(4-3)


   ◇


 そんなオレたちに奇跡が起きた。

 寂れた住宅街に自宅を改装したといった趣の小さなカフェがあったのだ。

 店の周囲には雨の匂いにかぶせるようにコーヒーのいい香りが漂い、ガラス張りで明るい店の様子が外からでも見えて、冷蔵ケースにおいしそうなケーキも並んでいた。

「ねえ、あれ、ジェラートじゃない?」

 ガラス扉の中を彼女が指さす。

 オレものぞき込んでみると、確かに、ケーキの隣にコーンとカップを積み上げたケースがある。

「ここでいいかな?」と、聞いてみた。

「うん、ここにしよう」

 まあ、他に選択肢がないんだからいいだろう。

 彼女が扉を引いて先に入る。

「いらっしゃいませ。お二人様ですか」と、うちの母親くらいの歳の店員さんがオレたちを隅の席に案内してくれる。

 店内は丸テーブルが三つに、後はカウンター席で、客は他にいなかった。

 オレたちは外に向かって、八の字形に並ぶような形で席に着いた。

 なんだか恋人っぽい角度だ。

 メニューを置いていったん係の人が下がると、彼女がオレに耳打ちした。

「ここさ、ピスタチオのジェラートがあるよ。当たりだね」

「へえ、好きなの?」

「うん。だけどね、材料が割高で味に差が出やすいから、出してるお店あんまりないのよ。よほど自信があるんじゃないかな」

 なるほど、そういうものなのか。

 ジェラートのメニューを見ると、確かに『自家製スペシャル』と書かれている。

 良い店を選んだみたいで安堵の息が漏れる。

 まあ、お値段は学生向けじゃないけど、払えない金額でもない。

 人生初デートだ。

 このまま歩き続けて牛丼屋しかなかったとかいう事態よりは全然いい。

 今はお店があっただけでも感謝だ。

「二人でピザ頼んで、デザートにジェラートでどう?」と、提案してみた。

「いいよ」

 ひとまず、マルゲリータピザを頼んで、しばらく窓の外の雨を眺める。

 ほとんどやんでいて、空も少し明るくなってきている。

 食べ終わる頃には傘はいらなくなるだろう。

 彼女が髪留めを取り出して、サイドの髪を後ろでまとめた。

 どう、と問うような顔をしているので、うなずいておいた。

 何と言うべきなのか分からない。

 いいね、かわいいよ、最高だね。

 実際、そう思うんだけど、口に出したらキモイんじゃないかと、オレはグラスの水に口をつけてごまかした。

 ほんのりレモンのフレーバーが香る。

 彼女がオレの方に体を傾けてきた。

「お店とかメニュー選びとか結構即断即決だね。意外な感じ」

 他に選択肢がないからというのが一番の理由だけど、ふだんからたいていのことはこんな感じで決めている。

「自分で決めないと後悔するから大体こんな感じだね」

「そうなんだ。なんか後悔したことあるの?」

「オレ、中学の時に、カンニングしたことあるんだ」

「それはまた、大胆な告白だね」と、彼女は椅子の背もたれに体を預けた。

「国語のテストで『せんもんか』を漢字で書く問題があってさ、最初に『専門家』って書いたんだけど、考えているうちにだんだん『門』だか『問』だか、分からなくなっちゃってさ」

「ああ、結構迷うよね。『訪問』っていう字もどっち使うか迷うよね」

「で、前の席の頭のいい女子が居眠りしててね、肩越しに答案用紙が見えちゃったんだよ。そしたら、『問』の方を書いててさ。ますます自信なくなっちゃったんだよね」

「で、どうしたの?」

「『専問家』って書き直して、バツだった」

「あーあ」

 彼女のため息と、あの時のオレのため息が時空を超えてシンクロしていた。

 それは、『友達』という漢字を書き間違えて、友達のいないやつと思われた時のため息とも同じだった。

「カンニングしたくせして間違えてさ、しかも、文句言うわけにもいかないし、すごくモヤモヤした気持ちを抱えたまま、いまだに覚えてるんだ。あの時のオレ、自分を信じてやれなかったんだよなってさ。だから、間違っててもいいから、自分で決めようって、そう思ったわけ」

