【第2章】 湖畔キャンプ編 藤原紗奈子 2

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 「藤原紗奈子は誰も頼ってこなかった」そう言うと語弊がある。


 紗奈子は何度も周りに助けられてきてはいたのだ。


 不器用な義理の両親に。学校の先生に。家出グループの若者たちに。ただ、自分から助けを求めたことがなかった。だから、自分を助けてくれている存在に気がつかなかった。自分は誰からも関心を持たれず、居場所もないのだと勝手に思い込んだ。


 あげくに男に言いようにあしらわれ、絶望し、唯一手を握ってくれた白鳥を簡単に信用した。


 そして、ようやく命をかけて守りたい存在が現れた時には、死が目前に迫っていた。


 紗奈子は泣きじゃくった。いつものように。絶望して、嫌になって。


 そんな時、一人の大人が現れた。


 紗奈子と同様、死ぬ寸前の、自分だってどうしようもない状態で、むしろ、紗奈子よりボロボロの状態の女性だった。


 それでも、彼女は紗奈子に手を伸ばしてきた。実際には彼女の両手は縛られていたけれど。彼女は確かに紗奈子に手を伸ばしてくれたのだ。


 手を取ってくれたわけではない。慰めてくれたわけでもない。ただ、手を出して、「握りたいなら握れば?」と、そんな風に。




 その斉藤ナツは、紗奈子の目の前で、石田と殴り合っていた。




 石田が振るった拳を辛うじて避け、隙間を縫うように出したナツの拳が、石田の頬を打ち抜く、が、次の瞬間石田が出した蹴りがナツの太ももに直撃する。ナツは体勢を崩しながらも歯を食いしばって、間髪入れずに石田の腹を殴りつけた。


 二人の攻防を見ながら、紗奈子は改めて男女の体格差という現実に震えた。


 動きは明らかにナツに切れがある。石田の攻撃が一発決まる間に、ナツは最低二発は石田に打ち込んでいる。だが、あくまで一般女性の筋力の枠を出ないナツのパンチは、石田の体を大きく揺らしはしない。しかし、石田の一撃が入る度に、ナツの体は大きく傾いた。一発の重さが全然違う。筋力も、リーチの長さも、全然違う。


 だが、ナツは倒れなかった。


 一歩も退かなかった。


 すぐに体勢を立て直し、すぐさま反撃を繰り出す。さっきもあれほど痛めつけられたはずなのに。


「どうして」


 気づくと紗奈子はつぶやいていた。


 どうしてそんなに頑張れるの。


 ナツは紗奈子に言った。『戦えば良かったのよ』と。


 紗奈子はそれを聞いて何言ってるんだと思った。そんなこと出来るわけがないだろうと。あんたに何がわかるのよと。


 そのナツはまさに今、戦っていた。


 紗奈子が経験したどの場面よりも絶望的な状況で。傷だらけになりながら。血だらけになりながら。それでも一瞬たりとも諦めず。


 ただ、生きるために。


 視界が涙で揺らいだ。


 何で私は逃げてしまったのだろう。両親の前から、学校から、社会から。


 何で戦わなかったのだろう。ケンくんの家で。あんなに馬鹿にされて、こけにされたのに、なんで自分の命を質にとるようなことしか言えなかったんだろう。


 何で自分の人生を、自分自身で諦めてしまったのだろう。


「・・・・・・がんばれ」


 これしか出来なかった。こんな時にまで、私の体は動かない。恐怖で震えが止まらない。目だっていますぐつぶってしまいたい。


「がんばれ」


 自分が情けなかった。立ち上がって石田に飛びつくことが出来ない自分が本当に情けなかった。だから叫んだ。涙に視界が揺らぎながらも、熱い涙を頬から落としながらも、ナツを強く見つめながら声の限り叫んだ。


「なっちゃん、がんばれえええ!」


 ナツの拳が石田の胸を突いた。


 涙の中では全てが揺らぎ、石田も揺らぐ。いや、本当に揺らいでいた。石田の上体が確かに揺れている。たたらを踏み、ふらついている。


 石田は息を苦しそうに荒く吐き、頭痛がするのか頭を何度も振った。ふらつきながら後ずさっている。相変わらず、胸を張って、ナツを見下ろすように睨み付けてはいるが、顔は苦しそうに歪んでいた。明らかに様子がおかしい。


