(7-2)


   ◇


 試験明けの土曜日は起きたら昼過ぎだった。

 家には誰もいない。

 もともと父親は土日に忙しい車の営業マンで、母親の方は弟がいた頃はサッカーの送迎をやっていたけど、その必要がなくなってからはパートに出ていた。

 カップ麺でも食べようかと思ったけど、ストックがなかった。

 オレは買い物に出ることにした。

 寝汗まみれのTシャツを脱いでポロシャツをかぶり、部屋着の短パンをジーンズに履き替えて蝉の鳴き声の中へと踏み出した。

 梅雨明けで一気に日差しが真夏の輝きに変化していた。

 照りつけられた道路はとろけるように揺らいでいる。

 オレはそんな陽炎の波を漂うように歩いていた。

 道路の左側に畑が広がる。

 弟が死んだ現場だ。

 あれからもう三年。

 ジャガイモ畑だったところは季節が少し違うせいか、今は里芋が植えてある。

 傘にして遊べそうなくらい大きな葉が、日差しに叱られたかのようにうなだれている。

 正直なところ、この道を通ったからといって、毎回事故のことを思い起こすこともないし、弟のことを悲しむ気持ちがわいてくるわけでもない。

 もちろん家族が亡くなったのだから、忘れてしまったとか、関心がなくなったなんてことはない。

 ただ、生々しい記憶は風化していって、実際にあった出来事というよりも、歴史の教科書に出てくる時代を隔てた事件のような感じなのだ。

『ここに古墳があったんですよ』

『かつて参勤交代の大名行列が行き来したのがこの街道なんです』

『飲酒運転の交通事故で中学生が亡くなった現場はここです』

 どれも『ふうん』としか言いようがない過去なのだ。

 歴史的出来事には石碑が残されているけど、弟の死には何もない。

 違いといえばそれくらいのものだ。

 べつにそれでいいじゃないか。

 事件の直後には花束が置かれていたけど、そのうちなくなっていた。

 いつまでも記録されて何の関係もない野次馬の遠慮ない視線にさらされるよりも、記憶の風化に逆らわないで安らかに眠っていてほしい。

 ――どうせ帰ってこないんだし。

 コンビニに行くときはいつも前を見るだけでなく、後ろも振り向くようにしている。

 オレは弾き飛ばされたくない。

 弟が残した教訓のおかげでオレは無事生きている。

 生き残ったのはオレなんだ。

 オレはアイツじゃないし、オレがいるのは間違いなくこちら側だ。

 赤信号で交差点の角に立っていたときだった。

「だぁれだ?」

 いきなり後ろから目隠しをされた。

 清涼ないい香りが鼻をくすぐる。

 こんなことをするやつの心当たりは一人しかいないけど、まさかここで?

 しかも、オレは言葉に詰まっていた。

 キミをなんと呼べばいいんだ?

 ――キミはいったい誰なんだ?

 オレは名前をまだ知らないんだ。

 焦れたような声に耳をくすぐられる。

「ねえ、なんで答えてくれないの?」

「キミだろ」

「えへへ、当ったりー!」

 後ろから上半身だけ回り込んでオレを見上げる笑顔は間違いなくキミだった。

 土曜日なのにいつもの制服姿だ。

 だけど、いったいキミは誰なんだ?

「こんなところで何をやってんの?」と、オレは彼女と向かい合った。

「会いに来たんだよ」

 だから、なんでここに?

