【第2章】 湖畔キャンプ編 斉藤ナツ 14


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 私は走っていた。紗奈子の手を引いて、湖の周りの林を。自分のキャンプサイトに向かって。


「なっちゃん? なんでこっち?」


 紗奈子が不安げな声を上げる。紗奈子としては、当然、駐車場から続く車道から山を降りるものと思っていたのだろう。


 事実、二人で一度は駐車場に向かった。しかし、私の愛車はすでになかった。白鳥の車が駐車場にはあるはあったが、無論鍵がかかっており、使えない。つまり、逆に言えば、山道を走っておりようとしたところで、逃走に気がついた白鳥に車ですぐに追いつかれてしまうということだ。


 次に、二人で電話を探した。逃げられないなら、助けを呼ぶしかない。しかし、周辺の受付の建物なども手当たり次第に探してみたが、回線が通じている電話は一つもなかった。ロッジを出る際に気絶した石田の服も探ってみてはいたが、携帯は持っていなかった。紗奈子の充電切れの携帯も白鳥に預けたらしいから、石田も同様だったのだろう。


 残るは、私のスマホだけだ。


 私は白鳥に気絶させられる直前に、スマホを放り投げた。音からして浮かんでいた古いボートの上に転がったはず。つまり、林のキャンプサイトに戻れば、通信手段が手に入ると言うことだ。


 時間稼ぎで七輪をひっくり返しては来たが、うまく燃え広がったところで、白鳥はすぐに消火して逃走を開始してくるだろう。だから走った。日中に薪を拾いながら歩いた林道を二人で走った。月が若干出ているようだが、林の中では月明かりなどないに等しい。受け付けのカウンターの奥で見つけた古い懐中電灯一つを頼りに、紗奈子を連れて走り抜ける。


 脇腹が痛い。正確にはあばらだ。多分、最低でも骨にヒビぐらいはいっているだろう。息を吐く度に鈍い痛みを感じる。


「なっちゃん、大丈夫?」


 返答する余裕はなく、前を向いたまま頷く。もう少しだ。もう少しでキャンプサイトに着く。


 紗奈子がぎゅっと私の手を握りしめた。先ほどの殴り合いで拳も痛めたのだろう。痛みが走るが、それでも私は強く握り返した。


 ようやく私のサイトにたどり着いた。


 焚き火台の火は完全に消えている。古びた懐中電灯の頼りない光で辺りを照らし、まず、自分のLEDライトを探し当てた。スイッチをONすると、懐中電灯とは比べものにならない光量でサイトを照らし出す。私はその光を水辺に浮かぶボートに向けた。ボートの端から端まで照らし出す。


 私のスマホはなかった。


 背中に冷水を浴びせられたようだった。一瞬目の前が暗くなる。息を吐いて目をつむり、思わず歯ぎしりをする。


 なんて楽観的な判断をしていたんだ私は。よくよく考えれば、ボートに音を立てて転がったスマホに、白鳥が気づかない訳がない。当然のように回収されて、今頃は車と一緒に湖の底だ。


 私がパニクっているのが一目瞭然だったのだろう。紗奈子は私の当てが外れたことを悟ったようで、オロオロと周りを見回した。そして、腹を決めたかのように私に向き直った。


「た、戦う?」


 そう言って、紗奈子は近くにあったスキレットを持ち上げた。武器選択としてはこれ以上ないナイスチョイスだが、スキレットを握りしめた紗奈子の手は小刻みに震えていた。


 紗奈子は私の今日の戦いを全部見ている。


 ラウンドワンは、まさにこの場で、白鳥に手も足も出ないままKOされた。ラウンドツーは先ほど、一酸化炭素が充満するロッジで、意識が朦朧としている石田相手に辛うじて勝ちを拾った。しかし、こっちの体もボロボロだ。端から見たら、さぞ無様な殴り合いだっただろう。


 紗奈子だってわかっているのだ。まともに戦っても勝ち目がないことは。


 考えろ。考えろ斉藤ナツ。


 ふと、ボートに目をやった。


 かなり古びている。金具にも錆が見られる。だが、木材が腐っている様子はない。よく見れば、ボートの中にはオールも置いてあった。そして、二人乗りだ。


 私はゆっくりと、片足をボートに乗せた。ボートはゆらりと傾いたが、浸水する様子はない。覚悟を決めて体重を乗せ、もう片方の足もボートに移し、完全に乗り移った。


 大丈夫だ。沈まない。まだ使える。


「紗奈子」


 ぽかんと口を開けている紗奈子に向かって私は言った。


「私を信じて」


 紗奈子はゆっくりと口を閉じ、そして力強く頷いた。




 手漕ぎボートの操縦は思いのほか難しかった。オールを固定できるはずの金具が壊れて使い物にならない。しかも、オールは片側が折れており、まっすぐ進むためには毎回、左右にオールを移動させなければならない。私は脇腹の痛みに歯を食いしばりながら、一漕ぎ一漕ぎ、まるで這うように水面を進んでいく。


 両膝に挟んだ懐中電灯で前方の水面を照らし出す。しかし、恐らく単一電池なんかを光源にしているのだろう。古い懐中電灯の明かりでは、数メートル先はもう真っ暗だ。頼りにしていた月も、今は完全に雲に入ってしまっている。肝心なとき、あんたはいつもそうだよね。思わず月を睨み付ける。


 今、自分がどの辺りをすすんでいるのかよくわからないが、まだ湖の中央にも届いてはいないだろう。もっと早く進まなければ。


 しかし、私はボートの操縦に慣れているわけではない。しかも、このボートは壊れかけだ。ボートは遅々としてなかなか進まなかった。焦りが募る。


 甲高い鳴き声とともに、近くで一匹の水鳥が飛び立った音がした。ばしゃりと水面が鳴り、ばさばさと羽音が遠ざかっていく。


 驚かしちゃった? ごめんね。


 そう水鳥に胸中で謝った時だった。先ほどとは比べものにならない数の鳥たちの鳴き声が聞こえ、一斉に水鳥が飛び立つ羽音と水音が湖畔中に響いた。あまりの騒々しさに思わず肩をすぼめる。


 そして気がついた。鳥の鳴き声に紛れて、異音が響いている。私はそこで、この鳥たちは私から逃げている訳じゃないことがわかった。


 全く予想外の方向。私が進んでいる方向の斜め前方の対岸から、低い、それでいて、けたたましい音が響く。


 それがエンジンの重低音のであることに気がついた私はがむしゃらにオールを漕いだ。脇腹の痛みも、右手の痛みも無視して、必死に両手を動かす。


 白鳥の最新式のモーターボートが、すさまじい速度で迫ってきていた。




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