【第2章】 湖畔キャンプ編 斉藤ナツ 12

16


 


 ゆっくりと猿ぐつわがはずされる。


口の中の布も取り払われ、軽く咳き込む。


 猿ぐつわを外した白鳥は、まだしばらく私の動きに注視していた。警戒しているのだろう。変なことを口走られて、他のメンバーが自殺を止めるなんて言い出すのを白鳥は危惧しているのだ。そう考えると、私の猿ぐつわを外すなんてリスクでしかない。だが、それでも白鳥は私の口を解放した。


 知りたいからだ。


 白鳥と事前にサイトで交流があったらしい紗奈子や石田とは違い、私は何の情報もないまま突然飛び入りしてきた。しかも土壇場で暴れ出したから仕方なく拘束したが、そのせいで懺悔会にも参加できず、結局この女はなぜ死にたいのかが全くわからない。それは白鳥には耐えがたいことだろう。相手の苦しみとやらをしっかり受け止めて、その上でその苦しみから解放してあげることに、白鳥は使命感? やりがい? いや、快感を覚えているのだろう。だから殺す前に、私のお涙ちょうだいの話をなんとしても知りたいのだ。


 知りたくてたまらないのだ。 


 私はあえて何もしなかった。大声を上げることも、体をゆらすことも。


 今、このタイミングで何かしても、すぐに白鳥に口を塞がれて終わりだ。二度目のチャンスは来るまい。 だから、私はただじっと白鳥を見つめた。


 白鳥はしばらく疑り深い目で私を見ていたが、石田が「おい、さっさと済ませてくれよ」と不満の声を上げたのを聞き、ゆっくりと自分の席に戻った。


 よし。第一関門突破だ。


 ここからどうする。状況はギリギリだ。手も足も口も出ない死を待つだけの完全な詰み状態の中、千載一遇のチャンスが巡って口だけがなんとか解放された。この自分の口先一つで大逆転を狙わなければならない。言葉一つの選択ミスが文字通り命取りになる。頭をフル回転させる。




 選択肢① 隙を見て、拘束を解き、脱出する。


 無理だ。まず結束バンドを外せる手はずがないし、仮に外せたとしても、白鳥、石田がいる状態で小屋から出られるはずがない。湖畔の時のように白鳥一人に軽く返り討ちになって終わりだ。




 選択肢② 私は自殺する気はなかった、紛れ込んでしまっただけだ、と正直に訴える。


 一番まともな案ではあるが、多分死ぬだろう。自殺が怖くなったがための戯言だと疑われて終わりだ。もちろん、時間をかければ、紗奈子と初対面であることなども説明でき、理解してもらえるだろう。ただ、どうせ説明しきる前に口を塞がれて終わりだ。白鳥は私が自殺動機以外の事をしゃべり始めたら、すぐに中断させるだろう。真偽を確かめる時間などくれるはずがない。




「いつまで黙ってんだ。しゃべるんならさっさとしゃべれよ」


 石田がまた声を上げる。チラリと見ると赤ワインのボトルが空になってしまい、ご機嫌斜めのようだ。紗奈子がその大声にびくりと肩を震わす。私はそんな紗奈子をじっと見つめた。


「なっちゃんさん、最後に話しますか? 話しませんか?」


 白鳥の声に覚悟を決める。




 選択肢③ 自殺動機を語るふりをしながら、紗奈子を説得する。


 紗奈子が自殺を嫌だと言い張れば、過半数が反対することになり、会を不成立に持って行けるかもしれない。確証はないが、ここは賭けだ。大逆転があるとすれば、この線しかない。




「話すわ」


 ゆっくりと深呼吸をする。もちろん、自殺する気なんてさらさらないので、自殺動機もへったくれもない。だが、あからさまな嘘話も即興ではすぐにばれるだろう。自分の実際の過去をそれっぽく語るしかない。 


「大学生の時に、勢いで付き合い始めた人がいたの」


 そうして自然と口から出たのは、有馬徹の話だった。




「徹って人。バイト先で話しかけられて、ちょくちょく遊びに行ったりする仲になって、しばらくして、付き合い始めた。


理屈っぽい人で、話が長い人だった。元々私は人の話を聞くのが苦手というか、時間の無駄だと思うタイプだったんだけど、徹の話はいつも面白かった。


 あと、これは後でわかったことだけど、私と趣味があったの。その頃はまだキャンプなんてものには一ミリも興味がなかったから、私は暇な大学時代を本と映画に埋もれて過ごしてた。友達なんて居なかったから、徹と付き合って、好きなことを誰かと語り合える場が出来たことが、うれしくて仕方なかった。