「もうちょっと喜んでくれたっていいじゃん。ほら、この前みたいに、『会いたかったです!』って、ストレートに、応援団だか選手宣誓みたいに真夏の青春っぽく言ってほしかったのにな」

「暑苦しいだろ」

「キミはいつもそういう自虐っていうか、斜め下から目線みたいな考え方だよね」

 悪かったな。

 正面からまっすぐ見たって、何が変わるとも思えないけどな。

「なあ、キミの名前を教えてくれないか?」

 オレはお望み通り、ストレートにたずねたつもりだった。

 なのに、彼女は後ろ手に肩をすくめるばかりで答えない。

 なんだよ。

 ずるいのはそっちじゃんか。

「キミはいったい誰なんだよ。いいかげん、はぐらかさないで教えてくれよ」

「はぐらかしてなんかいないよ」と、口をとがらせ気味にうつむくと、一呼吸置いて彼女が顔を上げた。「最初に言ったでしょ、魔法使いだって」

 違う。

 オレが聞きたかったのはそういう答えじゃない。

 それを信じろというのか。

 だったら魔女らしく、ハロウィンみたいな格好してこいよ。

「あたしはここにいるけど、この世の存在じゃない。本当のあたしは鏡の向こう側にいて、ここに映っているのは向こう側の影。だからあたしには名前はないの」

 ――はあ?

 彼女の言葉が陽炎のように揺らぐ。

 何を言ってるんだか全然意味が分からない。

 あれだけ思わせぶりなことをしておいてそれかよ。

 急に彼女に対していらだちを覚える。

 そんな気持ちを抱いた自分にも驚いていた。

 陽炎が揺らぐ。

 ずっと揺らいでいる。

 オレのいる世界が揺らごうとしていた。

 信号はとっくに変わって、もう点滅し始めているのに、一歩も動けなかった。

 買い物に行く目的も忘れてオレは彼女と向かい合っていた。

 と、その時だった。

 オレの顔に水滴が落ちてきたかと思うと、その粒は一気に大きくなり、アスファルトを黒く染めていった。

 見上げると空はまぶしく風もない。

 なのに雨はさらに勢いを増して降っていた。

 天気雨か、ゲリラ豪雨か。

 昔のあだ名を思い出す。

 オレの頭は汗だか雨だかなんだかでぺったりと髪が張りついていた。

「行こう!」

 いきなり彼女がオレの右手をつかんで走り出す。

 どこへ?

 なんて、そんな質問なんか吹き飛ぶような勢いで彼女が駆けていく。

 アスファルトを蹴る靴音が二人だけの世界に広がっていく。

 オレはついていくのに必死だった。

 いつからだろう。

 キミのそばにいるこの瞬間が、すでにもう思い出の中の遠い記憶として置き換わっているような気がしてしまっていたのは。

 見失いたくない。

 抱きしめていたい。

 キミを離したくないんだ。

 なのに今、目の前ではしゃいでいるキミがあまりにもまぶしくて、目を細めてしまいそうになる。

「ねえ、急いで!」

「なんで?」

「もうすぐやむから」

 どうして分かる?

 そんなの聞かなくても分かった。

 魔法使いなんだから。

 キミなんだろ。

 キミがこの世界を作ったんだろ。

 雨を降らせ、光を当て、そして最後の仕上げにキミがパチンと指を鳴らせば空に虹が架かるんだろ。

 オレは今、どこを走ってるんだ?

 虹のこちら側なのか?

 それとも向こう側なのか?

「知ってる?」と、彼女は速度を落とさず空を見上げて叫んだ。「ジャガイモの花言葉」

 そんなもん、知るわけない。

 ていうか、ジャガイモにも花言葉なんてあるのかよ。

「恩恵、慈愛」

 だからなんだよ。

 それがいったい何だっていうんだよ。

 いつの間にか、オレたちは線路脇の道路を走っていた。

 いつもの無人駅までやってきて、彼女が急に立ち止まって振り向く。

 慣性の法則に身を任せて、オレは向かい合った彼女に抱きついた。

 その背中に腕を回し、きつく抱きしめた。

 二人の荒い息が重なり合う。

 その瞬間、雨がやんだ。

 キミの鼓動が聞こえる世界はこんなにも光り輝いてオレを包んでくれる。

 離さない。

 オレはキミを離さないよ。

 なのに……。

 それなのに、彼女の言葉がオレを突き放そうとする。

「ごめんね」

 何が?

