第4章 デート(4-1)

 午後の授業中ずっと降り続いていた雨が上がった放課後、グラウンドはぬかるんでいて、足跡にできた無数の水たまりが魚のうろこのように輝いていた。

 オレはショッピングモールを回りこんで駅へ向かった。

 今日は余裕で間に合って、ホームに降り立った頃に、各駅停車が入線してきた。

 オレはいつも通り階段から三つ目のドアから乗り込み、外に背を向けながらドア脇に立つ。

 反対側のドアどころか、座っている乗客すら全然いなかった。

 がらんとした車内を見通してみても、別の車両にもいそうな気配はなかった。

 とりあえずオレにできることは、居場所を変えずに偶然の出会いに期待することだけだった。

 特急電車が通過して、オレの湿ったシャツの背中が一瞬、風船のように膨らむ。

 と、その時だった。

「お待たせ」と、誰かがオレの背中を両手でドンと押した。

「うわぉ!」

 思いっきり叫んでしまったオレの顔を、トンと両足をそろえて電車に乗り込んできたいたずらっ子が横からのぞき込んでいた。

 完璧なはずの非モテバリアをあっさり破ってくる距離感に戸惑う。

「そんなに驚いた?」

 ゆるふわ女子の屈託のない笑顔に見つめられた経験などないオレは、怒るどころか、手すりに一体化したように固まってしまって返事すらできなかった。

「なによ。あたしのこと忘れちゃってたの?」

 いや、忘れたことなどない。

 会いたくて会いたくてキミのことばかり考えていたよ。

 ――魔法をかけたのはキミだろ。

 だけど、その言葉が出ない。

 彼女がわざとらしく口をとがらせる。

「じゃあ、いいよ。別の電車で帰るから」

 それは怒っているのではなく、困惑している俺をからかっている口調だった。

 緊張をほぐすためにあえてそんな態度を取ってくれていることはオレにも伝わった。

 オレの心を読み取ってくれているんだから、隠すこともないし、素直になればいいんだ。

 ほんの一瞬だけ、気恥ずかしさに言葉を飲み込みそうになったけど、オレは応援団のエールのように声を張って答えた。

「いや、会いたいと思ってました。来てくれないかなって毎日願ってました」

 言えたよ。

 偉いぞ、オレ。

 彼女がふわりと髪をかき上げて真っ赤な耳たぶにかける。

「えへへ、正直でよろしい」と、一瞬で機嫌が直った。「そんなあなたには、ハートのエースを差し上げます」

「泉の神様みたいに、金のハート、銀のハートとか?」

「違うよ」と、彼女がオレの胸ポケットをつつく。「あたしのハート」

 はあ?

 オレはそういう甘いトークに気の利いた返しなんかできる男ではない。

「あ、コイツちょっとスベったとか思ってるでしょ?」

「いや、いあいあ」と、オレの方も噛み気味に手を振った。「そもそも金の斧と銀の斧にたとえたのオレだし。スベってるのはオレだよ」

「へえ、気をつかってくれるなんて、優しいんだね」

 ――はあ?

 そんなふうに言われたのは女子に限らず初めてで、オレはまた頭の中が真っ白になってしまっていた。

 ドアが閉まって電車が動き出す。

 今日も三分間、不思議な彼女と二人の時間を過ごせる。

 心臓が破裂しそうなほどに興奮している。

「はい、タオル」と、彼女がまたオレの頭にタオルをかけた。

 この前同様、今回も滝のような汗なのに、言われるまで気がつかなかった。

 相変わらずいい匂いのするふんわりタオルだ。

 オレは遠慮なくその香りを深く吸い込んだ。

 のれんのようにタオルをめくって彼女がオレの顔をのぞき込む。

「ね、新しい手品、見たい?」

 顔が隠れていたので油断していたオレの体内を熱湯のような血液が駆け巡る。

 熱い風呂につかりすぎたみたいに頭に血が上って、胃のあたりが痙攣し始める。

「て、手品って言っちゃってるじゃん」

 かろうじて答えると、彼女は鼻の頭をかきながらえくぼを作る。

「あ、そうだった。魔法ね、魔法」

「どんな?」

「もうかかってるよ」と、彼女がオレの鼻を指でつつく。

 え?