「でも、自分で決めて間違えたら、へこまない?」

「自分で責任を負うのって、案外悪くないと思うんだよな。百人中九十九人が正解で自分一人がハズレを選んでも、自分の答えを恥じる必要はないんだよ。馬鹿にされたり、何か損することもあるかもしれないけど、後悔はしないと思うんだ。もしかしたら、九十九人が『専問家』って書く場合もあるかもしれないんだし。オレは失敗の償いをするのは構わないけど、他人に運命を決められてしまうのが嫌なんだ」

 オレの頭の中にはあいつ――弟――の笑顔が浮かんでいた。

 あいつはあいつ、オレはオレ。

 似ていない、『じゃない方』の兄。

 だけど、それでいいんだ。

 と、彼女が手を伸ばしてオレの腕をつついた。

「かっこいいじゃん」

 唐突な感想に驚いて思わず手を引っ込めてしまった。

「本当にそう思ってる?」

「あたしがウソついてるって言うの?」

「あ、いや、ごめん。オレが悪かった。そんなふうに言われたことがなくて、つい……」

「誰も言ってくれなかったかもしれないけど、あたしはかっこいいと思うよ」

「あ、ありがとう」と、かろうじてお礼の言葉を絞り出す。「でも、なんか信じられないよ。信用していないっていう意味じゃなくて、他人から褒められるっていうことに慣れてなくて自信がないんだ」

「誰がなんと言おうと、あたしはそう思う」と、彼女が頬にくっきりとえくぼをつくる。「それって、キミと同じでしょ」

「ああ、そうだね」

「百人中一人だけのあたしでいてあげるから」

 彼女の瞳に嘘偽りの影などない。

 その言葉はオレの心にじんわりとしみこんでくる。

 一方で、その心には不規則な波が立ち始めていた。

 彼女が励ましてくれているのは伝わってくるけど、強調しようとすればするほどオレの気持ちは委縮していく。

 そもそも、そんなにたいしたポリシーなんかでもないんだし。

 ――それに……。

 ウソなんだ。

 半分、ウソ、というか、まだ隠していることがある。

 オレが自分で決めることにこだわるのは、お下がりが嫌だったからだ。

 弟の服、弟と同じ習い事、弟が選んだお菓子とその残り物。

 弟が何でも先に決めて、オレはその結果に従うしかなかった。

 小学生の頃まで、オレはそれを嫌だと言えなかった。

 あいつがいなくなって、オレは初めて自分で選べるようになったのだ。

 だから、オレは必死にその権利を二度となくさないように、飛びついて失敗してでも、何でもすぐに決めるようにしたのだ。

 そうなってからまだ数年だけど、もう二度とあのころに戻りたくない。

 だから、選ぶ時は正解なんて分からなくても、たとえ目をつむってでも、心の中で「えいやっ」と声を上げて指をさすのだ。

 正しいかどうかなんて関係ない。

 オレが選んだという事実、それだけが正解、オレにとっての正義なんだ。

 と、そこへピザが運ばれてきた。

 正直なところ、話題を区切ることができてほっとしていた。

「わあ、おいしそう」

 朗らかな彼女の様子を見ていると、そんな昔のことなどどうでも良くなる。

 大丈夫。

 オレはこっち側にいるんだ。

『じゃない方の兄』じゃない。

 ピザは薄い生地の端がもっちりと膨らんで、ほどよい焦げ目から立ち上る小麦の香りが食欲をそそる。

「いっただっきまーす」

 切れ目が入れてあるけど、彼女が一切れ持ち上げるとお約束通りチーズが糸を引いて伸びる。

 ピザって、楽しい食べ物だよな。

 オレみたいな非モテ男子でも、女子を喜ばせることができる。

 と、そんなとりとめのないことを考えているときだった。

 ――あれ?