「もう、行かなくちゃ」

「どこへ?」

 オレは声に出してたずねた。

「戻らないと」

「だから、どこに?」

 抱きしめる腕に力を込めてオレはたずねた。

「あたしじゃないよ」と、彼女がオレの腕に柔らかな頬を押しつける。「キミだよ」

 オレが?

「思い出した?」

 オレが向こう側にいる理由。

 ――オレがいるのはこっち側じゃなかったんだ。

 彼女がつぶやく。

「本当は好きだったんでしょ」

 ――好きだったよ。

 オレは弟が大好きだった。

 あこがれて、うらやましくて、アイツみたいになりたいと願って、いつもオレはアイツを追いかけていたんだ。

 世界中の誰よりも絶対に弟が好きだった。

 なのに、オレは言えなかった。

 アイツじゃないオレがアイツになんかなれるわけなかった。

 鏡に映るオレはアイツではなく、アイツのいる世界はいつだって向こう側だった。

 必死になって追いかけているのに距離は開くばかりで、いつだってオレはこちら側に取り残されていたんだ。

 ――だからオレは向こう側へ……。

 アイツがあっちの世界へ行っちまったんだから……。

 だから、オレは向こう側へ飛び込んだんだ。

 踏切の向こう側へ。

 この世界じゃない、弟のいる世界へ行くために。

 ――そのはずだったんじゃないのか?

 なんでオレはまだこっち側でもがいているんだ?

「もう、『じゃないやつ』じゃないもん」と、彼女が手を握る。「カイトはカイトだよ」

 カン、カン、カン。

 踏切の音が聞こえてくる。

「キミにはあの虹が見える?」

「虹?」と、オレは空を見回した。「そんなもの、どこに出てる?」

 カン、カン、カン。

 カタン、カタン……、カタン、カタン。

 電車の刻むリズムがレールを伝って聞こえてくる。

「こっちだよ!」

 オレの腕を振りほどいて彼女が走り出す。

 待ってくれよ。

 行かないでくれ!

 オレも連れて行ってくれよ。

 そっち側に、オレも一緒に……。

 走りながら空をさして彼女が叫ぶ。

「ほら、見て!」

 思わず立ち止まって空を見回す。

 ウソだろ!?

 こんな奇跡があるなんて。

 空には二つ虹が架かっていた。

 しかもそれは十字に交差していた。

 まるで空に鮮やかなリボンがかかったように、虹が世界を結んでいた。

 本当だ……。

 キミの言ったとおりだよ。

 この世は魔法で満ちている。

「この世界はキミへの贈り物なんだよ」

 いつの間にか彼女は向こう側にいた。

 カン、カン、カン。

 遮断機のない歩行者用踏切の向こう側。

 オレがいるはずの向こう側に立っているのは彼女だった。

 百合の花束を抱えている。

 揺らぐ空気に乗って、鉄路と赤錆の匂いをかき消すように流れてきた清涼な香りがオレの鼻をくすぐる。

 彼女が貸してくれたタオルの匂いだ。

 どうしてキミが花束なんか……。

「じゃあね」

「待ってくれよ。オレも今、そっちへ行くから」

 カン、カン、カン。

 でも、警報が鳴っている。

 オレは踏み出せずにいた。

 脚に力が入らない。

「立ち止まったっていいんだよ」と、百合の香りがささやいている。「自分が決めたことが間違っているって気づいたら、立ち止まって引き返したっていいんだよ」

 何が間違っていたって言うんだよ。

「キミは、じゃない方を選んでいたの。いつも、自分じゃない方を選んでいただけ。だから、間違った答えに飛びついてしまったんだよ」

 何を言ってるんだよ。

 カン、カン、カン。

 踏切の向こう側へ。

 どうしてもオレは行きたいんだ。

 なのに足が動かない。

 なぜだ?