「あたしに夢中でしょ?」

 ああ、そういう魔法か。

 たしかにそうだけど、なんか期待していたことと違ったかな。

「信じてないでしょ?」

「魔法って、物語に出てくるような、指先から炎が出るとか、そういう意味だと思ってたから」

 彼女が人差し指を立てた。

「この世は魔法で満ちている」

 ――だといいね。

 本当に、そうだったら、どんなにいいだろう。

「それにね」と、彼女はまっすぐにオレを見つめた。「人はね、みんな誰でも何かしらの魔法が使えるんだよ」

 さすがにそれはないだろう。

「オレは使えないよ」と、照れくささに耐えられなくてさりげなく視線を外す。

「気づいてないだけかもよ」

 まあ、そんなことはないだろうけどね。

 もしも魔法が使えたら、オレは何をやるだろうか。

 ……いかん。

 なんかエッチなことしか思い浮かばない。

『わいせつ高校生逮捕。本人は魔法使いと主張』

 そんなニュースの見出しが思い浮かぶ。

 人生終了だな。

 なら、魔力なんてやっぱりない方がいいか……。

 あっさり妄想を引っ込めて、オレはふと思い出したことをそのまま話した。

「小学生の頃にサッカーをやってたんだけどさ。本番前の練習試合で、たまたまゴール近くにいたら、ボールが来たんだよ」

「お、チャンスじゃん」と、期待を込めた目で彼女が両手を握りしめる。

「思い切り蹴ったら後ろに飛んだんだ」

「どういうこと?」と、首をかしげながら腕がだらりと下がる。「逆立ちでもしてたの? バイシクルシュートって言うんだっけ」

「オーバーヘッドとも言うけど……って、そうじゃなくて、そもそも普通に蹴ったつもりなのに後ろに飛んだんだって」

「意味分かんないね」

「うん。それでさ、オレの後ろにいた味方の選手に直撃して、痛みで起き上がれなくて本番の試合欠場させちゃった」

 いわゆる男の急所というやつに直撃したわけだが、それは言わないでおいた。

「で、みんなに『おまえ、魔法か』って驚かれた」

「それ違うじゃん。下手なだけじゃん」と、体をよじりながら派手に手をたたく。「当たった人は災難だし」

 そこまではっきり笑われるとむしろすがすがしくてダメージゼロだ。

 と、急に真顔になる。

「ねえ、ちょっと、魔法のこと、やっぱり馬鹿にしてない?」

 頬には小さくえくぼができているけど、どうも内心怒らせてしまったらしい。

「ごめん。そういうつもりじゃなかったんだ」

 彼女が急に顔を寄せてきてささやく。

「あたしがキミに魔法をかけたように、キミもあたしに魔法をかけたんだよ」

 はあ?

