(4-2)


   ◇


 それから二週間ほど、彼女と会う機会はなかった。

 毎日放課後はキョロキョロしながら下校して、駅のホームでは発車寸前の電車から降りて一時間後の各駅停車を待ってみたこともある。

 だが、彼女は現れなかった。

 連絡先を交換しておかなかったことを後悔もしたけど、そもそも名前すら知らない相手だ。

 同じ学年のはずなのに、相変わらず学校では見かけることがないし、男子連中がそれらしい噂話をすることがないのも変だった。

 見つからないのも仕方がないか。

 ――魔法使いなんだもんな。

 そういうときだけ都合の良い言い訳を自分に言い聞かせていた。

 とはいえ、他にオレにできることなど何もなく、ただひたすら待ち続けるしかなかった。

 六月はひどい雨が続いて各地で災害が起きていた。

 この世に魔法があるのなら、そんな災害も回避できるだろうに。

 だけど、魔法にもレベルみたいなのがあるんだろうから、自然みたいな大きなものを相手にするのは難しいのかな。

 ただ、彼女に会った後は二回とも不思議な虹が出ていたんだから、できないわけでもないのかもしれない。

 通過する特急電車が巻き上げる水しぶきにまみれながら、オレは毎日彼女が現れるのを願っていた。

 七月に入って、梅雨前線も移動を始めた頃、期末試験が始まった。

 この高校に来て最初の試験では、いきなり下から数えた方が早い順位という厳しい現実を突きつけられていた。

 もともと勉強には向かない頭だ。

 今回の試験で挽回しようなどという気持ちは全くない。

 中学の時のオレは自分なりに必死になって平均よりも少し上くらいの成績を取っていた。

 心のどこかで、あいつの――優秀だった弟の――代わりに頑張らなければという思いがあったのかもしれない。

 とはいえ、頑張ってその程度なんだから、結局、元のデキが違いすぎるのを痛感させられただけだった。

 周囲からの落胆の視線。

『ムリムリ』

『おまえはあいつじゃないし』

『身の程をわきまえろ』

 ――分かってるって。

 出しゃばれば恥をかくだけだ。

 努力したあげくの結果に打ちのめされた今のオレに、やる気などかけらも残っていない。

 もはや誰からも期待されていないのに、自分に期待して何になる。

 赤点でなければ満足だし、とりあえず卒業できればそれでいい。

 べつにもう、誰かと比べられることもないんだし。

 オレはオレでいいだろ。

 試験期間中は午前中で終わりだから、みんなはショッピングモールのフードコートで昼食兼勉強会などというリア充行事に熱心で、そんなものに無縁のオレはいつものとおり駅へ直行して各駅停車を待っていた。

 昼の時間帯も特急の通過待ちで三分間停車する。

 いつもは車内の方を向いているけど、彼女が来るかもしれないからホームの方を見ていた。

 この前みたいに後ろから背中をたたかれて変な声が出ないように。

 その日は六月に戻ったかのように弱い雨がだらだらと降っていた。

 相変わらずオレは汗びっしょりで、家から持ってきていたタオルはすでに雑巾のような臭いを放っていた。

 今日も会えそうにないな。

 彼女のことを考えながら、通過していく特急電車をぼんやりと見送っていた時だった。

「お待たせ」と、後ろから両肩をがっちりとつかまれた。

「うわっ。びっくりした!」と、思わずホームに転げ出るほど飛び跳ねてしまった。

 そんなオレを見て彼女も目を丸くしている。

「そんなに驚かないでよ」

「なんで後ろから」と、オレはまた電車に乗り込んだ。

「反対側の階段から下りちゃってさ。車両の中を探しながら来たの」

 橋上駅舎からホームに下りる階段は八の字に別れていて、わざわざ遠回りしてきたというのだ。

 なんでわざわざそんなことするんだよ。

「驚かす気満々じゃん」

「そんなことないよ」

「いつもこのドアのところで会ってたんだから、こっちの階段から降りてくるはずだろ」

「鋭いね」と、彼女がオレの鼻を指さす。「ポワロかよ」

 今日はホームズじゃないんだな。

 明日のオレは明智か金田一かもしれない。

「ていうか、ずっとあたしが来るのを今か今かと待ち構えていてくれたの?」

 オレは彼女の目を見つめて強くうなずいた。

「会いたかったから」

 正直な答えをぶつけると、照れくさそうに視線をそらしながら彼女が真っ赤な耳にゆるふわ髪をかける。

「デートの約束をした時から、またいつ会えるかって、ずっと楽しみにしてた。こんなに次の日が来るのを楽しみにしてたのは初めてだったし、会えなかった日が続いてとても寂しかった」