 実際は、完全に趣味が合致している訳じゃなくて、徹は何でも広く楽しむタイプだったから、ぎりぎり守備範囲がかぶる程度だったけど、それでもうれしかった。時には彼が見てもいない映画について延々と語ったこともあったけど、徹はいつもニコニコしながら聞いてくれていた。徹は聞き上手でもあったんだなって今では思う」


 それに対して、私は、良い彼女ではなかっただろう・・・・・・と思う。


「その点、私は、ひどいもんだった。自分がしたいことは勝手にするし、相手のしたいことのために我慢なんてしないタイプだったから、彼の遊びやデートの誘いもよく断った。10回誘われて3回行くかどうか、そんなものだったと思う。ようやく行った先でも、自分の興味が引かれない内容だったらさっさと帰ってしまうこともあったわ。それが悪いことだと思った事もなかった。


 徹がしたいことがあるなら、遠慮せずに一人で楽しめばいい。私は私で自分のしたいことがあるんだから。そう伝えると、彼はいつも困った顔で「クールだなあ」と笑ってくれた。「一緒にいるからいいんだよ」とそう言って。」


 でも、いつからかはわからない。ある日を境に、うれしそうに私を「クール」と表現していた彼が、私のことを「冷たい」と言い始めた。


 


 そこで一旦、言葉を切って、3人の様子を見る。石田は相変わらず退屈そうだが、白鳥は満足そうにうんうんと頷いている。紗奈子が興味深そうに耳を傾けているのを確認して、話を続ける。




「紗奈子の話じゃないけど、就職がきっかけだったと思う。同い年だったから、同じタイミングで二人とも社会人になった。職種が違ったから、土日にあって聞く徹の話は新鮮だった。徹は教師になったの。中学校の先生。理屈っぽいわりに愛想がいい徹にはぴったりだと思った。事実、徹も初めはすごくやりがいがあるってうれしそうだったわ」


 でも、あるとき気づいた。あんなに心地よかった徹の話が、全然面白くなくなってきた。


「間違っている。おかしい。生徒が、親が、同僚が、制度が。急に誰かに対する批判ばかりになってきた。そして、こうあるべきであるという自分の教育観、でも、それが実現しない現状。「こうすべきだ」と「こうであるべきだ」と「実際はこうである」の繰り返し。あって話をすればそんな話ばっかりで。徹が理屈っぽいのは昔からだったけど、そのどこから借りてきた言葉で無理やり積み重ねられた理屈は死ぬほど退屈だった。何より、なんでも楽しそうに話していた彼が、その話をするときは本当に苦しそうだった。」


 今ならわかる。初めて社会に出て、理想と現実の差を見せつけられて、さらに自分の無力さもこれでもかと叩きつけられて。


 苦しかったのだろう。しんどかったのだろう。


 でも、私もギリギリだった。


「私自身、就職先では覚えなくちゃいけないことばっかりで、納得できないことも多くて、かなりきつかったの。だから、仕事から帰ったらすぐに映画や本に逃げたわ。もちろん、学生の頃に比べたらその量は微々たるものだったけど、使える時間は全部そこにつぎ込んだ。だって、仕事がしんどいんだから。それ以外の時間は目一杯好きなことに使いたいじゃない」


 でも、徹は違った。


「徹は逆に、帰ってからもずっと明日の授業準備をしてた。休みの日は教育本みたいなのをとりつかれたみたいに読んでた。あんなにたくさんあった趣味は全部学生時代に置き去りにしたみたいに触らなくなって。そのうち、休みの日に遊んでる私を責める様な事を言ってくるようになった。意識が足りないとか、もっと自分の仕事に理想をもたないと、とか」


 それも、心から苦しそうに。


「私は、もっと楽しい話がしたかった。最近見た、面白い映画の話とか、そういう話がしたかったの」


 楽しくない話なんて、したくなかった。自分の毎日がすでにしんどいんだから、その上に、つらい話なんて、聞きたくなかった。


「だから、徹のそういう話は聞かないようにしたの。仕事の話が始まったら、すぐに話題を変えたし、用事を思い出して帰った事もあったわ。その話つまんないからやめてって面と向かって言ったことも。彼は言ったわ。なんでそんなに冷たいのって」


