(5-2)
◇
翌日、久しぶりに青空の広がるすがすがしい朝を迎えた。
長く続いた雨の湿気が少しだけ残っているせいか、空がキラキラと輝いている。
なのに、校門をくぐった私の心はちょっとばかり重苦しかった。
べつに今日から期末試験だから、というわけではない。
昨日傘に入れてもらったのを同級生に見られていたからだ。
あれだけはっきり目撃されていたら、ごまかしようがない。
そして、その予感は的中した。
「おっはよー、チホ」と、校門を通り過ぎたところで、二人の足音が駆け寄ってくる。
ミサキとマユだ。
二人はそれぞれ出身中学は違うけど利用している地元駅が同じで、いつも一緒に登下校しているらしい。
二人ともよく私に話しかけてくれる。
私の方も、あまり声を詰まらずに話せる数少ない同級生だ。
ただ、それはあまり深い話をしたことがないからであって、特に仲が良いわけではない。
「ああ、うん、おはよう」
あいさつを返すと、なぜか私を挟んで三人横並びになる。
「ねえねえ」と、さっそくミサキに肩をたたかれる。「昨日のあの人、誰?」
覚悟はしていたけど、やっぱり話しにくい。
試験当日なのに、それより重要な話題なんだろうか。
少し遅れ気味の私の歩調に、わざわざ二人も合わせてくる。
滑走路の跡と教わった通路がやたらと長く感じる。
「たまたま出会っただけだよ」と、はぐらかそうとしたのが、かえって良くなかったらしい。
「すごく仲良さそうだったじゃん」と、食いぎみに追及が続く。
「でも、名前も知らないし」
「ホントに?」と、マユが肩を寄せてくる。
それは本当だ。
私は彼の名前を知らないし、聞かなかった。
ミサキが唇に人差し指を当てながら視線を上向ける。
「あの人、普通科の一年生だよね。いつだったかな、昼休みに見かけたような気がする。真面目そうな人だよね」
ずいぶん人によって印象が違うものでびっくりする。
まあ、外見だけなら、そう見えるのかもしれない。
「けっこうチャラいよ」
「えー!?」と、二人が同時に叫ぶ。「それはないでしょ」
両側から裏拳ツッコミを入れられてしまうし、さらにミサキが思いがけないことを言い出した。
「でもまあ、チホのこと大事にしそうじゃん」
「だよね」と、マユまで私の肩をつかむ。「いい男見つけたじゃん」
え、ちょっと……。
「べ、べつに、そういうんじゃないから」
私が慌てて否定すると、二人がニヤけ出す。
「そういうのって、どういうのですかぁ?」と、ミサキがマイクを向ける仕草をする。
ちょっとふざけたような空気になったかと思ったら、マユがため息をついた。
「でもまあ、うらやましいよね」
なんでよ?
どういう流れ?
「なんかさ、男とか、うちらのまわりって、ろくなのいないじゃん。うちの兄貴の方がましだと思うんだよね」
「へえ、ブラコンなんだ」と、ミサキが反対側から口を挟む。
「やめてよ、違うから。うちの兄貴、マジでかっこいいんだから」
ミサキが顔を引っ込めて私に耳打ちする。
「そういうのブラコンって言うんじゃんね」
うーん、どうだろう。
返事に困っていると、マユが無理矢理顔をねじこんでくる。
「あ、なんか言った?」
私を盾にして巻き込まないでほしい。
ちょうど昇降口についたので、靴を履き替えたところで話題を変えた。
「あのね、二人とも、聞いてもいいかな?」
「え、何?」と、目を丸くしながら二人が私を見る。「チホが質問なんて珍しいじゃん。やっぱり、カレシができたから?」
「違うってば」
――違わないのか……な。
きっかけはあの人だけど、でも、カレシじゃないし。
まあ、そんなことはいいや。
危うくまた頭の中で思考が空回りするところだった。
彼との約束――宿題――を果たすという義務感が私の背中を押してくれる。
「二人とも、どうして看護科を選んだのかなって」
「ああ、志望理由ってこと?」
私は歩きながらうなずいた。
ミサキが軽く首をひねりながら答えてくれる。
「小さい頃から看護師になろうと思ってたから志望校を決めるのは迷わなかったんだけど、そもそもなんで看護師になろうと思ったかってことになると思い出せないんだよね」
案外、あやふやな理由なんだな。