「だから会いに来たんだもん」

 なんか、よく分からない話だ。

 伝わらないのは想定内なのか、彼女はオレから間合いを取って向き直ると、話題を戻した。

「サッカーやってたなんて、意外だね。そうは見えないよ」

 さきほどから正直な感想ありがとうございます。

 弟のおまけだったんだから、やらされていたっていうのが本当のところだ。

「向いてないし楽しくないから、すぐやめちゃったけどね」

「正解だね」

 彼女にはっきり言われても不思議と不快な気分にはならない。

 むしろ、『もったいないよ』とか、『続ければ良かったのに』なんて無責任なことを言われるよりよっぽどいい。

 思ったよりも気が合うのかもなんて、好感度は上がる一方だ。

「他になんか趣味あるの?」と、彼女がたずねた。

「お寺とか神社にある石碑の説明を見ることかな」

 女子はこんなのに全然興味ないだろうから、話が弾むことはないだろうけど、オレの趣味なんだからしょうがない。

 べつに飾ってみたところで、本当の姿を受け入れてもらえなかったら意味がないんだし、正直に言っただけだった。

 ところが、彼女の反応は斜め上だった。

「渋い趣味だね。どういうお寺?」

 意外な食いつき方にオレは逆に戸惑っていた。

「適当に電車に乗って、なんとなく降りた駅のまわりを歩くんだ」

「テレビでよくある散歩番組のオジサンみたいだね」

「まあ、そうかもね」

 ようやく想定していた反応が返ってきて、オレはほっとしていた。

 それでいいのだ。

 オレも理解されるとは思っていない。

 趣味なんて個人的なものだ。

 きれいな貝殻を拾うのが好きっていう人もいれば、そこらへんの石ころを集めるのが好きっていう人もいる。

 どっちが素敵とか、そんなことは比べようがない。

 どっちも邪魔だという人もいるだろう。

 そもそもこんなことを始めたのは、弟が活躍するサッカーの試合中、控えメンバーですらなかったオレが一人で競技場の周辺を歩き回っていたのがきっかけだった。

 何か目的があったわけではなく、退屈しのぎのつもりだったのだが、何度も同じところをふらふらしているうちに、いろんな石碑や銅像が建っていることに気づいたのだ。

 初めて県内でマラソン大会が開催された記念碑、青少年の体育教育に尽力した難しい名字のおじさんの胸像、昭和の時代に国体で優勝したチームが植えた木の銘板とか、おそらく作られて以来誰からも見向きもされなかっただろう歴史がそこかしこに転がっているのだった。

 小学生の自分にはまだ読めない漢字が多かったし、べつにその内容自体に興味は全然なかったけど、それを見つけること自体は面白かった。

 他人から相手にされないオレにしてみれば、秘宝を探す孤高の探検家のような気分だったのかもしれない。

 そして、そのうち、弟のサッカーの日にオレは競技場に行かずに、一人だけ別行動であちこち出歩くようになったのだ。

 弟の付き合いでいやいやサッカーを習わされていたオレにとって、それは初めて自分で見つけた趣味だったのだ。

 そんな昔を思い出しているうちに、この話は終わるかと思ったのに、彼女の質問はまだ続いていた。

「でも、いい趣味だね。最近始めたの?」

「いや、小学生の頃からかな。四年生だったっけかな」

「え、その頃からって、親と出かけてたの?」

「いや、一人だけど」

「ホント、すごいね」と、目を丸くした表情もかわいい。「一人で電車に乗って知らないところに行くって、めちゃくちゃ勇気がいるじゃん」

 そうかな。

 オレにとっては当たり前すぎて考えたこともなかった。

「親もよく許可したよね」

「なんで? 反対する理由なんてないじゃん。家出するわけじゃないんだし、電車賃だって、自分の小遣いとかお年玉から出してたし。子供料金だから、少なくて済んだし」

「そういう問題じゃなくてさ、ふつう、子供だけで行動すると大人は心配するじゃん」

 普通と言われても、そういう基準って家庭によるとしか言いようがないから、返事のしようがない。

 うちはうちだった。

 そうとしか言いようがない。

 今さら間違ってましたと認めたところで、今までのことがなかったことになるわけでもない。

 弟の方に気持ちが向いていた親にしてみれば、手のかからないオレは、ある意味良い子だったんじゃないだろうか。

「ちょっとうらやましいんだよね、そういうキミが」

 ――え?

 ああ、趣味の話か。

「地味とか、暗いとかってたいていは引かれるんだけどね」

「そんなことないよ。趣味ってさ、個人的なことだから、他人の趣味が理解できないからって否定するのは良くないと思うんだよね」

 あれ?

 そんなふうに言ってもらえるとは意外だ。

 うれしいと喜ぶほどではないけど、話をすることが気楽になっていた。

「ねえ、今度さ、良かったらあたしも一度連れていってよ」

 はあ?

 やっぱり撤回。

 油断すると一歩どころか懐まで踏み込まれるこの間合いにはやっぱり慣れることなどないみたいだ。

「めちゃくちゃ地味で、つまらないよ」

「いいよ。いつもやってるようにしてよ。絶対に文句とか言わないから。マジで約束するから」

 上目づかいに手を合わせられてしまい、うーん、とオレはうなることしかできなかった。

「じゃあさ、罰ゲーム決めておこうよ」と、彼女が人差し指を立てた。

 はあ?

「つまらないとか、地味とか言っちゃったら、その時はあたしなんでもするよ」

 ――な、なんでも?

