夢幻のオネイロス
かぐろば衽
猫の王国
第1章 人形の夢
第1話 悪夢の教室
クジラの夢をみた。
私は海の中にいて、はるか上の水面から光が射し込んでいる。
不思議と息ができた。
身じろぎひとつせずにたたずんで、目の前で繰り広げられるさまをじっと見つめる。
大小さまざまなクジラたちが右奥からやってきて、私と向かい合う。
光線にきらめいて輝く、幻想的な情景。
誰にも邪魔されることのない、幸せな時間。
すぐに目が覚めてしまったけれど、残念とは思わなかった。
夢で感動するなんて、生まれて初めての経験だった。
あれは本当に私が考えたこと?
とてもそうは思えない。
夢を創る神さまがいて、あのすてきな光景をみせてくださったとしか考えられなかった。
いつも、息がつまる悪夢ばかりみていた。
あの日から、私のなかで何かが変わり始めた。
* * *
私──ミア・トラヴァーズは、教室の中心でひとり立たされていた。長い金髪を垂らしてうなだれ、顔からは血の気が失せ、体はわずかに震えている。
べつになんてことはない、ただ単に授業中にあてられただけ。それでもこの私にとっては、拷問にも等しい時間だった。
「顔を上げて、もっと大きな声で。ちゃんとみんなに聞こえるように」
教壇にひじをついた男性の教師が、つい先ほどと同じことを言った。私は冷や汗をかくのを感じながら呼吸を落ち着かせ、声を必死にしぼり出す。
「……白……雲……独り……さまよって……──」
蚊の鳴くような、かすれ声。案の定、それは即座に否定されてしまう。
「だめだ、まったく聞こえない。もっと悠然と朗々と堂々としたまえ。心に映る情景を強く想像して表現してみるんだ。ちゃんと予習してきたのかね?」
しんと静まり返る教室。
私は詩を読めないわけではなかった。しかし人前に立つと恐ろしくなって、どうしても他者に聞こえる声が出せないのだ。
なにも返せず完全に詰まっていると、隣の少女が前の子にそっとささやく声が聞こえた。
「かわいそう」
非の打ち所のない、自分に対する客観的な評価が下される。聞えよがしに言ったのか、聞こえぬように言ったのが聞こえてしまったのかは判らない。どちらにしても、私の心には突きささる一言であった。
中年の教師は十四歳の少女たちを見まわしてため息をつくと、首を振って語り始める。
「いいかね君たち。私は何もいじめてるわけじゃないんだ。将来、大人になって世のなかに出ると──」
……また始まった。
教室は教師の独壇場。あなたは何ひとつ間違っちゃいない。あなたのおっしゃることはすべて正しい。下を向きながら心のなかで謝罪する。
いつまでこの耐えがたき拷問は続くのだろう。じっと歯を食いしばる私の耳から教師の声が遠ざかっていく。
その時だった。突如として教室中に響きわたる、盛大になにかを床へぶちまける音。
クラス全員の視線が左後方へと向けられる。
日当たりのいい席に座った、銀と黒が入り混じる長髪の少女が顔を上げ、とぼけた声を発した。
「ふぁ?」
一斉に少女たちの笑い声が部屋を震わせる。ざわめきの中、教師が軽く舌打ちする音が私の耳元に聞こえてきた。
「ケイスネス、立て!」
「ひゃいっ!」
「また寝てたのか、このサバトラ!」
「すいませんでしたぁ……」
ネル・ケイスネス、通称サバトラ。背が高いことを除けば、たしかに猫を思わせるところのある少女だった。
もともと銀だった髪色はだんだんと黒が混じりだし、今ではほとんど
これで成績は優秀なのだから、教師もあまり強く言うことはできないようで──。
「もういい、ふたりとも座れ」
興が醒めたのか、教室で唯一の男性は諦めて授業を再開した。私は身を縮めて着席し、魂が抜けたように静かに深く息をつく。
すぐに開いた本を見つめて、やるべきことに集中しようとする。だが頭のなかには、教師にあてられるすこし前、落とした消しゴムを拾い上げた際に見た、頬杖をついて退屈そうにするネルの横顔が思い浮かんでいた。