彼の言うとおりだった。
聞いてみないと分からないものだ。
「実習の時とか熱心だから、もっとはっきりした理由があるのかと思ってたよ」
私の言葉にちょっと吹き出しながらミサキが自分の頬を指でかく。
「いやあ、なんかさ、小さい頃はお仕事って自分の身近なところしか知らないじゃん。だから保育士さんとか看護師さんくらいしか思い浮かばなかったんじゃないかな。正直、食える資格だからいいかななんて、その程度の理由だったと思うよ。甘かったかな」
今度はマユが首をひねる。
「うーん、どうだろう。うちはお母さんが看護師でさ。確かに一人で食べていけるくらいは稼げるって言ってるけど、楽ってわけじゃないじゃん」
それはそうだろうな。
「私もさ」と、マユが続ける。「子供の頃から将来の仕事っていったら親の姿しか見てなかっただけかな。それに、お母さんも昔のここの卒業生なんだよね。だから、賛成してくれてさ」
「へえ、そうなんだ」
マユは授業中もしっかり先生の話に集中していて熱心だなと思っていたけど、そういう土台があったんだ。
身近なお手本があってうらやましい。
やっぱり、聞いてみないと分からないことってあるんだな。
質問して良かったし、二人ともちゃんと答えてくれたのがとてもありがたかった。
マユがポンと手をたたく。
「でも、私は、理由なんてそんなのでいいと思ってるよ。べつに、みんながみんなナイチンゲールってわけでもないじゃん。お母さんもさ、せっかく資格取っても、いざ仕事に就いたらやめちゃう人が多いって言ってるし」
「夢も希望もないね、うちら」と、ミサキが笑顔のままため息をつく。
――夢と希望か。
私にもないな。
逃げるだけで精一杯で、そんなものを探し求める余裕なんかなかったし。
二人に気づかれないようにそっとため息をつく。
教室の入り口で、ミサキが立ち止まった。
「でも、なんでよ。急にどうしたの?」
二人が答えてくれたとはいえ、自分の方は最初から看護師になんかなりたくなかったなんて正直に言う勇気はなかった。
「向いてないんじゃないかとか、自分が看護師としてやっていけるのか不安になることってない?」
わざと話をずらしたつもりだったのに、二人ともうんうんとうなずく。
「そりゃあ、あるよ」
「うん、私も」
へえ、意外だな。
「それってさ、チホの場合は包帯巻くのが下手なだけでしょ」と、ズバリ指摘したのはミサキだった。
それ言う?
やっぱりみんな思ってたんだ。
はっきり言われちゃうと、開き直って笑うしかない。
二人とも、自分の席へは行かず、鞄を持ったまま私の机を囲んでそのまま話を続けた。
「でも苦手って、誰でもあるじゃん」
「まあね」と、マユが続けた。「私も止血がうまくいかないと焦っちゃうな。水道がポタポタ止まらないのとか、見てるだけでドキドキする」
「修理呼べよ」と、ミサキが笑う。「冷蔵庫に磁石の広告貼ってあるでしょ」
私もつられて笑い声が出た。
「でもさ、将来手術の助手とかで『止血して』とか言われたら、絶対テンパる自信あるよ」
――ああ。
けっこう笑い事じゃないかも。
なんだか私まで不安になってきてしまった。
「ねえ、チホさ、ボランティアに来てくれないかな?」と、マユが重い空気を入れ換えるようにそんな話を持ち出した。
「何のボランティア?」
「うちの看護科ってね、そこの大学病院の小児科病棟で読み聞かせとか、クリスマス会なんかの行事の手伝いとかを代々やってきてるわけ。で、今度、先輩達から引き継ぎを頼まれてて、ミサキと私で行くんだ」
へえ、そんなことをしてたんだ。
ショッピングモールの並びに大学病院があって、私たちの看護科とは実習の受け入れなんかでつながりがあるのは知っていたけど、ボランティアのことはまったく耳にしたことはなかった。
「今度っていつ?」
「試験明けの土曜日だね。先輩たちのね、実習の準備が始まっちゃうから、夏休みの前には済ませたいんだって」
「私になんかできるかな」
特に深く考えて発言したわけではなかった。
私はいつも自信がない。
なにをやるんでも、まず、そう考えてしまうのだ。
自虐というほどではないけど、謙遜のつもりだった。
「できないんじゃない」
――え?
