【第2章】 湖畔キャンプ編 石田勇気 2

石田勇気は安堵していた。


 自殺メンバーの一人が妊娠していると騒ぎ始めた時はどうなるかと思ったが、管理人のおかげでなんとか無事に死ねそうだ。クソみたいな人生だったが、最後に手当たり次第に作った借金でいい思いが出来たし、何より、俺を馬鹿にした妻と子どもに泡を吹かせてやれると思うと、自然と顔がにやついた。


とはいえ、苦しいのはごめんだと、テーブルの睡眠薬を口に放り込んだところで、


「ねえあんた」


 と背後から呼びかけられた。「ああ?」と振り返る。


 両手を後ろ手に拘束され、椅子に固定された女が、俺を睨んでいた。いや、睨んでいるのではない。見下しているのだ。それが石田にはすぐわかった。人生で何度も見下されてきた石田は、その類いの視線には人一倍敏感だった。


 気に入らない目だ。怒鳴りつけてやろうかと思った。


嫁がこういう目をしたとき、怒鳴りつければ、嫁は目を背けた。


人は怖ければ下を向く。嫁もそうだったし、石田自身もそうだった。石田は、自分より強い相手の目はまっすぐ見ることは出来なかった。それは学生の頃に自分より体が大きい上級生に囲まれた時からそうだった。明らかに自分より強い相手を見ると、すぐに膝が震えて、何も出来なくなってしまう。石田少年は上級生に床に転がされて、『やり返してみろよ!』と嘲られても、丸まるだけで何も出来なかった。人はそういうものなのだ。


 だが、目の前の女は違った。明らかに石田より小さく、しかも拘束された状態で、ほとんど見上げる様な状態なのに、堂々とした態度を崩さない。まっすぐに石田の目を見ていた。不敵な笑みを浮かべながら。


「あんたさあ、奥さんと子どもに何したの?」


 一瞬、何を言われているのかわからなかった。飲み過ぎたのだろう。頭がぼうっとする。奥さん? 子ども?


「まるで、自分が被害者みたいな口ぶりだったけど」


 被害者? ああ。被害者だ。あいつらは家の主の俺を軽んじて、見下した。俺の稼ぎで食ってるくせに。俺がいろんなやつにへこへこして、こき使われながら稼いだ金で生きてるくせに。


「でも、そんなわけないわよね。奥さんだけが言ってるのならまだしも、弁護士が出てきて、問答無用で慰謝料要求されてるんですもんね」


 弁護士? あのいけ好かない若造弁護士か。夫婦の事なんて全くわからんくせに、適当な事を抜かしやがって。


「あんた、なんかやったんでしょ? 不倫? 違うわよね。あんたなんかを相手にする人がいるわけない。ギャンブル? そんな金なさそうね」


 なんだこの女。朦朧とした頭でも、今、馬鹿にされたことはわかった。女の目の前まで近づいて見下ろす。大して女はひるむことなく石田の顔を見上げた。


「ああ、わかった」


 女はにやりと笑った。


「殴っちゃったか」


 次の瞬間、女の頬が左側に勢いよく弾かれた。自分の右の拳にも鈍い痛みが伝わる。


 女は真横を向いたまま、ぺっと唾を吐いた。床に赤い液体が付着する。


「なるほど。こんな感じか」


 女はゆっくりと顔を戻した。


「自分の奥さん殴っといて、自分は被害者面か。ちゃんちゃらおかしいわね」


 今度は反対側に女の顔が弾かれる。殴りつけたその左手で、そのまま女の首元の服を掴んで引き寄せる。女の椅子の後ろ足が宙に浮いた。


「わかるわよ。死ぬ直前でも、自分に都合に悪いことは言いたくないもんね。だから暴力の事は伏せたんでしょ」


 女は痛みに顔をしかめながらも話すのをやめない。それどころか、また石田を嘲るように口角を上げた。


「それとも、本気で、自分は被害者だなんて信じてたの?」


 石田は女を椅子ごと思いっきり床に叩き付けた。女は一瞬うめき声を上げたが、またかすれた声を上げる。


「自分のことほど人は気づかないものね。私だって・・・・・・」


 そこで、その女の腹に蹴りを入れた。言葉の途中で息がつまった女はたまらず言葉を飲み込む。


 自分より弱い相手が反抗してくるのが、石田は許せなかった。石田自身が強い存在に反抗できないからだ。弱い者は身の程を知らなければならない。弱いやつが、小さいやつが、やり返せもしないのに、俺に刃向かうなど、あってはならない。


 防御も出来ず、まともに蹴りを食らった女は椅子に縛られて横倒しになった状態で悶絶している。そこにもう一度蹴り込んだ。学生時代、石田が上級生にやられたように。泣きながら謝る自分の嫁に向かって石田が散々やったように。何度も、何度も。