(助けてくれたのかな……)
一度あてられたら、もうこの授業で矛先になることはない。そんな安心感から、意識はあっと言う間に授業の内容から離れていった。
(サバトラ……か。あのにゃんこたち、今日もいるかな)
猫を冠したあだ名を耳にしたせいか、思考は本物の動物へと変わっていく。近ごろ学校の敷地に入ってくる二匹が、丸くなって眠る姿を想像する。以前に何度か遠巻きに目にしただけだが、いちど近くで見てみたいと思っていた。
(あ~あ、ネコ飼いたいなぁ。でもお母さんにはとても言えないし……)
つましい田舎のアパート暮らし。ペット禁止の住居ではないけれど、親の説得には難儀していた。幼いころは気軽に話せていた記憶があるのに、今ではろくに会話もしない。
(いつからこうなっちゃったんだろ……)
教師が次の犠牲者を立たせる声にハッとして、私は慌てて文章を探し始める。この光景は悪夢のように耐えがたい日常であり、あの教師が言うように将来の自分を想像すると、暗い思いはなおいっそう強くなるのであった。
* * *
「ミアさん、お待たせしました。一緒に帰りましょう」
私がいつもと同じ木蔭で物思いに耽っていると、普段どおりの穏やかな声が聞こえてきた。顔を上げると、きっちりと制服を着こんだ少女が小さく手を振る。
ガートルード・グッドフェロー。光沢のある長い黒髪をもつ、真面目な優等生。教師からの受けは極めていいし、友人も決して少なくはない。そんな彼女が自分と一緒に帰宅するのは、単に家が近いという理由にほかならなかった。
首を一回うなずいて応える。あとはもう別れるまで、特に会話もなければやりとりすることもない。こちらから話すことなどないし、あちらもないのだろう。
ガートルードは人の話をよく聞き、おしゃべりな子ではないから、それがお互いにとってストレスのない関係であった。
私たちはすこし距離をとって並木道を歩き始める。
ここはイングランド北部のカーライル。もともと南のジェッドワースに住んでいたわが家は、私が十一歳のときにここへ引っ越してきた。両親がわざわざこの地に住居を構えたのにはわけがある。
人前で話すのが苦手な
私はいつも誰かに守られている。
いま隣を歩くガートルードもそのひとり。彼女はとても立派な性格をしていて、人を苦手とする私を壁側にして歩いてくれたり、話す必要があれば代わってくれたりもする。それでも私は、彼女に心を完全に許すことはできなかった。
なぜならこの子は、もともと自分の意思というよりも、大人たちから指示されて一緒にいるようになったから。私はそれをとても申し訳なく思っていたし、身勝手ながらこの関係を解消したいとすら思っていた。
互いに沈黙を保ったまま歩くこの状況は、彼女にとっても居心地のよいものではないだろうに、いったいなぜ続けられるのか、私には理解しがたかった。
だが何よりも腹立たしいのは、この関係がなければ完全に孤立して、人がいて恐ろしい街を歩けない自分が、それを黙って享受し続けることであった。
このように私の心はいつも何かにおびえ、心配し、悩ましいものとなっていた。自宅のアパートがようやく見えてきて、私はほっと胸をなでおろす。
「それではミアさん、ごきげんよう。また明日ね」
小さく手を振るガートルードに、私は頭を縦に二回振って応えた。一つ多くするのは、私なりに一応の感謝を込めているつもりだった。礼儀正しい彼女がその行動をどう感じているかは知らないが。
(ばいばい)
自宅への道の途中、私はいちど振り返り、黒髪の少女の後ろ姿に向かって、心のなかでつぶやいた。
(ごめんね)
最後にそう付け加えて、私は古めかしいアパートへと向かう。涼やかな風が心地よい、まだまだ日が暮れる様子のない春の夕方。長かった沈黙を破り、一気に自然の音が聞こえ始めた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます