてあれはわたし? いや、ピンクのフリルは姉のもの。この光景は、ドリーが幼いころに違いない。
彼女は満面の笑みを浮かべながら、わたしの器だった人形のポーズを変えて、物語を続けようとした。すると隅っこにいたおもちゃのモークルがひとりでに立ち上がり、カタカタと左右に揺れながら、魂となったわたしのもとへと近づいてくる。
「来ないで!」と自らの意思で叫ぶ。
その瞬間、モークルは「びよーん!」と言って頭がはじけ飛び、わたしの右腕に噛みついてきた。
「きゃあああああ! 痛い! 痛い! やめてえええええ!」
毛むくじゃらの妖精は黄色く汚れた牙を突き立てて、肉を食いちぎろうとする。着ていたドレスが真っ赤に染まっていく。左手で相手の頭をたたいてやめさせようとするが、かえって食い込み激痛が走る。もうダメだ──。
ガチンと歯と歯が噛み合う。たまらずわたしは気絶した。
* * *
毛布をはねのけて飛び起きる。一気に大量の息を吸い込んで、きりきりと胸が痛む。
──夢、か……。いや、悪夢だ。
でも、よかった。なんとなくそう思ってはいたけれど、とにかく無事でよかった。
激しく鼓動する胸に手を伸ばそうとすると、右手がジンジンとしびれていた。どうやら頭の下に挟んで眠っていたようだ。
このまま動かなくなったらどうしようと、左手で必死にマッサージをする。しばらくしたら感覚が戻ってきて、ほっとため息をついた。
乱れた心が落ち着くと、いつものように夢の分析を始める。
モークル、セルマ、アーヴィン──すべて姉のドリーが持っている人形の名前だ。やはり昨夜の一件、結婚を聞かされていなかったことがショックだったのだろう。
細かな部分は、近ごろ耳にした雑談を覚えていたようだ。あのくだらない流れは、隣の席の子たちが話していた恋愛ドラマの内容が混じったに違いない。
夢なんて大抵、身の周りで起きた出来事が影響している。自分で考えているわけでもないのに、物語の体裁をなしているのはじつに不思議なことだ。
(でもどうして、ドリーが子供のころの設定だったんだろう)
姉とは歳が離れているから、どんな子供時代だったのかは知るよしもない。しばらく考えたのち、時間の無駄と察してかぶりを振った。
鍵をかけた引き出しから小さなノートを取り出して、簡単に夢の内容をまとめ上げる。夢日記をつけると気がおかしくなるなんて言うけれど、いつかなにかの役に立つと思って続けている。
毎日のように不思議な悪夢に悩まされているが、いつまでも考えているわけにはいかない。書いて終わらせるのが精一杯の対処法なのだ。
手書きにするのは、余計な情報をはさまないため。書き終わったらまたしまい込んで鍵をかける。部屋掃除は自分でしているが、母に見つからないよう念のため。
最後に、机に置かれた白黒ふたつの仔猫をなでる。自分で作った、フェルト製の粗末なぬいぐるみ。現実が無理ならせめて夢で飼おうと思ったが、残念ながらこれまで一度も現れたことはない。
パジャマを着替えて廊下に出ると、リビングから話し声が聞こえてきた。聞き取れないが、おそらく母とドリーが会話しているのだろう。すると足が無意識に引き返し、隣の部屋の前まで戻ってきてしまった。そのまま扉のレバーを回し、姉の部屋をのぞきこむ。
そこは人形の部屋だった。ガラスケースにはいくつものビスク・ドールが座って収められている。汚れひとつ無く、整然と並ぶさまは圧巻だ。これらは、だいぶ前に亡くなった、人形作家だった祖母から受け継がれた大切なものだった。
(全部で何体あるんだろう……)
私には祖母とやりとりした記憶がない。晩年の祖母は視力が悪くなり、私に人形を作ることのないまま天国へ旅立った。ドリーは私にいくつかを譲ろうとしたが、貴重なものと知っていたから、受け取るのは断った憶えがかすかに残っている。
ふと人形の一体、メイドのセルマの視線を感じた途端、すべての人形が自分を見つめているような気がした。
名前のつけられたそれらを一つひとつ見まわすが、そこにモークルの姿は無かった。あの人形は目の前で壊れて幼いころの私が怖がったので、押し入れにしまわれた。ドリーが人形を捨てるはずはないから、今もきっと扉の向こうにいるのだろう。
私は急に恐ろしくなって部屋を出た。扉を背にして目をつむる。いつからか、人形の瞳を見るのが怖くなった。そこに魂などないとわかっているのに、どうしても体がおびえてしまうのだ。
(学校、行きたくない……)
人前でしゃべれない自分を気遣い、両親はすこし無理をして、裕福な家庭の子が通う女子校に入れてくれた。クラスメイトは皆とてもいい子たちで、いじめられることなんてない。教師のなかには嫌味な人もいるけれど、べつに彼らに問題があるとは思っていない。すべて自分の側に問題があるのだ。
(こわい、こわいよう……)
しわが寄ることなんて気にせずに、つむる目に力をこめる。手を交差して胸を抱きしめ、背中を扉に押し付けて、ずりずりと下に落ちていく。
「──ミア、どうしたの? 具合でも悪いの?」
いつの間にか目の前にドリーが立っていた。私は立ち上がってその顔を見つめ返す。
「お姉ちゃん」
「なあに?」
結婚を考えている恋人がいると、どうして言ってくれなかったのかと聞こうとしたが、言葉は一語も喉から出てこなかった。
「……なんでもない」
学校を休むわけにはいかない。私はうなだれてドリーの横を抜け、顔を洗いに洗面所へ向かう。言葉を交わすことのできる唯一の相手が、一歩ごとに遠ざかっていくような気がした。
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