 飾る必要なんかない。

 素直な気持ちをただ言葉にすればいいだけだ。

 二週間ずっと予行練習していたようなものだからか、不思議と心は落ち着いている。

 彼女になら、気持ちをそのまま伝えることができる。

 こんな相手に出会ったのは初めてだった。

 だから、オレは……。

 キミを失いたくないんだ。

「えへへ、そんなに楽しみにしてくれてたんだ」

 オレはまた強くはっきりとうなずいた。

「じゃあさ、さっきのやり直そうか?」と、彼女が上目遣いにオレを見る。「今度はちゃんとこっちの階段駆け下りてくるの。最後の一段は両足そろえてトンって飛ばないとね。スカートふわっとかなっちゃって。で、『お待たせ』って、手を振るの」

 うん、いいね。

 完璧な演出だ。

 でも、さすがにやり直せなんて言えないよ。

 もうすぐ発車しちゃうし。

「そこまでしてくれなくてもいいよ。来てくれただけでも奇跡みたいなもんだからね」

「えへへ。ずるいよ、そういうこと言うの」

 オレも正直だったからか、彼女も素直に喜んでくれているようだった。

 ――良かった。

 会えて、本当に良かったよ。

 発車のアナウンスが終わって、ドアが閉まろうとしたその瞬間だった。

 彼女がいきなりオレの腕を引っ張って電車を降りた。

 ――ちょ、え!?

 はあ?

 何やってんの?

 ぷしゅう、と背中で虚しい音がしてドアが閉まり、電車がゆっくりと動き出す。

「急にどうしたの?」

「だって、デートするんでしょ?」

 ああ、まあね。

「たまにはさ、反対方向の電車に乗ってみようよ」

 彼女の提案は普段だったらなかなかいいと思うんだが、今はテスト期間中だ。

「せっかくだからさ、お昼も一緒に食べようよ。ついでに勉強もできるし」

 それじゃ、完全にリア充デートじゃないかって……それを誘ったのはオレなのか。

 地味な石碑探しのつもりだったのが、キャッキャウフフの陽キャイベントになってしまうとは。

 やばいな。

 心の準備がまるでできていない。

 アドリブになんか対応できるわけがない。

 ガチガチに予行練習を重ねたことが裏目に出てしまった。

 彼女の方から積極的に動こうとしてくれているのに、慣れないオレの方はさすがにいきなりすぎて体も気持ちもついていけない。

「ほら、もたもたしてたら、あっちの電車来ちゃうよ」と、彼女が対面のホームを指さす。

 どうする、オレ?