 対してナツは、フーフーと息を小さく吐きながら、腰を落とし、低い体勢で構える。


 その二人の間に、燃えさかる七輪が見えた。


 理科で習った気体の性質を思い出す。煙は、上にのぼって充満し、新鮮な空気を下に押し下げる。


 一酸化炭素中毒。


 紗奈子は悟った。だからナツは私に、伏せていろと言ったのか。


 石田勇気は気づかない。あれだけワインをがぶ飲みし、睡眠薬を飲み下した石田は気づかない。事態が飲み込めず、なぜ自分が窮地に陥っているのかわからず、混乱する。だから、石田はさらに胸を張る。まるで体をできるだけ大きく見せようとするかのように、さらに背伸びをし始める。まるで俺の方が大きいんだぞ怖くないぞと虚勢をはる子どものように。


 ナツがゆっくりと間合いを詰める。


 石田が後ずさる。石田の顔が恐怖に歪んだ。


 ナツが進む。石田が下がる。


 紗奈子は叫んだ。


「やっちゃえ! なっちゃん!!」


 後ずさり続け、遂に背中が壁に付いた石田は、恐怖のあまり叫びながら拳をがむしゃらに振るった。


 その拳の間を、ナツがするりとかいくぐる。石田の両手の間に入り込み、石田の胸にピタリと体を付ける。石田の顎のすぐ下にナツの顔が滑り込んだ。次の瞬間、そのまま、まっすぐ垂直に突き上げたナツの拳が、石田の顎を打ち抜いた。


 ガッと鈍い音が響き、石田の顔が完全に天井を向き、背筋がぴんと伸びてつま先立ちになった。


 一瞬の間を置いて、ずるずると。壁に沿って、石田の体が崩れ落ちてくる。


石田は壁に背中をこする形で下がっていき、ぬいぐるみのように両足を投げ出した格好で腰が床に沈み、止まった。焦点の合っていない目でナツを見上げる。口をぱくつかせているが、声になっていない。


 そんなテディベアのようになった石田を、ナツは冷たく見下ろして言った。


「殴られるのって、痛いでしょ」


 次の瞬間、ナツは渾身の中段突きを石田の顔面にたたき込んだ。


 一際鈍い音が、小屋に響き渡る。


 ゆっくりと、石田の体が横倒れになった。ぴくりとも動かない。


 勝った。なっちゃんが勝った。


 石田が動かないのを見届けたナツが、がくりと膝をつく。


「なっちゃん!」


 駆け寄った紗奈子は、ナツの有様に言葉を失った。顔は腫れ上がり、口から血が伝っている。息も苦しそうだ。紗奈子も心なしか、息苦しい気がした。軽い頭痛も感じる。


 紗奈子は一酸化炭素が確実に充満しつつある部屋を見渡した。


 はやく二人で小屋を出ないと。


 そう思って立ち上がろうとした紗奈子の肩を、甲を傷だらけにしたナツの手が掴んだ。


「・・・・・・だけ・・・・・・わよ」


「え?」


 斉藤ナツは繰り返した。荒い息の中、絞り出すように。


「・・・・・・一度だけ、聞くわよ」


 ナツが紗奈子を睨み付ける。


「子どものことは・・・・・・ 関係ない。結局のところ、あんた、あんた自身は、どうなの」


 ナツがもう片方の拳で紗奈子の胸を突いた。


「死にたいの?」


紗奈子の胸が再び突かれる。弱々しく、でも、確かな堅さを持って。


「生きたいの?」


 ナツの強いまなざしが紗奈子の瞳を貫く。




 どうなの。


 


 紗奈子は、震えながら息を吐き、必死に呼吸を整えた。


ナツは静かにそれを待った。




「い、生きたい」




 ようやくそう絞り出した紗奈子の頭に、「そっか」と、ナツの手の平がぽんと乗せられた。


 ナツはふうっと一度息を吐き、そして叫んだ。


「じゃあ、行くわよ!」


 紗奈子も涙を拭って頷いた。


「うん!」






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