第5章 友達(5-1)
月が変わって七月になり、期末試験が翌日にせまっていた。
梅雨前線の影響は弱まっていたけれど、まだくっきりとした晴れ間の待ち遠しい日々が続いている。
その日も午後から降り出した雨は放課後までやまなかった。
「やあ、待った?」
看護科校舎の昇降口前で雨を見上げていた私に、後ろから傘が差しかけられた。
振り向くとあの彼がいた。
なんてベタな現れ方だろう。
それが一番初めに思いついた感想だった。
「入っていきなよ」と、彼は何でもないことのように言ったけど、人の目があるのに気にならないんだろうか。
昇降口にいる看護科の生徒は先輩が数人だけで同級生はいないとはいえ、どこで見られているか分かったものではない。
「待っててもやまないよ」と、なれなれしい笑顔が傘と共に覆い被さってくる。
「そんなの分からないじゃないですか」
「分かるよ」と、彼が小さくえくぼを作る。「ボクは魔法使いだからね」
はあ、そうですか。
「それに、キミが入ってくれないと、ずっと降り続けるよ」
「じゃあ、いいです。濡れても構いませんから」
「まあ、そうかたくなにならないでさ。せっかく大きいサイズの傘を持ってきたんだから」
たしかにそれはあまり見かけないサイズだった。
骨が長く湾曲している分、頭がすっぽりと入ってしまうくらいの深さだった。
色もカラスのように黒くつやがあって、弾ける雨音が頭の上で打楽器を鳴らされたように響く。
どこで売ってるんだろう、こんな傘。
死神がお迎えに来る時に使うんだろうか。
「魔法使い専用さ」
私の表情を読み取ったかのように彼がささやく。
「やっぱり、いいです。お先に行ってください」
「今さら遠慮なんかしなくていいんじゃないかな」と、彼が傘を少し傾けた。
と、あたりを見回すと、看護科の同級生二人がこちらをじっと見ていた。
ミサキとマユだ。
私と目が合うと、一瞬意外そうな表情を見せたけど、一転して二人してニヤニヤしながら手を振っていた。
――ああ、もう、明日なんて言われるんだろう。
私は二人に手を振り返して、傘の中に顔を隠した。
「では、参りましょうか」と、彼が王子様のように手を差し向けて歩き出す。
歩幅が違うから歩調を合わせるのが難しい。
脚の長い彼に遅れないようにしようとすると、傘に頭がつっかえてしまったり、かといって立ち止まるわけにもいかない。
「キミは自分のペースで歩けばいいんだよ」と、傘の下で彼が私に微笑みかける。「ボクが合わせるから」
お互いが相手に合わせようとするからかえって合わなくなるらしい。
私は人に合わせるのが苦手だから、彼にお任せした方がいいのかもしれない。
でも、変に意識しなくていいと言われれば、かえってぎこちない歩き方になってしまう。
右手と右足が同時に出てるような気がする。
いっそのこと、おもちゃの兵隊さんになってしまいたい。
雨の中、叫び声を上げながら部室棟に向かって駆けていく人たちがいる。
私はあんなふうに大声を出したことがない。
泥水を跳ね散らかしながら走ったこともない。
やれと言われたって、体がすくんで動けないだろう。
「緊張する?」と、彼もその人達の方を眺めながら私にたずねた。
そりゃあ、もう。
「ボクもだよ」
え?
「チャラ男だって、こんな機会、めったにあるもんじゃないさ」
「チャラいって自覚はあるんですか?」
「キミはどう思う?」
「チャラそうです」と、言ってから少しだけ迷いが生じた。「……と、思ったんですけど、あくまでも第一印象です。よく考えたら、私、あなたのこと、何も知りません」
「これから知っていけばいいんじゃないかな。なんだって、そうだろ。この世には知らないことが満ちあふれている」
彼が急に立ち止まった。
校舎から校門まで続くまっすぐな道のちょうど真ん中あたりだ。
彼が足元にある岩を指した。
「昔、このあたりは飛行場だったんだよ。滑走路とか、飛行機をしまっておく倉庫とか、そういう設備があったらしいよ。昭和の終わり頃に廃止されて、そのまま放置されていたんだね」
へえ、そうなんだ。
「だからこんなに広い敷地が残ってたんですね。ちゃんと歴史があるんですね」
よく見ると、彼の言うように、雑草に埋もれた岩に文字が刻まれていた。
その横には、金属プレートに、ちゃんと説明も書かれている。
入学して三ヶ月、毎日横を通っていたのに、こんな記念碑があったなんて知らなかった。
『この世には知らないことが満ちあふれている』
ついさっき、彼の言っていた言葉が思い浮かんできた。
ふと、傘の中の彼の横顔を見ると、なんだかドヤ顔っぽく見えた。
いいこと言ってるとは思うけど、ちょっと憎たらしい。
意外にも、つついてやりたくなるようなつるんとしたほっぺをしている。
と、彼の目が動いたので、私は慌てて石碑に視線を戻した。
「知ってみると、ただのまっすぐな道だと思っていたものが、急に輝いて見えるような気がしない?」
彼の言うとおりだった。
「さっきまではただの道だと思っていたのに、もう滑走路にしか見せませんね」
何が変わったわけでもないのに、全然違う風景に見えるから不思議だ。
雨が小降りになって、少し空が明るくなってきていた。
濡れたアスファルトが、彼の言葉が合図だったかのように本当に輝き始めた。
離陸していく飛行機が目に浮かぶようだ。
「行こうか」と、彼が歩き出す。
気がつけば、並んで歩くのにも慣れてきたみたいだ。
「キミは看護科だったんだね」
はい、と返事したつもりだけど、声が出たかどうか自信がなかったので、私はコクコクと首を縦に振った。
「看護科の勉強は楽しい?」
ズンと頭に漬物石を置かれたような感覚がして答えられなかった。
看護師になりたいわけでもないし、向いているとも思えない自分のことをどう説明したら良いのか分からなくて、思考が同じところを空回りしてしまう。
弱まっていた雨がまた少し強くなった。
空は明るいままだから、おそらくそのうちやむだろう。
しばらく私たちはお互いの足音を聞きながら歩いていた。
校門まで来たところで、他の生徒達は雨をよけてショッピングモールへ入っていくけど、彼はそのまま外周を回って駅へ向かおうとした。
このまま二人で傘をさして歩けるなら、その方がいい……のかな?
