第8章 魔法の解ける時

 カン、カン、カン。

 警報音が聞こえてくる。

 下り線の電車がやってくる。

 無人駅で一時間、私は英単語帳を眺めて時間をつぶしていた。

 なんでこんなところで降りちゃったんだろう。

 ひどい勘違いで時間を無駄にしてしまった。

 ようやく帰れると、ほっと息をついたその時だった。

「やあ、お待たせ」

 それはひどく遠い昔の映画を見ているかのような懐かしい声だった。

 顔を上げると、侵入してくる電車を隠すように彼が立っていた。

 え?

 なんで?

 どこから来たの?

 どうせなら、もっと早く来てくれたら良かったのに。

「ごめんよ」と、彼が私を抱き寄せた。

 ためらいも遠慮もなく、彼の腕が私を包み込んでいた。

「お別れを言いに来たんだ」

 声が出ない。

 お別れって……。

 何を、言ってるの?

「キミが選んだんだよ」

 何を?

 私が何を選んだの?

「キミが笑っている世界を」

 どういうこと?

 聞きたいことはたくさんあるのに言葉が出てこない。

 カン、カン、カン。

 電車が来ているはずなのに、もうすぐそこまで来ているはずなのに、時間が止まっていた。

 踏切の音も、それに負けない蝉の鳴き声も、何度も終わることなく繰り返される。

 まるで映画のスクリーンの中で役者さんが話しているみたいに、彼は一人で話を続ける。

「キミは今日、見つけただろ、自分の居場所を」

 どうして知ってるの?

「見てたからだよ」

 どこで?

「こっちの世界から」

 彼はちゃんと答えているのに、まるで会話がかみ合わない。

「こっちって、どういうことですか?」

「昔、キミが見ていた自分の姿はどこにいた?」

 私のいた場所。

 思い出したくもない。

 どうして今さら、またあんな場所に戻らなくちゃならないんだろう。

 逃げたっていいんだって言ってくれたじゃない。

 だから、今日、新しい自分の道を選んだのに。

 どうして今さらそんなことを聞くの?

「その通りだよ」

 彼はすべてを読み取ったように、うなずいた。

「キミは今日、本当の自分を見つけた。なりたい自分の姿を見つけたんだ」

 そして彼は頬と頬を触れ合わせた。

 彼のぬくもりが伝わる。

 その熱量以上に、私の顔が熱くなる。

 離したくない。

 お別れなんかしたくない。

 だけど、彼の言葉は冷たかった。

「だからもう、こっちの世界にいてはいけないんだ」

 彼の肌はあたたかいのに。

 私の心が冷えていく。

 私の両肩に手を置いて、彼が私の目を見つめる。

「キミは鏡の中の自分を閉じ込めたくて、つらい現実から切り離したくて、自分自身を守りたくて、泣いている自分を助けてあげたくて、鏡をたたき割ったんだよ。そして、その鋭い破片で自分を切り裂こうとしたんだ」

 そんな……。

 知らない。

 そんなこと、私、知らない。

「知らなくていいんだ。間違った道に進み続けることはないんだから」

 彼の指先がまるで楽器を奏でるように優しく私の髪を撫でる。

 いつも重たい髪がふんわりさらさらと流れていく。

「キミはキミだけど、本当のキミじゃなかったんだよ。だけど、今日、キミは本当の自分を選んだんだ」

 そう、あなたの言うとおり、私は自分で道を選んだ。

 立ち止まったっていいし、やり直せばいいって励ましてくれたから。

 ようやく自分自身でつかんだのに。

 なのに、どうしてお別れだなんて言うのよ。

「いいんだよ。それでいいんだ」と、彼が一歩退く。

 カン、カン、カン……。

 遠くの蝉の鳴き声みたいに警報音が静まる。

「キミは人の気持ちをくみ取ることの大切さを知っている。人に寄り添い、人のために尽くす。それができる人だということを自分自身で証明したんだ。だから、自信を持っていいんだよ」

 ぎゅっと手を握りしめたアオイちゃんの姿が思い浮かぶ。

 口には出さないけど、心の中には言いたいことがいっぱいある。

 そんなあの子の気持ちが自分に似ていて、ちゃんと耳を傾けてあげなくちゃいけないと思ったんだ。

「気持ちを言葉にできない人に寄り添うことができるのはキミの強さだよね」

 ――私の強さ?

 気持ちを言葉にできないのは弱みだと思っていたのに。

「キミの見つけたキミの世界では、それは武器になるんだ。傷つけるためじゃない。人を救うためのね」

 なら……なんで、どうして?

 どうして私は今泣いてるの?

 笑っている私を見てほしいのに。

 どうしてあなたは私を泣かせるのよ。

「ごめんよ」と、彼が私の頬を伝う涙を指先で拭う。「キミが自分で決めたんだ。それは正しい選択なんだよ」

「正しくなんかなくていい。正しいかどうかなんて、私にはどうでもいいの。私が望んだのはこんなことじゃないもん」

「ごめんよ。もう時間がないんだ。電車が来てるだろ。だけど、大丈夫。鏡の中のキミが笑っているのなら、こっち側のキミだって笑っているんだからね」

 カン、カン、カン。

 踏切の音が急にはっきりと耳に入ってくる。

 時の流れが揺らいだ気がした。

 ――止まっていたんだ。

 彼の魔法で……。

 いきなり彼の背中から飛び出してきたみたいに電車がホームに入ってきた。

「さあ、キミはこれに乗って帰るんだ」

「やだ」と、私は首を振った。

 電車が停車してドアが開く。

 彼は私をもう一度抱きしめてくれた。

 これが最後だと言うように……。

 ねえ、乗らなくていいでしょ。

 ずっとこのままでいられたらいいのに。

「目を閉じて」と、おでこをくっつけながら彼がささやく。

「やだ」

 ニキビがヒリヒリする。

 精一杯の口答えだった。

「だめだよ」と、彼が微笑む。「もう、こっちの世界は消えるんだ」

 止めてよ。

 もう一度止めてよ。

 魔法で時間を止めてよ。

 目を離したら彼は消えてしまう。

 彼が私にかけた魔法が解けてしまう。

 言いたいことはいっぱいあるのに、どれも言葉にならない。

 やっぱり私は私なの?

 言えないの?

 大事な気持ちを伝えることができないの?

「大丈夫、心配ないから」

 その瞬間、彼が私の唇に唇を重ねた。

 思わず私は目を閉じてしまった。

 ――ありがとう。

 え?

 彼の心が聞こえる。

 ――ボクもキミに救われたんだよ。

 私が?

 あなたを?

 ――人は誰でも魔法が使えるんだよ。

 だから、人のために力を尽くすことができるの?

 ――そう、この世は魔法で満ちているんだからね。

 だけど、それが解ける時も来る。

 私の頬に水滴が落ちてきた。

 雨?

 目を開けると、世界が一変していた。

 無人駅のホームにいるのは私一人だった。

 いつの間にか空が重たい雲で覆われている。

 さっきまで晴れていたような気がするのに……。

 あめ玉をばらまくように大粒の雨が降ってきたかと思うと、次の瞬間、ひどいゲリラ豪雨であたりは何も見えなくなった。

 私は慌てて電車に乗り込んだ。

 その瞬間、世界を切り離すように背中でドアが閉まった。

 反対側のドアに歩み寄ると、電車がゆっくりと動き出す。

 手すりにもたれかかって窓の外を見ていると、私の顔が映っていた。

 窓に打ちつける雨で私の顔がにじんでいく。

 なのに、なんで私は笑顔なんだろう。

 何か大事な物をなくしたばかりみたいな気がするんだけどな。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る