 そして私は返した。苛立ちながら、吐き捨てるように。


「興味が無いだけ」


 メガネの奥でまぶたをふっと閉じた徹を思い出す。


「最後に会ったのは金曜日。次の月曜日の朝、徹は首を吊ったわ」


 紗奈子が隣で息をのむ。私はかまわず続けた。


「それを私が知ったのは、一週間後。メッセージのやりとりもそのころは週に1回とかだったし、今週は来ないなと思ってたぐらいだった。まさか、死んでるなんて思ってもみなかった」


 私は、すうっと息を吸いこんで、そして吐いた。息以外のものも胸から吐き出すように、大きく。


「徹は、遺書も何も書いていなかったし、私が彼女であることは誰も知らなかったの。徹のお母さんが彼のスマホのパスワードを探り当てて、メッセージのやりとりとかを見て、私に連絡してくれた。それで初めて知ったの」


 徹のアカウントから、徹の母ですとメッセージが来た時には、徹の葬式はすでに終わっていた。


「徹、その時、たちの悪い親に絡まれて大変だったんだって。同僚も全然助けてくれなくて、若いから、生徒にもなめられて、仕事量も半端じゃなくて、連日学校に泊まり込んでたらしいわ。これも後から聞いた話で、私は知らなかった。徹は肝心なところは何も話さなかったし、そもそも私が聞こうとしなかったから、言えなかったのね」


 そして、誰にも吐き出せずに限界を迎え、黙って、一人で逝ってしまった。


「なっちゃん、かわいそう・・・・・・」


 紗奈子がまた涙ぐんで、私の膝に手を置いた。


「すごく、後悔したんでしょ」


 私はゆっくりと紗奈子の方を向いた。そしてはっきりと言った。


「まさか」


「え?」


 きょとんとした紗奈子の顔を見つめて続ける。


「なんで、徹が勝手に死んだのに、私が後悔しなきゃいけないの」


 紗奈子が、私の膝から手をさっとどける。


「徹のお母さんから連絡が来て、徹の実家に線香を上げに行ったその帰り、私どうしたと思う? 映画を見に行ったのよ。その足で」


 紗奈子が手を胸の前で握ってぽかんと口を開ける。


「せっかく年休とって、外出したんだし、映画でも観て帰らないと損だなって思ったの」


「なにそれ・・・・・・ ひどい」


紗奈子が信じられないと言う表情でつぶやく。


 ああそうだ。私は冷酷な人間だ。そんなこと初めからわかってる。何とでも言え。


「何か勘違いしているようだけど、自分の存在なんて、相手からしたら全然大きいものでも何でもないのよ。死のうが生きようが、口では何とでも言っても、相手からしたら実際はどうでもいいのよ。だって他人なんだから」


 そう他人だ。私のことじゃない。徹が死んだのは私の問題ではない。だって徹は、結局は他人だったのだ。ちょっと仲は良かったが、実際の所は全く気持ちが通じ合っていなかった、ただの他人だ。


「あなただってそうよ。紗奈子」


 私は固まる紗奈子を睨み付けた。


 もっと冷静に諭さなければ。もっと穏やかに、遠回しに説得しなければ。そうはわかっているのに、私の口は止まらなかった。


「あなたの存在なんて、ケンくんとやらからしたら、都合の良かった女の一人でしかないのよ。あなたは本当の『家族』だとでも思ってたらしいけど、ケンくんからしたら赤の他人もいいところだわ」


 紗奈子の顔がゆがむ。私はあざ笑う様に続ける。


「あなたがどれだけダイナミックに死んだところで、ケンくんは痛くもかゆくもないでしょうね。そりゃあ少しは落ち込むかもしれないわよ。でも、そんなの一瞬。スポーツカーの助手席に座った、新しい恋人に慰めてもらってそれで終わり。家族になれるらしい新しい女にね」


 紗奈子の胸の前で握りしめた両手がブルブルと震える。顔から血の気が引いていく。


「そんなはずないって思う? でも、そういうものなの。あなたがどれだけ悲しくて、あなたがどれだけ傷ついて、あなたがどれだけ愛していたとしても、ケンくんにはどうやったって伝わらない。だって、結局は他人事なんだもの」


 顔を蒼白にした紗奈子の隣で、白鳥が腰を浮かしかけているのが見えた。


「そして、あんたは忘れ去られる。いや、私が徹を忘れてないように、覚えてはもらえるかもね。俺の気を引きたくて死んだ女がいた。そんな学生の思い出アルバムの甘酸っぱい一ページとして。よかったじゃない。」