 じょ、女子になんでもって……。

 思わず、また健全な思春期男子の本能をかき立てるような変なことを思い浮かべてしまった。

 高校生男子の想像力を総動員し、内に秘めたる衝動を充填した最大級の妄想がオレの体を突き抜けていく。

 こめかみの血管が破裂しそうなほど野性のビートを刻む。

 やばい、また血が上って頭がぼうっとしてしまった。

「あ、あのね、ちょっと違うから」と、慌てて彼女が突き放すように両手をぶんぶん振り回す。「そういう何でもじゃなくて、一発ギャグとか、そういうのだから」

 乱れた髪からはみ出た彼女の耳が明太子みたいにぷっくり真っ赤で、鼻の頭には汗が浮き出ている。

 そんな動揺を見せられると、オレの方もますます鼓動が激しさを増すばかりだった。

「わ、分かってるって。そっちこそ、ち、違うから……。そんなこと考えてねえし」

 ――本当は違わなくないんだけどな。

『そんなこと』なんて言っちゃってる段階で、お察しなわけで。

 二人向かい合って、真っ赤になってもじもじしてるって、それこそなんの罰ゲームだよ。

 でも、こんなに楽しい罰ゲームがあるなんて、今まで知らなかった。

 生まれて初めて、本当に楽しいってことを知った気がした。

 いい香りがオレの鼻をくすぐる。

 気がつくとまた彼女が顔を寄せていた。

 ――え、何?

 触れてもいないのに彼女の体温が感じられる気がした。

「あのね」と、耳元でささやく。「魔法使いはね、そういうことをすると、消えちゃうんだよ」

 へえ、そうなのか。

「魔法が使えなくなるから?」

 真面目に答えたオレの耳元で、彼女が吹き出す。

「違うよ」と、彼女はオレの肩をつついた。「恥ずかしいからでしょ」

 あ、ああ……。

 いや、オレの方が恥ずかしい。

 何を真面目に受け取ってんだろ。

 魔法使いなんて話自体が冗談なのに。

 本人も手品だって言っちゃってるんだし。

 ホント、できることならオレの方が消えてしまいたい。

 彼女も照れくさそうに肩をすぼめてうつむいている。

 カーブにさしかかった電車が減速して揺れる。

 慣性の法則がオレと彼女の距離を急激に縮めた。

 つかまるところがなくてとっさにオレの胸ポケットに手をついた彼女が慌てて飛び退く。

「あ、ごめんね」

「いや、べつに」と、オレの声はかすれ、きしむブレーキの音にかき消されていた。

 足を踏ん張って鞄を肩にかけなおした彼女が話題を戻して話を続けた。

「一人で電車に乗って出かけるなんてすごいじゃん。あたしなんて、高校に入るまで一人で電車に乗ったことなんてなかったよ。しかも、たった駅二つなのに結構緊張したし」

「オレもそんなに遠くまでは行かないよ。子供料金でも小遣いに限りはあるから一時間以上かかるところとかは行ったことないし、中学からは大人料金でお金がなくなっちゃうからね」

「でもすごいよ。あたしの知らない街のこと、いっぱい知ってるんでしょ」

「石碑とか、お金のかからない地味なことばかりだけどね」

「いいじゃん。べつにオシャレカフェとかの方が価値があるってわけでもないんだし」

 思ったよりも理解してくれるせいか、オレは自分から語り始めていた。

「知らない場所に行って、そこをふらふら歩いていると、もしここで生活していたらどうだったんだろうって想像してみるんだ。どんな学校に通うのかとか、スーパーの品揃えとか、公園で遊んでる人たちの様子とか」

「石碑だけじゃなくて、いろんなこといっぱい見てるんじゃん」

「そこで生きていけるなら、今いる場所で苦しかったら逃げれば良いかなって思えるだろ。そんな場所がいくつもあれば、嫌なことがあってもなんとかなりそうだなって」

「そうだね。あたしたちって、自分が生まれ育ったところとか、親元しか知らないもんね。一人で生きていくなんて考えたこともなかったよ。だけど、そういう道もあるって知ってたら、つらいこととか嫌なことから離れることもできるんだよね」

 オレは、ドン引きされる覚悟で話したんだけど、彼女の方がむしろ饒舌になっていた。

 逃げる必要あるのか?