 ふいに、意識が遠のくような感覚に襲われる。

 自分と周囲が切り離されて、透明なカプセルに閉じこめられたような不思議な感覚だ。

 現実感が失われて、まるで夢を見ているみたいだ。

 彼女はオレの目の前にいるのに、とろりとこぼれ落ちそうなチーズをすくい上げながら楽しそうにピザを口に入れる姿が、まるで子供の頃の古い動画を再生して眺めているんじゃないかと思えてしまう。

 パズルの組み立てを逆再生しているかのように、ピザが一切れ、また一切れと消えていく。

 なのにオレは手を出すことができない。

 水中で溺れているかのように息苦しく、焦れば焦るほど足をつかまれたかのように深みへと引きずり込まれていく。

 これって……。

 鏡の中に閉じ込められるあの感覚だ。

 なんでだよ。

 なんで今なんだよ。

 ――おまえはそっちにいればいい。

 オレじゃない誰かがオレを罵倒する。

 おまえがこっち側にいるなんて、おかしいだろ。

 出しゃばるなよ。

 おまえはおまえだろ。

 鏡を見ているオレがいつの間にか鏡の中にいる。

 弟じゃないできの悪い兄、弟と似ていないオレ。

 オレとは別の世界に生きる弟がこちらを見ている。

 たたいても決して割れることのないガラスがオレたちを隔てている。

 あいつはいつも楽しそうだった。

 それを見ているオレはいつもそっちへ行きたかったんだ。

 違うだろ。

 おまえはそっちの世界にいればいいんだよ……。

 こっちの世界に来たってどうせ何もできないんだから……

 ――なんでだよ。

 どうして、今、ここで、なんでオレを閉じ込めようとするんだよ。

 叫びたくても喉が締めつけられるみたいに苦しい。

 ――ねえ……。

 ねえってば。

 ――え?

「どうしたの?」

 その言葉に、ハッと我に返る。

 ――よかった。

 戻ってこられた。

「すごい汗だよ」

 オレはあわててテーブルの上のおしぼりをつかみ、まるで金魚みたいに口をパクパクさせながら顔を拭いた。

 オッサンみたいだけど、構ってなどいられない。

「大丈夫?」と、彼女が心配そうにオレの顔をのぞき込む。

「ああ、ごめん。なんかぼんやりしちゃって」

「せっかくのピザが冷めるよ」

 オレの取り上げた一切れはチーズがのびることなくプチッと切れた。

「もしかして猫舌だった?」

「そうでもないけど」

 味なんか分からない。

 オレは自分の分を口に押し込んでさっさと平らげた。

 彼女が店員さんを呼んだ。

「すみません、ジェラートお願いします」

「はい、どれになさいますか?」と、デザートメニューが差し出された。

 オレは口元に手を当てて即答した。

「オレはピスタチオで」

「えぇ……」

 迷わず注文したつもりだけど、彼女が不満そうに口をとがらせている。

「じゃあ、あたしも同じで」

 ――あれ?

 何かまずかったか?