私は逆らわずに彼と寄り添って歩いた。
「実習なんかもあるの?」
質問の仕方を変えてくれた彼の優しさに、私も声のトーンを明るくして必死にすがりついた。
「一年目なんで、まだそれほど本格的ではないですけど、基礎的な練習はあります」
「注射なんかもするの?」
「注射の練習はなんとかなるんですけどね」と、思わずため息が漏れる。「包帯巻くのが下手なんですよ。なんか、人差し指と薬指が入れ替わっちゃったみたいな感じで思うようにならなくて、みんなに笑われます」
「組み間違えたプラモデルじゃないんだから」と、彼が笑う。
その優しい笑顔に引き寄せられて、つい愚痴をこぼしてしまう。
「不器用すぎて嫌になっちゃいますよ」
「ボクで練習してみたら」と、彼が手を差し出す。「この手を封印して見せてよ。さもないと、キミに魔法をかけちゃうから」
急に何を言い出すんだろうと思ったら、彼の方から笑い出した。
「あはは、スベっちゃったね」
たしかにそうだけど、それも彼の優しさなんだろう。
「ボクはね、コーンマヨパンの食べ方が下手なんだ」
「え、そうなんですか?」
「あれはどう頑張っても、ポロポロこぼれるんだよ。この前も昼に食べてて、落ちたコーンを自分で踏んづけちゃったりして、女子に笑われたよ」
「なんか意外ですね。器用そうなのに」
「女の子に対しては器用かもしれないけど、それ以外のことについてはけっこう不器用だよ、なんてね」
はあ、そうですか。
彼のチャラさに甘えて愚痴が続く。
「私のまわりの同級生はみんなやる気があるし、器用にこなしていてうらやましいですよ」
「キミはやる気がないの?」
「みんなと比べたら……」
彼がたたみかける。
「みんなはやる気があるって、どうして分かるの?」
なんだか急に面倒な話になってしまった。
「分かるっていうか、そういう人しかわざわざ看護科なんて受験しませんよ」
「キミだって看護科をわざわざ受験したんだろ。キミは違うの?」
ますます追い詰められてしまう。
喉元に剣を突きつけるように質問が返ってきて、私はまた声が出せなくなってしまった。
「自分がそう思い込んでいるだけで、実際にみんなに聞いてみたわけじゃないんでしょ?」
そう言われてみれば自信はない。
でも、みんなが当たり前のように取り組んでいる姿を見れば、誰でもそう思うんじゃないだろうか。
いきなり彼がつぶやいた。
「ボクは思わないよ」
え?
