【第2章】 湖畔キャンプ編 白鳥幸男 3


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 白鳥幸男を、かつてないほどの興奮が支配していた。


これまで、何人もの自殺志願者をロッジで送り出し、湖に遺体を沈めてきたが、抵抗し、逃げていく相手を追い詰めるのは初めての経験で、全身の血がたぎっていた。その顔には、藤原紗奈子の信頼を勝ち取り、斉藤ナツの目をごまかしたあの爽やかな笑顔は完全にどこにもなかった。狩りの楽しさに目覚めた、欲望に支配された醜悪な笑みがべったりと張り付いていた。


 それでも白鳥は思い込んでいた。思い込もうとしていた。自分につぶやき続けていた。


 僕は救う。この世の苦しみから、あの二人を救ってあげるんだ。


 自慢の、磨き上げられたモーターボートはエンジンを唸らせながら水面を滑るように進む。


まっすぐキャンプサイトに向かっていたが、おぼろげな光を頼りに水面を進む手漕ぎボートを見つけて、白鳥は思わず吹き出した。あんなおんぼろボートでどこに行こうと言うのだ。


 船首を手漕ぎボートの方に向け、追跡を開始する。ぐんぐんと距離が縮まっていく。あと十数秒もすれば、追いつくだろう。さあ、どうする。


 その時、湖のちょうど中央まで来た手漕ぎボートがふと動きを止めた。何の偶然か、そこはちょうど、いつも白鳥が遺体を沈めている辺りだった。


 何事かと思い、白鳥もボートを止める。


 バシャリ。


 重い物が水面に落ちた音がする。


 嫌な予感がした白鳥は、急いで船首に備え付きのライトの光量を強め、角度を調整し、手漕ぎボートを照らした。手漕ぎボートは白鳥に対して横向きになって浮かんでいた。


 船の上に女の背中が見える。あの上着の色は、紗奈子がなっちゃんと呼んでいた女だ。そう思った次の瞬間、そのなっちゃんはすっと湖に身を投げた。ボートを挟んだ向かい側に。ゆっくりと。まるで観念したかのように。全てを諦めたように。


 バシャリ。


 再び水音が鳴り、深夜の湖畔に沈黙が訪れた。


 白鳥はモーターボートをゆっくり進め、無人になった手漕ぎボートに横付けし、エンジンを止める。


 白鳥はモーターボートから身を乗り出し、額のヘッドライトで手漕ぎボートを照らす。船体の中には、なっちゃんの靴と、紗奈子の靴が綺麗に横並べに置いてあった。


 逃げ切れないと悟り、自ら旅立ったのか。


 白鳥の理念としては、理想の展開であった。自ら旅立つのであれば、それにこしたことはないのだから。


 しかし、白鳥を大きな落胆が襲っていた。それが、自分が狩りをし損ねたが故の落胆であることに、白鳥は気づこうとはしなかった。


 諦めきれず、首を振り、ボートの周辺をヘッドライトで照らす。飛び込む振りをしてボートの陰に隠れているのではないかと勘ぐったのだ。しかし、水辺の暗闇には何も見つからない。考えてみれば、体重をかけてボートの縁に掴まれば、確実にボートは大きく傾くはずだ。かといって着衣の状態で、何にも掴まらないまま、沈まず、浮かばずの状態を淡水の水中で維持するなど、水泳選手であっても至難の業である。まず不可能だ。


 白鳥の極限まで高まっていたテンションが急降下する。投げやりになった白鳥がさっさと引き返そう思ったとき、船体に並べられた紗奈子の靴の側に、白い封筒が立てかけてあることに気がついた。


 白鳥は慎重に手漕ぎボートに乗り移った。ぎしりと船体が揺れる。揺れが収まってきたタイミングで封筒を拾い、白鳥は手漕ぎボートの上で立ち上がった。


 封筒には「遺書」と書かれていた。裏をめくってみると、「ケンくんへ」と書いてある。


 白鳥は紗奈子との約束を思い出した。確か、スポーツカーを適当な場所に放置して、ダッシュボードにこの手紙を入れておいてほしいという頼みだった。白鳥はもちろん快諾した。そして、紗奈子は最後の最後、その約束だけは果たしてくれという意味でここに残したのだろう。


 未練がましい。白鳥は鼻で笑って手紙を湖に放った。


 初めから、紗奈子との約束を守る気ははかった。スポーツカーを白鳥が移動させて放置するなど、リスクが高すぎる。どうせ紗奈子が死んだらスポーツカーも湖に沈めるつもりだった。死人に口なしである。白鳥の理念からすれば、この世界に未練をたらたら残すような死に方自体が浅ましかった。


 白鳥が投げ捨てた封筒は風の抵抗を受けたのか、思ったよりボートの近くに落ちた。一瞬、未練がましく浮遊したあと、音もなく水中に沈んで行く。


 その様を見つめていた白鳥はぎょっとした。水中からぶくぶくと泡が浮かんでくるのだ。


 次の瞬間、白鳥が乗っている手漕ぎボートの船体が大きく揺れた。何にも掴まらずに立っていた白鳥の体がバランスを崩して揺らぐ。あわてて両手を振り回してバランスをとろうとするが、逆効果だった。追い打ちをかけるようにボートは揺さぶらされ続ける。


 船の下に何かいる。


 あの女たちか? あり得ない。うまく隠れていたとしても、海とは違って淡水だ。確実に沈んでしまうはずだ。じゃあなんだ。なんなんだ。


 脳裏に白鳥がこれまで沈めてきた人間の顔が次々に浮かぶ。


 馬鹿な。僕はやつらを救ってきたんだぞ。感謝こそされても、恨まれる筋合いは・・・・・・


 そう心の中で叫んだのと同時に、ボートは完全にひっくり返った。白鳥は投げ出される。何人も死に誘導し、その遺体を沈め続けた水面に向かって、白鳥の体が近づく。


 僕は・・・・・・


 次の瞬間、白鳥の体は暗い水中に完全に飲み込まれた。




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