【第2章】 湖畔キャンプ編 斉藤ナツ 13
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一気に空気が弛緩した気がする。
紗奈子の妊娠には一切確証はない。単に体調不良の可能性も十分ある。何なら、その可能性の方が高いぐらいだ。だが、それは問題ではない。紗奈子自身が、自分の中に新しい本当の『家族』がいると思い込んだ。そして、自殺の意思を撤回した。
ここまで明確な生きる理由があれば、白鳥も止めることは出来まい。紗奈子が抜けるとなれば、友人設定の私が連れ添って帰るのは不自然でもなんでもない。あとは石田だけで勝手に死ねばいい。
私は、背もたれに沈み込ませていた上体をゆっくり起こした。
「紗奈子、帰ろうか」
紗奈子は潤んだ目で私に振り返り、「うん」と笑顔を作った。
座り込んでいた紗奈子が体を起そうとした時、
「いや、だめですよ」
白鳥の冷たい声が響いた。
次の瞬間、白鳥は驚くほどの速度で紗奈子の左手を掴んだかと思うと、そのまま数メートル紗奈子を引きずった。紗奈子が事態を把握できず、「え? え?」となすがままにされている間に、いつの間に取り出したのか、白鳥はサイドテーブルに柱に紗奈子の左手を結束バンドで固定した。
「ちょ、白鳥さん?」
紗奈子は目を丸くして拘束された左手を見つめた。
「なんのつもりですか?」
「それはぼくのセリフですよ紗奈子さん」
白鳥は部屋の隅から七輪を運んできながら答えた。
「土壇場になって、やめるなんて言い出すなんて。なっちゃんさん同様に、世話が焼けますね」
「それは、だから、赤ちゃんがいることがわかったから」
「だからなんなんです」
白鳥は部屋の中心に七輪をドスンと置いた。
「なにって、私の自殺なんかで赤ちゃんを殺すわけには」
「今時、生まないと選択して中絶する方なんてたくさんいるでしょう。それに」
白鳥はあの笑顔で紗奈子を振り返った。
「こんな苦しみだらけの世界に生まれるよりも、ここで終わらせてあげるのが一番です」
紗奈子は二の句が継げなくなったようで、パクパクと口を動かした。言葉にはならなかったが、紗奈子が言いたいことはわかった。
狂ってる。
もう誰の目にも明らかだ。こいつは、誰かを救いたいなんて最初から思っちゃいない。単に、救うという名目で、人を殺したいだけなのだ。
白鳥は軍手をはめたかと思うと、練炭を一旦取り出し、底に丸めた新聞紙を放り込んだ。マッチ箱を取り出し、シュッとマッチに火を付ける。マッチを七輪に放り込むと、その上から再び練炭をセットする。側面の空気口を開けるとすぐにもくもくと白い煙が立ち上った。手慣れている。何度も行っているのだろう。
「なんだ、結局やるのかよ」
石田が伸びをして立ち上がった。
「ええ。もちろんです。すみません石田さん。お待たせしてしまって。石田さんの言うとおり、時間の無駄でしたね」
石田にとって、白鳥の動機などどうでもいいのだろう。人生詰んでいると思っている石田からすれば、自分の死体をきちんと処理してくれるのならば、何だっていいのだ。
「石田さん。申し訳ありませんが、しばらくこの二人を見ていてくれませんか。まあ、なにも出来ないとは思いますが。一酸化炭素が充満するのには十分ほどかかるので」
「あんたはもう出るのか」
白鳥は食器や家具を片付け始めた。
「ええ。車も湖に沈めなければいけませんし、忙しいんですよ」
そう言う白鳥の手には、二種類の車の鍵が握られていた。一つは、私のミニクーパの鍵だ。
「紗奈子さんの鍵は車に刺しっぱなしなんですよね。脱輪しているのであれば、後でジャッキでも持って行く方がいいですかね」
話しかけられた紗奈子は左手ばたばたさせながら叫ぶ。
「白鳥さん、なんで? 助けてくれるって言ったじゃないですか!」
「ええ。だから助けてあげようとしているでしょう。もうすぐ旅立てますからね」
白鳥はまた微笑んだ。
「お子さんと一緒に」
何を言っても無駄だ。狂人に理屈なんて通じない。
それよりも、私は七輪を凝視していた。練炭の下の新聞紙が燃え尽きたのだろう。白い煙は収まったが、練炭に直接火が付いているのがわかる。今、現在進行形で無色透明な一酸化炭素が部屋に広がっている。
白鳥の動きに目を戻す。白鳥はちょうどサイドテーブルを片付けているところだった。生ハムの原木にラップを張っている。原木を持ち出す気はないらしい。あの、専用ナイフ、あれを隙をみて手にできれば、なんとか拘束を切れるかもしれない。
しかし、白鳥はその希望を打ち砕くように、ナイフだけ専用の小箱にしまって脇に抱えてしまった。食器類を置いたお盆と空き瓶を両手に持つ。
「では、私は失礼します。テーブルの上に睡眠薬を置いておりますので、よろしければお使いください。数時間後、戻ってきますね。ご遺体は責任を持って湖に沈めますので、ご安心を」
紗奈子が声にならない叫び声を上げる。石田が軽く手を上げ、私は、ただじっと白鳥を睨み付けた。
「みなさん、よい旅立ちを」
白鳥はそう言い残してドアから出て行った。扉が閉まってしばらくして、外側から施錠された音が聞こえた。続いて、養生テープを引き出すビリビリと言う音と、ペタペタとそれを扉の外側に貼り付ける音も聞こえてきた。小窓と同様に、隙間を塞いでいるのだろう。その音がやむと、砂利を踏む足音が聞こえ、徐々にそれが遠ざかっていった。
七輪は相変わらず静かに燃えている。
アウトドア指南書で呼んだ知識だと、確か、空気中の一酸化炭素濃度が0.1パーセントを上回った状態で一時間も過ごせば、激しい頭痛、めまい、痙攣、意識障害が起こり始める。1パーセントを超えようものなら、数分で呼吸が出来なくなり、あっという間に死に至る。
椅子に拘束され、自力で外す術はない。頼みの綱だった紗奈子も、今はテーブルに片手を拘束されてすすり泣いている。石田は説得などまず不可能だろう。そして、ロッジの中の一酸化炭素の濃度は、目には見えないが確実に高まっていっている。
絶望的だ。
両目をぎゅっと閉じる。
どうしようもない。もうこのまま死を待つだけだ。睡眠薬を口に放り込んでいる石田も、お腹を抱えて泣きじゃくる紗奈子も、そのお腹の子も。そして私も。ここで死ぬのだ。
私はゆっくりと目を開けた。
誰があきらめるものか。
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