「少なくとも、ボクはそうは思わないよ。実際にその人の口から聞くまでは」と、彼は傘の柄から前に身を乗り出して、私の顔をのぞき込んでいた。「もしかしたら違うかもしれないだろ。そしたら、その人に失礼じゃないか。勝手にその人のことを判断して、決めつけて、本人とは全然違う他人を重ね合わせてしまうなんて、同じことをボクがされたら、断固抗議するよ。『そんなのはボクじゃない』ってね」
彼の言葉を聞いて私は思わず息をのんだ。
それはまさに、自分がされて一番嫌なことだからだ。
『アイツ暗いよな』
『アイツ、ムリムリ』
『おまえにはできない』
『口答えするな!』
そうやって他人の目におびえながら生きてきた私がそれを他人にしていたなんて、全然気がつかなかった。
「さっき、キミはボクのことをチャラいと言いかけて、分からないと言い直しただろ。キミもそういうふうに偏った見方に気をつけることはできるんだから、注意してみればいいんだよ」
褒められたり励まされたり、ちょっと頬が熱を帯びてくる。
私はそっと髪を耳にかけて頬に風を当てた。
「相手に聞いてみればいいんだよ」と、穏やかなささやき声が続く。「嫌がる人もいるかもしれないけど、答えてくれる人だっているだろ。少なくとも、聞いてみないと、答えてくれるかどうかすら分からない。聞く前に、この人は答えてくれそうにないなんて、また先に決めつけちゃうの?」
何重にもハードルが待ち受けているようにも思えるけど、それを乗り越えていかなければ人のことを理解することなんてできないんだろう。
そういえば前に、『人を好きになるのをめんどくさがっているだけだよ』って言ってたっけ。
それってこういうことだったんだ。
「でも、べつにキミが悪いわけじゃないから心配しなくていいんだよ。人にたずねるのがちょっと苦手なだけさ。苦手なことって誰にでもあるけど、そういうのって気が進まないからあんまりやりたくないだろ」
――ああ……。
人にたずねるのが苦手な理由を彼は知らないんだっけ。
『口答えをするな』と、怒鳴られるのはもう嫌だ。
やっと逃げることができたんだから。
私はあえてそのことを持ち出さずに、話の流れに委ねることにした。
「苦手科目の克服とか?」と、かろうじて声に出すことができた。
「そう、それと同じだよ。苦手とか下手なことって、後回しにしがちだから悪循環なんだよね」
「私にできますか?」
正直不安だ。
全然自信がないし、そもそも頑張ろうという意欲がない。
逃げることはできたけど、それですら思い切った勇気が必要だったんだ。
「大丈夫だよ」と、彼がえくぼを作る。
私はその優しい微笑みから目が離せなかった。
「なんとかしたいって思ったんだから、もうそれだけで一歩を踏み出しているんだよ。転がり始めたボールはどんどん勢いがつくさ」
「止まらなくなると怖いですね」
「いいじゃん」と、彼が朗らかに笑う。「そんなときは、どこまで行けるか期待するといいよ。まだ自分の知らない素敵な場所がどこかにあるんだ。そこまでたどり着けるといいね」
そんな話をしながら駅前のロータリーに着いた。
見上げると、とっくに雨はやんで、雲の切れ間から青空が顔を見せていた。
そういえば、いつからか雨の音がしなくなっていた。
会話に夢中で気がつかなかった。
深い傘の中で彼を見上げる。
「もしかして、雨がやんでるの、気づいてました?」
「そうだね。だいぶ前から」
油断も隙もない人。
わざとらしく肩を寄せてくる。
「だって、キミがこうしていたいのかと思ったからさ」
「聞いてみないと分からないじゃないですか」と、つい嫌味が出てしまう。「私の気持ちを決めつけないでください」
もちろん冗談だし、彼にもそれは伝わっている。
「聞いたら、もういらないって言うだろ。だからあえて黙ってたのさ」
「ずるいですよ」
「それにさ」と、真顔になって私の正面に立つ。「傘で隠れてた方が、君も話しやすいかと思ってさ」
そう言われてみればたしかにそうだった。
まわりの視線を気にせずに、心の中をほんの少しだけ素直に伝えることができた。
これも計算の上でしていたってことなの?
「半分は、ボクがこうしていたかったからだけどね」
「やっぱりずるいじゃないですか」
「だけど、キミの半分とボクの半分を足したら気持ちは一つってことさ」
なんかうまく言いくるめられたような気がする。
「じゃあ、ボクはここで消えるよ」
え?
「乗らないんですか?」
「今日はここまで」と、彼の頬にえくぼができた。「雨、やんだからね」
「また会えますか?」
「この世は魔法に満ちている」と、彼は傘を閉じて軽く巻いた。「だから大丈夫だよ」
彼が私に小指を立てて手を差し出す。
「宿題だよ」
――え?
「今度会えるまでに、ちゃんとみんなに聞いてみるんだ」
そんなこと急に言われても。
学校の課題より難しい。
自信が持てずに私がためらっていると、彼は強引に私の手をつかんで指を絡めた。
「ボクの魔法を信じて。そうすれば大丈夫。できるから」
彼の指から熱が伝わる。
「言っただろ。キミはもう魔法にかかってるんだって」
駅から電車の到着を告げるアナウンスが聞こえてくる。
そういえば、ずいぶんいろんな話をしたのに、いつもの電車に間に合った。
やっぱり時間の感覚がおかしい。
最初に会った時もそうだけど、まるで話をしている間は時間が止まっていたみたいで、都合が良すぎる。
これも魔法の一つなのかな。
「じゃあ、また……」と、お別れのあいさつをしようとした時だった。
あれ?
振り向くと、もうそこに彼はいなかった。
あたりを見回してみても姿はない。
そのかわり、雨上がりのいい匂いが私の鼻をくすぐる。
ちょっとくしゃみが出そうになって、口に手を当てた時、私は間違いなく笑顔だった。
いい匂いのする場所。
炊きたてのご飯の匂いを思い出す。
これも私の居場所なのかもしれない。
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