 店員さんがメニューとピザの皿を下げてカウンターに戻ると、彼女がオレに顔を寄せてつぶやいた。

「別の味だったら、アーンってしてあげられたのにね」

 なんだそういうことか。

 だけど、そんなの無理だって。

 まあ、からかってるのは分かるんだけど、タイムサービスに群がるオバチャンじゃあるまいし、非モテ男子の初デートに、いろんなことを詰め込みすぎだよ。

 ジェラートが来るまで、なんとなく気まずい雰囲気で会話はなかった。

 何か話そうとすればするほど話題が思いつかない。

 そもそも気の利いた会話の在庫なんて、まったく持ち合わせがない。

 オレはグラスの水に口をつけて窓の外を見ていた。

 雨は完全にやんで、ターミナル駅方向の空が青く輝いていた。

 すっかり氷の溶けた水を飲み干した時、ようやくジェラートがやってきた。

 白いカップにサグラダファミリアのような塔が三つそびえ立っている。

 緑が濃いものと、茶色がかったもの、そして、その中間の三つだ。

「わあ、すごいね」と、彼女が胸の前で指先を合わせるように手をたたく。

 店員さんが交互にオレたちを見て説明してくれた。

「こちらはすべてピスタチオですけども、それぞれ、味が異なるので、違いをお楽しみください」

 早速スプーンを持って、オレは緑色の塔の先端を崩した。

 緑色のジェラートを口に含むと、クリーム感よりも先にナッツの香りが爽やかに広がる。

 彼女が言っていたとおり、これは当たりだ。

「うふふ」と、遅れてスプーンを握った彼女が微笑む。「ホント、迷わないね。あたしはどれから行こうかな」

 オレは次に茶色がかった方を試してみた。

 こちらはさらに味が濃く、クラッシュしたピスタチオの粒も混ざっていて食感が楽しい。

 中間のものは意外とクリーミーな味わいで、どれもおいしかった。

 気づいた時にはオレは完食していた。

「ねえ、ちょっと、速くない?」と、まだ三つをそれぞれ一口ずつ味わっただけの彼女が口を押さえて笑う。「ちゃんと味わって食べた?」

「おいしかったよ。溶ける前に食べないとさ」

 実際、彼女のサグラダファミリアは溶けたジェラートが流れ始めている。

「おっとっと」と、それをすくって彼女がオレにスプーンを突き出した。「はい、アーン」

 急に何やってんの。

 非モテ男子の初デートに次々とハードルを設定するのは止めてほしい。

 思わずオレは店内を見回してみたけど、さっきから他にお客さんはいないし、店員さんもカウンターの奥に引っ込んでいて、人の目はない。

 窓の外を尻尾を立てた猫がこちらに注目することなく優雅に通り過ぎていくだけだ。

「いいじゃん。罰ゲームやるって約束でしょ。あたしだって照れくさいんだから」

 なんだよ、急に都合のいい理由を持ち出して……。

 罰ゲームって、そっちに不利とか恥ずかしいことをするもんだろ。

 これじゃあ、オレの方が罰ゲームじゃないかよ。

 オレはそんな約束をしたことを後悔していた。

「同じ物頼んだから、同じ味だって」と、ささやかな抵抗を試みる。

「全然違うよ」

 違うわけないだろ。

「いいから、試してみなよ。溶けちゃう」

 ていうか、溶けてたやつをすくってたじゃん。

 ――なんて、つっこめるかよ。

 しょうがないな。

 こぼさないように大きく口を開けてパクリとくわえる。

 やっぱり同じ味だ。

 アハハ、と彼女は大喜びだ。

「カバさんみたいでかわいいよ」

 冷たいジェラートを食べたのに、顔が熱くなる。

 こっちのやつだけお酒が入ってたなんてことはないよな。

「じゃあ、今度は目を閉じてみて」

 はあ?

「なんで!?」

「いいから」と、オレの目をまっすぐに見つめる。「何味か当ててよ」

 明るくなった外の光を受けて瞳がきらめいている。

 オレは思わず目をそらしてしまった。

「全部ピスタチオ味だろうよ」

「だから、三つのうち、どれか当ててよ」

 まったく、しょうがないな。

 さっさと終わらせないと、いつまでもからかわれるんだろう。

 オレはおとなしく目を閉じた。

 まぶたに白い光の影がぼんやりと浮かぶ。

 どれにしようかな、と彼女のつぶやきが聞こえてくる。

 早くしてくれよ、どれでもいいから。

「よし、決めた。えへへ、覚悟してね」

 どれを選んだってピスタチオじゃないかよ。

 熱々の小籠包だったらびっくりだけどな。

 オレはカバのように口を開けた。

 と、いつ来るのかと待っているのに、なかなかスプーンの感触がない。

 なんだよ。

 何を焦らそうとしてるんだよ。

 そうやって、不安をあおろうというのか。

 バラエティ番組のお約束じゃないんだからさ。

 あんまり口を開けているとよだれが垂れそうで、いったん口を閉じた。

 ――と、その時だった。

 オレの唇に柔らかな、いや、弾力のある、いや、しっかりとした、でも、しっとりとしていてぬくもりのある何かが触れた。

 それは全く未知の感触だった。

 スプーンでもジェラートでもない、全く予想もしなかった何かだった。

 もちろん……小籠包なんかあるわけないし、けど……なんだかふっくらとしている。

 オレは目を開けることができなかった。

 それが何であるのかを確かめることはできなかった。

 でもそれは確かに違う味だった。

 どれだけの時間が過ぎたのか分からない。

 ほんの一瞬だったのかすら分からない。

 彼女の震える声がオレの耳に届いた。

「ごめんね」

 ――え?