 白鳥が私の口を塞ごうと立ち上がったのを目の端に捉える。私は最後に紗奈子に向かって叫んだ。


「『他人』としては上出来よ!」


「ああああああああああああああああああああ!」


 白鳥より一瞬先に、紗奈子が私に飛びかかってきた。両肩を掴まれ、椅子の脚が宙に浮き、次の瞬間、椅子の背ごと、背中が床に叩き付けられる。


 息が詰まった私に紗奈子が覆い被さり、喚きながら私の頬を平手打ちした。両手で、何度も、何度も。


「あ、あんたに、な、何が、わかるのよ!」


 顔が交互に反対を向かせられ、視界が回る。その勢いがだんだんと弱くなり、代わりに顔に大きな滴が落ちてくる。


「・・・・・・じゃあ、ど、どうすれば、よかったって言うのよ・・・・・・」


 紗奈子は赤くなった両手で顔を覆った。


 私は紗奈子を床から見上げる。あまりに細い腕だ。あまりに幼い肩だ。世間知らずで、人付き合いが下手で、誰にも頼れずにここまで来てしまった十代の少女がそこにいた。


「戦えばよかったのよ」


 気がつくと、自然に口が開いていた。


「相手の足にすがるんじゃなくて、死んでやるって同情を引くのでもなくて、今みたいに、戦えばよかったのよ」


 紗奈子が呆然と私を見下ろす。


「そんな、だって、戦うなんて、私、できないよ・・・・・・」


「じゃあ、誰かを頼ればいいのよ。信頼できる相手は、きっと近くにいるはず」


黙り込む紗奈子の背後から、猿ぐつわを持った白鳥の陰が私に近づく。


 ゲームセット。ここまでか。


 大きなため息をつく。白鳥は紗奈子の肩を掴んで、私の上からどかし、私の椅子の背もたれを掴んで、軽々と私を引き起こした。そして、猿ぐつわを再び私に・・・・・・


 その瞬間、紗奈子が動いた。口に手をやったかと思うと、石田に向かって突進し、その足下にあるゴミ箱を抱え込んだ。


 そして吐いた。


 嘔吐の音と、紗奈子の苦しそうなうめき声と、石田の「おいおい、勘弁してくれよ」という声が重なる。


 白鳥も突然のことに驚いたようだが、すぐに苦笑いして、猿ぐつわを一旦テーブルに置き、紗奈子に近づいて背をさすった。


 日々のストレスで収縮した胃に、死への緊張と私への怒りが加わって嘔吐に繋がった。石田も白鳥もそう思ったのだろう。


 しかし、私は違った。何かを見落としている気がする。


 ふと、たき火の前での出来事を思い出す。あのとき、紗奈子は醤油の匂いを嗅いで、口を押さえていた。


『肌がすごく荒れ始めて。食欲もなくなって、これまで好きだった料理も全然食べられなくなっちゃって、体はむくむ割に体重はどんどん減ってくし』


 そんなことがあるのか。いや、もし、そうなら、普通自分で気がつくだろう。


 あの日の徹の言葉が脳裏をよぎった。


『外から見れば明らかな事でも、人は自分のことになると途端に気がつかなくなるんだね』


 私は、声を絞り出して、紗奈子に問いかけた。


「紗奈子、生理、いつから止まってるの?」


 白鳥からもらったティッシュで口をぬぐっていた紗奈子がぽかんと私を見る。


「へ?」


 そして、ゆっくりと自分の腹部に視線を落とした。


「え、いや、え?」


 困惑の声を出したかと思うと、紗奈子は、ばっと自分のお腹を抱きしめた。


 わからない。まだ検査も何もしていない。


 だが、紗奈子は今の一瞬で確信を持ったようだった。感極まったように、また、でも今回は黙って、涙を流す。


 その間も、ぎゅっとお腹を抱きかかえる。


 石田は状況がわかっていないようで、「ん? どうした?」と困惑しているが、白鳥は全てを悟ったらしい。額に手を当てて、空を仰いでいる。「あちゃー」とでも聞こえてきそうだ。


「し、白鳥さん、私、死ぬの、やめます」


 紗奈子はそう言って、白鳥を見上げた。


「私、私の人生も、ケンくんも、もうどうでも良いいです。私、この子と、この子と・・・・・・」


 私は、ふうっと息を吐いて、椅子の背に沈み込んだ。


 大逆転だ。




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