(3-4)


   ◇


 私はよく嫌な夢を見る。

 酒に酔った前の父親に殴られたり、母親に口答えするなと怒鳴られる夢だ。

 真夜中に汗びっしょりになって飛び起きたことだって何度もある。

 夢の中であったとしても、そんな状態から逃げられて良かったと、暗闇の中でほっとする。

 前の父は実際、気に入らないことがあると私に八つ当たりしていた。

 原因は主に夫婦げんかだった。

 母は気が強い人で、父の方が正しかったとしても言い負かされていたから、怒りのはけ口として、弱い私が狙われたのだろう。

 いつも酒臭くて、先に私がトイレに入っていただけで、蹴り倒されたこともある。

 あるとき、頬をゲンコツで殴られて、唇が切れたことがあった。

 そのとき、母は肩をすくめながらため息をついて鼻で笑っていた。

「どうすんのよ。外で理由を聞かれたら困るでしょ。めんどくさいことするんじゃないよ」

 その時は学校で友達に聞かれても転んでぶつけたと言い張ってごまかした。

 それからも父に殴られることはあったけど、顔以外の服の上からは見えないところで、しかも一カ所だけだった。

 一カ所だけなら、万一見られてもたまたまぶつけたんだと言い訳ができる。

 だから、治るとまた一つ増えた。

 父はしだいに手を使わずに精神的に追い詰めてくるようになった。

 家が揺れるほどの勢いでドアを閉めたり、私のすぐ後ろでポテトチップスの袋を破裂させたり、雑誌やチラシを派手に破り捨てたり、いつ何が起こるか分からない恐怖が生活を支配していた。

 散らかったゴミは拾い集めておかないと、埃のついたお菓子をゴミ箱代わりに口の中に詰め込まれた。

 朝食時にいきなりふりかけを袋ごと生卵と一緒に頭にたたきつけられたこともある。

 一生懸命洗面所で髪を洗ったけど落としきれなくて、学校で『ふりかけ女』と笑われた。

 母も自分の気に入らないことがあるとすぐに怒鳴り散らす人で、買ってきた安い惣菜がおいしくなかったといったささいな理由で、食事中ずっと文句ばかりわめいているのはしょっちゅうだった。

 私が黙っているのも気に食わなくて、私の目をにらみつけて、「言いたいことがあるならはっきり言いなさい」と怒鳴り、何か言おうとすると、「親に口答えするんじゃない」と正座させられ、頭を小突かれながら耳元で散々説教された。

 家では常に目をそらしていないといけなかった。

 ちょっとでも目が合えば、「陰気くさい目だね」と怒鳴られた。

 父には、「おまえの目は母親譲りだな」と膝を蹴られた。

 中学に入った時に二人が離婚して、父と別れて暮らすことになったからあざができることはなくなったけど、母に怒鳴られる毎日は変わらなかった。

 二年半、母と二人で暮らす間、私は人と話すことができなくなっていた。

 何か言おうとすると体が拒絶してしまう。

 喉が詰まるし、顔がこわばってしまう。

 どうしても必要な受け答えでも、やっと絞り出した声は震えていて何を言っているのかうまく伝わらない。

 日本語は分かるのに、口から出る言葉は語彙も文法も間違っていた。

 母はそんな私を見てよけいに怒鳴り散らした。

「まるで私が悪いみたいじゃないのよ。黙ってないでなんとか言いなさいよ」

 そして、言えばすかさず、「口答えするな」だ。

 成績が悪いとそれもまた攻撃のきっかけになったから、勉強だけは必死でやっていた。

 私は決して頭の良い子ではない。

 理解力もないし、記憶力も弱い。

 だから、ひたすら問題と正解の組み合わせを暗記して、忘れないように何度も復習する。

 この問題にはこの答え。

 正解は正義。

 意味なんかどうでも良かった。

 丸がもらえる答えだけが私の味方だった。

 正解を忘れないように念仏のようにいつもブツブツ唱えていたらみんなに気味悪がられた。

 でも、そのおかげで私のまわりから人がいなくなってくれて、学校では心安らぐ時間を過ごすことができた。

 学校ではおとなしくて成績の良い子で通っていたから、面談での母の声は裏返るほどトーンが高かったけど、一歩学校を出ればいつもの調子に戻っていた。

 そんな母が再婚すると聞いた時にはまるで信じられなかった。

 相手はおとなしい人で、私を殴ったりすることもなく、将来の進路のことなんかも心配してくれた。

 少しの間、平和が訪れた。

 私はその瞬間を逃さなかった。

 必死になって逃げ道を探して、今のこの学校を見つけたのだ。

 どこにでもある普通科の高校なら、親元から通える近いところを選ばなければならなくなる。

 だけど、看護科なら、県内でここしかないという立派な口実ができて、しかも、うまいぐあいに祖父母の家に近かった。

 学費が安いことも説得材料としては完璧だった。

 若いうちからきちんと進路を考える立派な娘さんですねとまわりから褒められて、この時ばかりは母も私が自分の考えを口にしても怒鳴らなかった。

 母にしてみれば、新しい夫との生活に私が邪魔だったという理由もあったんだろう。

 おかげで思惑通り私は家を出ることに成功した。

 看護師になりたいと思ったことなんか一度もない。

 そして、今でもなりたいと思っていないし、自分に向いているとも思えない。

 私は人とうまくしゃべれない。

 何か言おうとすると声が震えてかすれてしまう。

 患者さんとコミュニケーションがとれない看護師なんて、おそらく務まらない。

 情熱に満ちあふれた同級生はみな先生の指示にもハキハキと答えて、なんでも自発的に取り組もうとする。

 そんなまぶしさから目を背けるために、私は今日も太くて重たい髪を垂らして周囲に壁を巡らすのだ。

 母から離れ、祖父母の家で甘やかされて暮らしていても、嫌な夢は今でも見る。

 目が覚めると、ほっとすると同時に、なんで朝が来たんだろうと思う。

 夜のまま、ずっと暗闇の中にいれば良かったのに。

 明るくなんかなるから、また夜が来るんだ。

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