 何が?

 目を開けると、そこにはまぶしい世界が広がっていた。

 窓の外には、天高く虹が伸びている。

 空の広さを見せつけるかのように、窓枠で切り取られたその円弧はくっきりと垂直に立ち上がっていた。

「キミはもう魔法使いにはなれないよ」

 彼女の目から涙が一粒こぼれ落ちた。

 窓から差し込む日差しがそれを宝石のように輝かせる。

 なぜだろう。

 頬を伝って流れるその涙の行く末は世界の終わりのように思えた。

 その涙を受け止めなくちゃ、と手を差し伸べようとした瞬間、もうその滴はぽたりとテーブルの上に落ちていった。

 それからのことはあまりよく覚えていない。

 店を出て、オレたちはターミナル駅へ向かい、そこから下り線の電車で帰ってきた。

 いつもは立っているけど、オレはドア脇の席に彼女と並んで座った。

 電車が発車して少し揺れたかなと思ったら、一駅も進まないうちに彼女がオレの肩にもたれかかって眠ってしまった。

 その肩にかかる重みが確かなもので安心した。

 まるであの日もらったハートのエースのように存在感があって、オレもいつの間にか眠ってしまっていた。

 カン、カン、カン……、ンゴン、ゴン、ゴン。

 ドップラー効果で切り替わる踏切の警報音で目が覚めた時、電車はオレたちの高校の駅を過ぎていた。

 オレの駅まで残り一駅三分間。

「夢じゃないよ」と、彼女がオレの肩から頭を上げた。

 ああ、そうだな。

 離れたことで改めて感じた確かな頭の重み。

 肩で感じたぬくもり。

 オレの頬をくすぐる彼女のゆるふわ髪。

 それは確かに夢じゃない。

 魔法だ。

 この世は魔法で満ちているんだ。

 電車がカーブにさしかかって背中から光が差し込んできた。

 振り向いた彼女が目を細めながらオレにたずねた。

「虹はどうして出るんだと思う?」

「魔法で?」と、オレはけっこう真面目に答えたつもりだった。

「ううん」と、彼女の頬にえくぼができる。「水と光と見る人の位置関係で決まる科学的現象」

 ――あ、ああ。

 まあ、知ってたけどね。

「この世には魔法なんかなくてもきれいなものがいっぱいあるんだよ」

 それも知っている。

 だけど、魔法はある。

 キミがそう言っていたじゃないか。

 だからオレは信じたんだ。

 そして、オレは知っている。

 この世で一番美しい魔法がキミ自身だって事も。

 踏切の警報音が聞こえてくる。

 あっという間の一駅三分間だった。

 今日の三分間は魔法の時間ではなかったようだ。

「結局、試験勉強しなかったね」と、彼女がクスリと笑う。

「あ、そうだった」

 急に現実に引き戻されて、オレは思わず腰を浮かしてしまった。

 まあ、家に着いたら、少しくらい復習すればいいか。

 最初からその程度のつもりだったんだし。

 電車がホームに滑り込んで停車する。

 彼女も立ち上がろうとするので、オレは手でそれを止めた。

「いいよ、歩いて疲れただろ。座っててよ。だけど、寝過ごさないようにね」

「えへへ」と、照れくさそうに彼女がゆるふわ髪を揺らす。「優しいね」

 じゃあね、とお互いに手を振りあって電車を降りた。

 背中でドアが閉まる。

 振り返ったときにはもう電車が発車していた。

 胸ポケットから交通カードを取り出して改札口にタッチする。

 今日はハートのエースは入っていなかった。

 ――キミはもう魔法使いにはなれないよ。

 見上げると、あんなにくっきりと伸びやかだった虹は消えていた。

 カタン、カタン、カタン……。

 レールを伝わる電車の音が遠ざかっていく。

 オレは今、どっち側にいるんだろう。

 向こうなのか、こっちなのか。

 虹の消えた空に向かって手を突き出してみても、そこにガラスの天井はなかった。

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