 手の内にジョーカーなんてないのに大勝負に出るしかないのか。

「もう、早く」

 焦れた彼女がオレの手を取って引っ張る。

 しかたなくオレは市場へ連れていかれる子羊のように階段を上がって上り線のホームに向かった。

 上りの電車はもうすぐ到着するようだった。

「ねえ、どこに行く?」と、ホームに降り立って彼女がオレの手を離した。「おすすめは?」

 もちろんオレは上り方面にも何度も行ったことはある。

 でも、行き当たりばったりの旅におすすめなんかない。

 都合良くダーツかなんかないかな。

「じゃあさ、トランプで決めようよ」

 彼女はカバンからトランプを取り出し、鮮やかな手つきでカードを扇の形に広げた。

 なんでこんなの持ってきてるんだよ。

 テスト期間だっていうのに。

「キミが引いてよ」

「オレが?」

「だって、あたし、ハートのエースしか引けないから。一駅で終了じゃん」

 ああ、そういう設定だっけか。

 なんかもう、いちいち反論しなくなったな、オレも。

「じゃあ、これ」と、オレは目をつぶって、適当に選んだ。

 目を開けると、それはスペードの3だった。

「じゃあ、ここから三駅目で降りることに決定!」と、彼女が陽気に拳を突き上げる。

 イェーイと、オレも仕方なく肩のあたりまでおずおずと手を挙げた。

「ノリが悪いなあ」と、苦笑しながら彼女がカードを鞄にしまった。

 上り線の電車がホームに入ってくるとアナウンスがあって、ホームに人が増えてきた。

 オレたちの高校の制服を着た連中も多い。

 美女と非モテ男子の異色な組み合わせにみな好奇心を隠さない。

 どうだ、うらやましいだろう、なんて開き直る勇気はオレにはない。

 無駄な努力とは分かっていつつも、ほんの一歩だけ間合いを取って無関係を装う。

 彼女は右足を軸にして左足を前後に揺らし、手を後ろに回して鞄を支えながら電車の来る方向を眺めている。

 オレはその後ろ姿を眺めながら、ふと、胸ポケットに手を入れてみた。

 交通カードしか入っていない。

 どうやら今日は何も仕込んでいないようだ。

 くるりと彼女がターンする。

「えへへ、楽しみだね」

 ――あ、ああ。

 不意打ちに、声がかすれて返事ができない。

 オレは彼女を楽しませることができるんだろうか。

 カノジョどころか友達と一緒に出かけたことすらないオレだ。

 緊張でどんどん顔がこわばっていく。

 人目を気にしたのがいけなかったのか、さっきまでの自信はどこかへ吹き飛んでいた。

 そんなオレの顔を首をかしげながら彼女がのぞき込む。

 勘弁してくれよ。

 そんなふうにされると、ますますうまくしゃべれなくなるじゃないかよ。

 気がつくと、オレはまた汗まみれだった。

 電車が入線してきてぐしょぐしょのシャツが風をはらんでふくらむ。

「はい、タオル」と、彼女がオレの頭にかぶせる。

「あ、ああ」

 開いたドアから他の学校の高校生が押し出されてくる。

 どこも試験日程が似ていて、早帰りなんだろう。

 見かけない美人だと思っているのか、そいつらが彼女に遠慮のない視線を送りながら階段を上がっていく。

 と、そんなまわりの視線を気にしながらオレも電車に乗り込んだところで、なんだかカレシ気取りじゃないかと、自分が恥ずかしくなってしまった。

 ただ単に、放課後勉強会をするだけだって。

 ちょっとメシ食って、散歩するだけなんですよ。

 デートなんかじゃないですから。

 ――そういうのをデートって言うんだろうが。

 しかも、そもそも誘ったのおまえだろうに。

 まわりの人達に向けてというより、自分自身に対して、オレは必死に言い訳とツッコミを繰り返していた。

 ドアが閉まって電車が動き出す。

 いつもと逆方向の電車は新鮮とはいえ、慣れない景色が不安をあおる。

 下り線のホームではさんざん話してきたのに、こっち側だと喉をふさがれたみたいにしゃべれなくなって、なんとか絞りだそうとしても声が裏返りそうになる。

「今めちゃくちゃ緊張してるでしょ」と、彼女がえくぼを作る。「そんなに気をつかわなくても平気だよ」

 どうして分かる?

「だって、滝みたいだもん。ナイアガラ?」

 ――あ、汗!?

 借りたタオルもぐっちょぐちょだ。

「べつにさ、無理にしゃべろうとしなくてもいいから。電車に揺られてガタンゴトンって音を聞いてるだけでも楽しいでしょ」

 そう言ってくれるのはありがたいけど、音に耳を澄ませる余裕すらない。

 オレは今さらながら、自分を指さして名乗った。

「オレ、カイト」

「知ってる」と、彼女からの返事は一言だけだった。

 あ……ええと……。

 キミの名前を聞きたかったんだけどな。

 ていうか、なんでオレの名前を知ってるんだ?

 ――魔法使いだから?