冷たい言葉の塊を放り投げてきたのはマユだった。
ぶっきらぼうな口調も私の心を深く突き刺す。
鼓動が激しくなって息が苦しい。
私以上にうろたえているミサキを横目に、マユは口調を変えずに言い続けた。
「だって、誰だって最初はできないでしょ。赤ちゃんだってバブゥしか言えないじゃん。だけど何でもやってみるからできるようになるんでしょ。逃げてたら何もできないよ。だからチホは何もできないんじゃん」
――逃げていたら何もできない。
言われなくたって分かってる。
だけど、何も言い返せない。
暗い森でフクロウに襲われるネズミのように言葉すらおびえながら逃げていく。
ミサキが取りなそうとしてくれているけど、話に割り込ませないようにマユが続ける。
「自分は看護師に向いてないとか、まだ入学して三ヶ月しかたってないのに、そんなの分かるわけないじゃん。何も分からないくせに、自分で勝手に決めつけて、なんで分かるようなつもりでいるのよ。私だって、失敗するし、今はまだできないことだらけだよ。だけど、やってみなくちゃできるようになんかならないじゃん」
「ちょっと、マユ、言い過ぎだって」
ミサキの声も震え気味だ。
登校してきた同級生たちが遠巻きにこちらを見ている。
私も自分で何か言うべきなのかもしれないけど、頭が真っ白になって空回りするだけだ。
――結局、私は私だ。
だけど、自分が看護師に向いてないことは感じているし、そもそもなりたいと思ったことがないのも事実だ。
だから、私にはできない。
それのどこが間違っているっていうんだろう。
「わ、私は……」
言いかけたけど、言葉の続きが出てこない。
声がかすれて泡となって弾けて消えていく。
涙がにじんできた。
私はうつむいてぎゅっとまぶたを閉じた。
暗闇の中で、母親に怒鳴られている自分の姿が見える。
嵐が過ぎ去るのを、正座した膝の上で拳を握りしめてじっと耐えている自分。
そして、鏡の中で、向こう側で泣いていた私。
何も変わっていないんだ。
私には何もできない。
逃げたって、結局、私はどこにも行けないし、何かを変えることはできないんだ。
鏡に映る姿はいつだってあのときの私。
目の縁から涙がこぼれそうになる。
だめ、泣いちゃだめ。
ここで泣いてしまったら、私は終わってしまう。
マユに嫌われたら、このクラスに私の居場所はなくなる。
そうなったら看護科をやめて高校に入り直さなければならないだろう。
そしたら、母親のところに帰らなければならなくなる。
それだけは嫌だ。
向かないとか言ってるくせに、やり直す勇気もない。
そんな自分が悔しいけど、でも……。
どうしたらいいのか分からない。
あやまらなきゃ。
ちゃんと、あやまらなきゃ。
なんとか、あやまらなきゃ。
声に出してあやまらなくちゃ。
声に……声に出して、言わなくちゃ。
と、その時だった。
目を閉じた私の耳に、嗚咽が聞こえてきた。
目を開けると、私の目の前でマユが泣いていた。
転んで膝をすりむいた子供みたいに手の甲で涙を拭いながらマユが泣いていた。
その姿を見て、こらえていた私の涙も一気にあふれ出す。
「お母さんに」と、マユが肩を上下させながら必死に声を絞り出す。「お母さんにおんなじことを言われたの。やる前から弱音を吐いているんだったらやめちゃいなって。できないからやるんだって。できるまでやらないからできないんだって。できるまでやったから、お母さんは看護師になれたんだって。それでも毎日悩みながら患者さんの痛みを感じて苦しみも受け止めて、命だって預かってるんだって。私、言い返せなくてさ……」
そうか、そうだったのか。
ごめんね、マユ。
私は自分が情けなくて恥ずかしかった。
身近なお手本がうらやましいだなんて……。
逆にプレッシャーだったんだね。
一番身近な人がなれたものになれなかったら自分がだめな人間だと認めてしまうことになるし、期待してくれる人をがっかりさせてしまうことにもなる。
期待に応えることができない無力感と絶望感は、私なんかよりもずっと深く重たかったんだろう。
そんなことも分からないで、なんで私は自分勝手に決めつけていたんだろう。
泣いているマユのそばにクラスのみんなが集まってくる。
「マユ、泣かないでよ」と、マナカが肩を抱く。「気持ちは分かるよ。私もさ、なんか自信なくなっちゃっててさ。正直、向いてないって思ってたよ」
「後出しで悪いけど、私も」と、ノゾミも手を取ってさする。「ここに来てるのってさ、目標に向かってまっすぐな人たちばかりなんだなって思ってたから、なんかあんまり素の姿を見せたらいけないのかなって、勝手に思い込んで強がっていたかも」
他の人たちも口々に同じようなことを言い合っている。
みんな目に涙を浮かべたり、ハンカチで頬を拭ったりしている。
「べつに励まし合おうとか、そんな甘っちょろいこと言うつもりはないけどさ。何でもできるフリなんかしないで、少しは弱音を吐いたり、愚痴を言ったっていいんじゃない?」
「だよね。カッコつけてもしょうがないし」
みんなも口に出しては言わなかったけど、それぞれ不安を感じていたんだ。
思っていても言えないことがあるのは私だけじゃないんだな。
マユも落ち着いてきて、涙を拭いている。
と、そこへ担任の先生が来てしまって、みんなが自分の席に戻っていく。
「なんだ、どうした」
泣きはらした目の生徒たちを見て先生が驚いている。
「ちょっと青春してました」と、ノゾミがおどけてみせる。
「なんだ、現実逃避か?」と、先生が渋い顔をする。「試験だもんな」
「えー、先生ひどいですぅ」と、マナカも笑いながら自分の席に駆けていく。
そんなやりとりに、マユとミサキの笑顔も戻っていた。
――ああ、まただ。
結局、私は言葉に出して謝ることができなかった。
タイミングを逃して、ますます言いづらくなってしまう。
そしてまた自分の頭の中だけで言葉を空回りさせてしまうんだ。
その日はまた試験中に雲行きが変わって、終わる頃には雨が降り始めた。
みんなは真剣にテストに取り組んでいるのに、私はずっと窓の外の雨を眺めていた。
――会いたいな。
彼に会って話を聞いてもらいたかった。
彼になら、話せる気がした。
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