 モテ女子の居場所なんて、いくらでもあるだろうに。

「そんなことないよ」と、また急に心を読み取ったかのように彼女がゆるふわ髪を揺らして微笑む。「あたしだってさ、なんかいつもギリギリの綱渡りをさせられてるような気がするんだよね。『ホラ、わたって見せろよ、できるんだろ、簡単だろ』ってみんなに囃し立てられながら見世物にされてるような感覚」

 オレが感じていることとは立場が全く正反対なのに、なんとなく分かるような気がした。

 期待であれ、軽蔑であれ、視線の痛さは凶器だ。

 すると、彼女が思いがけないことを言い始めた。

「あたしね、人としゃべるのが苦手だから手品を練習したの」

「苦手って、まさか、そんなことないだろ」

 オレの何倍しゃべってると思ってるんだよ。

「間を持たせるのにいいかと思って」

「ていうかさ、また手品って言っちゃったじゃん。魔法はどこいった?」

「アハハ、ホントだ」

 自分で言い出した設定のくせに、すぐに忘れるんだよな。

「それにさ、手品は練習すればうまくなるだろうけど、魔法に練習はいらないだろ」

「どうして?」と、急に真顔になって彼女が首をかしげた。「魔法使いだって、うまいとか下手とか、レベルの差はあるよ」

 はあ、そうなのかな。

 そっちの世界のことはオレには分からない。

 ――って、そっちの世界ってどこだよ?

 他人の前で自分で自分にツッコミを入れるのは恥ずかしい。

「また汗かいてるよ」と、彼女の頬にえくぼが戻ってきた。

 オレの頭をゴシゴシとタオルでこすりながら彼女がつぶやく。

「気づいてないかもしれないけど、あたしの姿が見えるキミは、魔法使いなんだよ」

 オレが?

 まさか。

 それに、オレは魔法使いになんかなりたくない。

 ――だって……。

 不意に、踏切の警報音が耳に飛び込んできた。

 ドップラー効果で音が切り替わると、電車が駅に滑り込んだ。

 今日もずいぶんいろんな話をしたな。

 だけど、まだ大事なことを言っていない。

 もう少しだけ、時間があれば……。

 ドアが開く直前、オレは彼女に面と向かって言った。

「この前言ってたじゃん。『キミはカノジョができるから魔法使いにはなれない』って」

 自分の発言の矛盾に気づいたのか、きょとんとした表情で彼女はオレを見つめ返した。

 べつに非難してるつもりはないという意味を込めて、オレは曖昧な笑みを返しておいた。

 電車が停止してドアが開く。

「今日もタオルありがとう」

 オレは早口でお礼を言いながら電車を降りた。

 もう一言。

 言うべきことがある。

 なのに、口の中にタオルを突っ込まれたみたいに、言葉を押し出せない。

 心に迷いが沸き起こる。

 べつに今日でなくてもいい。

 また会えた時でいい。

 こんなに楽しい魔法の瞬間を自分から壊す必要なんかないんだ。

 ――でも、本当に?

 本当に、それでいいのか?

 閉まりかけたドアに向かってオレは手を差し出した。

「今度、オレとデートしてください」

 その瞬間、ドアが閉まってしまった。

 馬鹿だよな。

 言うんだったら、ちゃんと言えよ。

 もっと早く言えよ。

 後悔するくらいなら、恥をかこうが、断られようが、聞いてみなくちゃ返事なんて分かるわけないんだからよ。

 ゆっくりと電車が動き出す。

 中で窓に張りつくようにしながら彼女がオレのことを見ている。

 自分の胸を指さして、トントンとたたく仕草をしていた。

 ん?

 ――まさか?

 オレは自分のシャツの胸ポケットを探った。

 交通カードと、ハートのエースが入っていた。

 なんだよ、この前のカードだよな。

 と、そのトランプには、文字が書かれていた。

『よろこんで』

 ウソだろ!

 まじかよ。

 手品?

 いや、これ、魔法だろ。

 夢じゃないかとぼんやりしながら改札口を通ろうとして、オレはまたハートのエースを機械にタッチしてゲートに引っかかってしまった。

 改めて交通カードをタッチして駅舎を出たオレを出迎えてくれたのは、今日もまた鮮やかな虹だった。

 二回も連続って、虹って、そんなに目撃するものだっけ?

『この世は魔法で満ちている』

 だから、今、オレは笑顔なんだな。

 鏡もないのに、オレは今、自分が人生で一番の笑顔だってことを確信していた。

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