 彼女はずっと窓の外へ視線を向けていて、それ以上の質問を拒んでいるように見えた。

 気をつかわなくていいと言われていたのに、自分から気まずくしてしまう。

 非モテ男子あるあるだな。

 まあ、オレはオレだ。

 格好良くオシャレになんてできるわけがない。

 自分でまいた気まずさの種を刈り取る前に、電車は新興住宅地の反対側にある駅へ到着した。

 何人かの高校生が降りて車内の密度に余裕ができる。

 でも、オレたちの距離感は変わらなかった。

 電車はすぐに発車して国道下の半地下立体交差をくぐり抜けると、今度は潜水艦が浮かぶようにゆるい坂を上がって地上に出た。

 一気に都会の風景に変わり、古い雑居ビルが並ぶ繁華街が見えてきたところで電車は減速した。

 雨の匂いに混じってどこからかラーメンスープの熱気が漂ってくる駅で停車し、すぐに発車する。

 次が約束の三つ目だ。

「なんかお腹空いちゃったね」と、彼女が通り過ぎる街中華の看板を見つめながらつぶやいた。

「何食べるの?」

「何があると思う?」と、質問が返ってきた。

 オレにも分からない。

「何かあったかな」

 一度降りたことはある駅だけど、小学生の時だ。

 どんなところだったか覚えていない。

 コンビニくらいしかないような駅だった気がする。

 そういう悪い予感は当たるものだ。

 三つ目に停車したのは、再開発から取り残された都会の落とし穴みたいな駅だった。

 ホームに降り立ったのはオレたち二人だけ。

 次の駅がターミナル駅だからわざわざここを利用する人はいないんだろう。

 鳩の糞で汚れた狭い階段は屋根の境目から雨漏りしていて、足元注意の注意書きが書いてあるけど、昼でも暗くて足を踏み外しそうになる。

 橋上駅舎の改札口には事務所はあっても駅員の姿はなかった。

 オレが胸ポケットから交通カードを取り出そうと立ち止まると、後ろについてきた彼女がオレの背中に突っ込んできた。

「あ、ごめん」

「お先にどうぞ」と譲ると、彼女はカードを手にして改札機にタッチした。

 おい、ちょっと、それ……。

 ハートのエースじゃん。

 なのに、改札機はちゃんと反応してゲートが開く。

 ウソだろ!?

「それも魔法?」

「えへへ、簡単なトリックです」と、華麗なターンを決めると、えくぼを作ってしてやったりの顔をオレに向ける。「交通カードにハートのエースを重ねてただけだよ」

 本当に単純すぎてかえって驚いてしまった。

「なんだ、見事にだまされたよ」

 あまりにも手際が良くて、重ねていた交通カードをしまうところすら見えなかったし。

 ていうか、また手品のネタばらししちゃってるし。

 魔法使いっていう設定、完全に忘れてるな。

 でもまあ、そうやってオレの緊張をほぐそうとしてくれているのかもしれない。

 その厚意に素直に甘える余裕はないけれど、少しは緊張がほぐれたような気がする。

 ところが、階段を下りて駅前に出たとたん、非モテ男子最大の試練が待ち受けていた。

「あたしも傘に入れてよ」

 はあ?

「歩きにくいから自分の使いなよ」

「持ってない」

「そんなはずないじゃん」

「なんで?」

「朝からずっと雨降ってたんだから」

「えっとね……」と、急にもじもじし始める。「なくなっちゃったの」

 誰かに盗まれたとか?

 それにしたって学校から駅までで相当濡れたはずだよな。

 今度は、魔法使いだからとかってごまかすつもりなのか。

 とはいえ、今のオレたちにとって大切なのは相手を問い詰めて論破することではない。

 彼女の肩に掛かるその鞄の中に折りたたみ傘が入っているかどうかなんて、どうでもいいんだ。

 要するに、彼女はオレに覚悟を決めろと言っているわけだ。

 オレは自分の傘を広げて、彼女に差しかけた。

「入りなよ」

「ありがとう」と、彼女がオレに寄り添う。「でも、やっぱり照れるね」

 自分から言っておいて、それかよ。

 オレなんか心臓が破裂しそうだよ。

『【悲報】非モテ高校生男子心臓発作で死亡。原因は相合い傘か』

 どうもオレはろくなニュースにならない運命らしい。

 幸い、オレの傘は大きめで深く被さるデザインで、ボッチのくせに二人で入るのに都合が良かった。

 なんでそんな傘なのかって?

 体の大きかった弟のお下がりだからだ。

「で、まずはどこに行くの?」と、彼女がオレを見上げる。

 いや、それはオレが聞きたいよ。

 何か食べられるようなお店もなさそうだし。

「適当だよ。石碑とかは、あくまでも結果で、べつに何もなくていいのが散歩なんだから」

「でも、どっちか選ばなくちゃ」と、彼女は指を振って左右を交互にさした。

「キミが決めなよ」

「じゃあ、またカードで」と、トランプをオレに差し出す。「赤なら右、黒なら左」

「だから、キミが選びなよ」

「あたしが引くと、絶対右になるよ」

 ああ、そうか。

 ハートのエースしか引けないんだっけ。

 つまり赤しか出ないってことか。

「ちょっと貸してみてよ」と、オレは傘とカードを交換してもらい、よくシャッフルしてから両手で差し出した。

「選んでみて」

「いいけど」と、彼女はためらいもなく、不格好な扇形から一枚を指さした。「これね」

 まあ、これで魔法使いの設定も気にしなくて良くなるだろう。

 と、そのカードを表にしたオレは思わず息をのんだ。

 それは間違いなくハートのエースだった。

 ――ウソだろ!?