「もうやめて! もうやめてよお!」


 後ろから紗奈子とかいう女が叫んだ。振り向いて見ると、紗奈子はテーブルに縛り付けられた手をゆすりながら泣き叫んでいる。


 その時気がついた。頭痛がひどい。石田は頭が割れるように痛みを感じた。視界も若干歪んでいる。急に激しい動きをしたからだろう。


 紗奈子は泣きじゃくり、痛めつけた女はうめき声を押し殺して床に転がっている。石田は二人を無視して、テーブルに向かう。水を飲もう。


「・・・・・・私だって、気づかないことが・・・・・・ たくさんあるわ」


 女の絞り出すような声に舌打ちをする。まだ足りないのか。何をそんなに言いたいんだ。


「今日だって・・・・・・そう。スマホは、ずっと、上着のポケットに入ってたのに・・・・・・全然気づきもしなかった」


 石田はゆっくりと女の元に戻ると、女の上に馬乗りになった。


「上着のポケットに、入ってる、なんて・・・・・・普通、気づかないわ」


 拳を構える。黙るまで殴り続けてやろう。石田はそう思った。


「あなただって、忘れてるんじゃない? ポケットに何が入ってるかなんて」


 何言ってんだこいつ? いぶかしげな目をする石田に女は言い放った。


「お前に言ってねーよバーカ」


 意味がわからない。だが、馬鹿と言われた事だけはわかった。


 もういい。殺そう。


 石田はゆっくりと女の細い首を両手で握った。徐々に力を込めて締め上げる。女が金魚の様に口をぱくぱくさせる。


 死ねばいい。俺を馬鹿にする奴らは全員、死ねばいいんだ。


 女の顔がどんどん蒼白になる。石田はより一層、両手に力を込めた。


 その時、後ろから物音がしたかと思うと、次の瞬間、石田は背後から突き飛ばされた。


 バランスを崩し、床に転がる。あわてて上体を起して相手を見る。


 紗奈子だった。肩を怒らせた紗奈子が、石田を睨み付けていた。


 混乱する。この女はテーブルに結束バンドで拘束されていたはずだ。なんで外せたんだ。意味がわからない。


 しかし、程なくして石田は気づく。


 紗奈子は所詮、十代の少女だ。拘束が解けたところで、自分の敵ではない。


 石田はゆっくりと立ち上がった。


 仁王立ちし、顎を引いて上から睨み付ける。それだけで紗奈子の肩が恐怖で震えたのがわかった。


 自分より弱い相手には石田は容赦しない。


 さあ、殴ってやろうか、蹴ってやろうかと思った時、あろうことか、紗奈子は床に突っ伏した。そして、倒れた椅子の女の上に覆い被さった。「もうやめて!」と叫びながら。


 横向きに倒れる女に十時で被さる形で、女の腹と自分の腹を重ねる角度で、背もたれの向こう側に手と顔を入れ、まるで女を石田から守るように。


 


 その姿が、石田から必死に息子を守ろうと、息子の上に覆い被さる嫁の姿に被った。『この子だけは守りますから!』そう言って石田を睨み付けたあの女に。




「ふざけんなああ!」


 石田はがむしゃらに紗奈子の背中を蹴りつけた。


「どいつも! こいつも! 俺を! 馬鹿に! しやがって!」


 紗奈子は震えながら石田の蹴りに耐え続けている。石田はうなり声を上げて紗奈子の長い髪を掴み、無理矢理に女から引き剥がした。そのまま部屋の反対側まで引っ張っていき、壁に紗奈子を叩き付ける。


「ふざけやがってよお! 俺より弱いくせによお!」


 紗奈子が悲鳴をあげる。石田はその横顔に向かって至近距離で怒鳴り続けた。


「なんだよ! やりかえしてみろよ! 自分じゃなんもできねえんだろうが!」


 いつしか石田は父親に自分が言われたことを叫んでいた。


 上級生に嘲られた言葉を口走っていた。


 そして嫁に何度もぶつけた言葉を、飽き足らずに怒鳴った。


「くやしかったら、やり返してみろよ!」


 大声で叫ぶと、息が乱れた。


 くそ。気持ち悪い。水だ。水を飲もう。


 そう思って、紗奈子を放そうとしたとき、紗奈子が消え入る様な声で言った。


「だって・・・・・・ やり返すなんて、戦うなんて・・・・・・ 私、できないから・・・・・・」


「ああ?」


 すごむ石田に見せるように、紗奈子は震える右手をゆっくりと上げた。手を広げると、カランと何かが床に落ちた。それは石田の足の間を通って、コロコロと背後に転がった。


 石田は紗奈子を放した。紗奈子が床に崩れ落ちる。石田はその転がった物体を目で追って振り向いた。


 プラスチック製のキーホルダーのようだった。メダルを二枚重ねて分厚くしたような形状になっている。表にはひよこのキャラクターが描いてあった。側面から二センチほどの刃が飛び出している。


「だから、なっちゃんを頼るの」


 石田はゆっくりと目線を上げた。




 斉藤ナツが立ち上がっていた。


 


 紗奈子に結束バンドを切ってもらった手首をさすりながら、石田に殴られた顔を傾け、首を鳴らしながら。


「紗奈子、そのまま伏せてなさい」


 斉藤ナツはそう言うと、ゆっくりと上体を落とした。できるだけ相手より大きく見せようと背を伸ばす石田とは対照的に、これでもかと腰を低くする。まるで野生動物のように。


 低く構えているはずなのに、自分よりずいぶんと小柄なはずなのに、その姿は石田の目になぜかとてつもなく巨大に映った。


 斉藤ナツは顔の前で拳を構えた。石田に対して何の恐れも感じていない、闘争心をむき出しの目で、静かにつぶやく。


「私は、やり返すわよ」


 なぜだろう。膝が震えた。




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