 どうしてなんだよ。

 キミを抱きしめたいんだ。

 オレはキミと一緒にいて楽しかった。

 ずっとボッチでいいと思っていたのに。

 だけど、キミだろ。

 キミが教えてくれたんだろ。

 虹の出る世界にだって、オレの居場所があるってことを。

「そうだよ」と、彼女がうなずく。「だからこっちに来ちゃだめだったんだよ。キミは知らなかったんだから。こういう世界もあるんだってことを」

 知っていたら、違う道を選んでいたのか?

 キミはそれを見せに来てくれたのか。

 なら、間違ってなんかいないだろ。

 だって、オレはキミと一緒にいたいんだ。

 オレが選んだのはキミなんだから。

「あたしはここにはいないよ」

 何を言ってるんだよ。

 すぐそこにいるじゃないか。

 手を伸ばせば届く距離。

 一歩踏み出せばすぐにでもキミを抱きしめることができる。

「虹も同じだよ」と、百合の花束が揺れる。「手を伸ばせば届くように見えるけど、決して触れることはできないの」

 そんなはずはない。

 オレはキミに触れたはずだ。

 キミがオレに口づけたんじゃないか。

 あれは夢だったのか。

 あれは幻だったというのか。

 ついさっきオレはキミを抱きしめていたじゃないか。

 あのぬくもり。

 息づかい。

 あれが幻なら、いったいどれが本物だって言うんだよ。

「ありがとうね」

 唐突なお礼に、オレは虚を突かれて立ちすくんだ。

「あたしもキミに救われたんだよ」と、彼女がえくぼを作る。「鏡の中から引っ張り出してくれてありがとう」

 オレが?

 キミを?

「だからもう、あたしはこっちにいないんだよ。あたしはもう、あたしじゃない。こちら側は鏡に映るそちら側の影。本当のあたしは鏡の前に立って、泣きながら鏡の中をのぞいていたの。そのあたしに手を差し伸べてくれたのはキミなんだからね」

 キミがキミで、オレがオレで……。

 そんなのどっちだっていい。

「じゃあね、バイバイ」と、向こう側で彼女が自分の胸をトントンと指さしている。

 ――ポケット?

 オレが探ろうとしたときだった。

 電車が空気を揺らしながら踏切に入ってきた。

 その瞬間、世界が割れた。

 目の前の世界が粉々に砕け、キラキラと破片をまき散らしながら弾け飛んだ。

 虹のように天高く舞い上がっていくその破片はすべてハートのエースだった。

 トランプが空を埋め尽くしていく。

 オレの見ていた世界はもうどこにもなかった。

 ――全部、キミが見せてくれたイリュージョンだったのかよ。

 この世で一番美しい魔法はキミ自身なんじゃないのか。

 駆け抜ける電車に向かって、オレは飛び込んでいけなかった。

 踏み込めなかった。

 ほんの少し背伸びすれば届くのに。

 どうしてオレはその手をつかまなかったんだ。

 と、その瞬間、電車の中にいる『彼女』と目が合った。

 眼鏡をかけて、髪を暗幕のように垂らして顔を隠した彼女が、窓に張りつくようにしてオレを見下ろしていた。

 電車が通過して視界が開けたとき、踏切の向こう側には誰もいなかった。

 警報音はもう鳴らない。

 空は青く晴れわたり、ただまぶしいだけの日差しがオレを押さえつけるように照っている。

 ――あれ?

 オレはいったい、何を見上げていたんだろう。

 無人駅に停車していた電車が静かに去っていく。

 遠くの蝉に招き寄せられるように、オレは踏切を向こう側へと渡った。

 そこには、茶色く枯れた花束が放置されていた。

 誰に捧げられたものかは知らないけれど、風に吹かれてカサカサと乾いた音を立てるそのゴミを拾い上げて、オレは家に向かって歩いた。

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