 まさか、他のカードも全部ハートのエースとかって、ありがちな仕掛けトランプじゃないよな。

 表に返してみたら、もちろん、ちゃんとしたセットだった。

「なんで?」

「だから、そういう魔法なんだってば」

「もう一回」と、オレは彼女に背を向けてトランプをシャッフルした。

 向き直って扇形に広げたカードを差し出す。

「じゃあ、これ」と、やっぱり無造作に彼女は一枚指さした。

 結果は同じだった。

 ハートのエースだ。

 何か模様に判別できるような仕掛けでもあるのか?

「タネなんかないよ」と、彼女は苦笑しながらトランプを受け取ってシャッフルした。「手で隠して、上から何枚目ってやってもハートのエースになるし」

 本当かよ。

「じゃあ、もう一度貸してよ。やってみるから」

 オレは彼女からまたカードを受け取ると、しっかりシャッフルしてサンドイッチのように両手で挟み、ちゃんと全体が隠れていることを確認しながら突き出した。

「上から何枚目?」

「十七枚目」

 一枚ずつカードを彼女にわたしながら、十七枚目まで数える。

 表にしたカードはやっぱりハートのエースだった。

 もう、あきれるしかない。

「どういうこと?」

「だから、魔法だってば」

 こうなっては信じるしかなかった。

 手品かもしれないけど、オレにトリックを見抜くことなど不可能だ。

 それはもはや魔法と同じだろう。

 あまりの鮮やかさにぼんやりしていた意識が雨の音に呼び戻される。

「じゃあ、赤だから右に行こうか」と、オレは少し先にある民家の屋根の上に顔を出すクスノキをさした。「街なかに大きな木があるところは、たいていお寺か神社だから、何かあると思うよ」

「へえ、さすがプロだね」

 キミの魔法ほどじゃないけどね。

 と、歩き出してみたものの、駅周辺は道が込み入った古い住宅が延々と続くばかりで、本当に何もなかった。

 玄関先の植木鉢も茶色い紫陽花が雨に打たれているだけだし、猫でも出てきてくれたら間を持たせることもできるのに、さすがのオレでも驚くほど何もない街だった。

 二人で一つの傘に入って歩く緊張感で相手の気持ちに配慮する余裕すらない。

 せめて彼女の肩が濡れないように、傘を傾けるのが精一杯だった。

 崩れ落ちる乾いた蟻地獄に抗うような足取りでオレは雨の中を歩き続けた。

 高校生がデートで歩くような所じゃないよな。

 そもそもデートというより、罰ゲームだ。

 一言も会話を交わすこともないままオレたちは最初に見当をつけていた木立のある場所に着いた。

 予想通り、そこは神社だった。

 とはいえ、住宅の隙間みたいな敷地に、割り箸みたいな材木を組み合わせた赤い鳥居と色あせた小さな祠があるだけの神社だ。

 それでも鳥居をくぐると、参道の脇に由緒書きの立て札があって、その隣に、ずんぐりとした岩が置かれていた。

 ふう、と思わず安堵の息がこぼれる。

 何もなくて、まだこれ以上探さなければならなかったら、オレは彼女に傘を預けて逃げ出していただろう。

 泥まみれで文字の判別もしにくいほど汚い岩だけど、今のオレにとってはお宝のように輝いて見えた。

「これは何の石碑?」

 隣に文字の薄くなった案内板が立っている。

「宝暦三年だから江戸時代の中頃だね。相撲好きの殿様に呼ばれた江戸の力士がそのまま住み着いて、ここで亡くなったんだって」

「へえ、そうなんだ」と、彼女の反応の薄さは予想通りだった。「有名な人?」

「大関だから、一番強かったんじゃないかな」

「横綱じゃないの?」

「江戸時代までは横綱っていうのは今みたいな最上位の階級ではなかったらしいよ」

 ――知らんけど。

「へえ、そっちの方が『へえ』だね」

 歴史よりもウンチクの方が食いつきがいい。

 彼女が腕組みをして首をかしげた。

「でもまあ、正直地味だよね。見た目はただの石だし。百人中、百人がスルーだろうね」

 まさに正直な感想ありがとうございます。

「まあね」と、オレもうなずくしかない。「地元の人も知らないだろうし」

「でもさ、たまに、キミみたいな人が見に来るから、あわててまわしとか締め直してるかもよ。『ちょ、ちょ、チョッと待って』とかってね」

「べつに普段お相撲さんが裸でいるわけじゃないだろ」

「誰も来ないんだから、絶対気ぃ抜いてるって。女子だって『すっぴん見せられないから』とか、顔隠して逃げたりさ」

 自分で言って自分でウケている。

 彼女がすっぴんなのかどうかはオレには分からない。

 ただ、眉毛が整っているのと、唇につやがあることだけは分かる。

 じっと見つめていたら、彼女は頬を赤らめてうつむいてしまった。

 目の前の石碑にオレもまた視線をそらした。

 オレにとって石碑はただの石碑で、そんな余計なストーリーを想像したこともなかったけど、なんか彼女の方が単なる遠い昔の話としてではなく、生きていた人の存在感を正面から感じ取っているような気がした。

 今までいろんなところを歩き回っていたけど、そんな楽しみ方があるとは考えもしなかった。

 それもまた、彼女らしいなと思った。

 と、彼女が急に顔を上げた。

「ねえ、あたしさ、普段どんな格好してると思う?」

 裸の話なんか出たから、急に連想が働いたらしい。

「今みたいな格好?」と、オレははぐらかした。

「学校じゃなくてさ、プライベートな時間」

「プ、プライ……ベート」

 しどろもどろになるオレの表情を楽しんでいやがる。

「分かんないよ。正解は?」

「Tシャツとハーフパンツかな。冬はジャージとか」

「普通だね」

「うん。そりゃそうだよ。全裸族じゃないから。期待しちゃった?」

「したよ、した、した。チョーした」

 開き直ったのがウケたらしい。

 彼女も体をよじりながらオレの背中を手のひらでドンとたたいて笑っていた。

 でもさ……。

 魔法使いの彼女でも気づかなかったらしい。

 ――本当に期待したんだよ。

 気づかれなくて良かったけどさ。

 今度はオレの方が話を変えた。

「そういえばさ、地味って言ったら罰ゲームじゃなかったっけ?」

「あたし、言った?」

「言ったじゃん。地味だよねって。ただの石ころだし、百人中百人がスルーだって」

 あはは、と鼻の頭をかきながら視線を空に逃がす。

「ちょっと待ってよ」

「うやむやにして逃げ切ろうとか?」

「そんなことないよ。ここじゃできないってこと。じゃあさ」と、彼女が小指を突き出した。「指切りしよう。あとでちゃんとやるって約束するから」

 べつにそこまでしなくてもいいのに。

 ためらいがちに差し出すオレの手を、小指のカギでひったくるようにして彼女が腕を振る。

「指切りげんまん……」

 なんだか急に照れくさくなってしまった。

 逆にオレの方が罰ゲームを受けているみたいだ。

 まあ、このデート自体がさっきから罰ゲームの連続みたいなものだけどな。

「……のーますっと。これでいいでしょ」

「あ、ああ」

「何よ、反応薄いな」

 どう受け止めても怒らせてしまう。

 しかも、オレの手の内には、ジョーカーも何も、もう残っていない。

「次はどうする?」

「何か食べようよ」

 そうだな。

 もうとっくにお昼時を過ぎている。

 でも、このあたりにレストランやカフェなんかなさそうだ。

 何を食おうかぶつぶつ言いながら店を探し歩く中年オヤジでも腹が減りすぎて途方に暮れてしまいそうな住宅地だ。

 とりあえず、大通りに出てファミレスでもあればラッキーってところだろう。

 オレは自分の勘を信じて歩き出した。

 彼女はおとなしくついてくる。

「退屈で悪いね」

「そんなことないよ」と、彼女は明るい声で答えてくれた。「こういうの珍しくて、ただ歩いてるだけで楽しいよ。あ、べつに、地味って言ったら罰ゲームになるからってわけじゃないからね」

 気をつかってくれているんだろうけど、むしろ、本音を言ってくれた方が気が楽かも知れない。

「そっちこそ、気をつかわせちゃってごめんね」と、彼女がつぶやく。「でも、本当に楽しいんだよ。べつに、おしゃれなお店巡りとか、そういうのがいいってわけでもないからね」

 そして、カバンから新しいタオルを取り出してオレの頭にかけた。

「そんなに緊張しないでよ。拭いて」

「なんで二枚も持ってきてるの?」

「用意がいいでしょ」と、得意げに鼻先が上がる。

「傘はないくせに」

「えへへ」と、鼻の頭を指でこする。「でも、用意がいいでしょ」

 ああ、まあ、そうとも言えるのか。

 まったく、どうやっても彼女にはかなわないんだろうな、オレは。

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