第3話
一か月後、近所の図書館の児童書コーナーに、私はヨシロウさんを探しに行った。
コンビニの夜勤バイトをバックレて辞めた今、夜に寝て日中に活動するという元の生活スタイルに戻っていた。活動するといっても基本的には布団の上でゴロゴロと携帯をいじるだけだ。もちろん貯金なんてほとんどないのですぐにでも仕事を見つけなければいけないのだが、なんだか気力が出ず、今日まで動けずにいる。生計を立てるために働くことを想像すると億劫で、このまま飢え死にした方がマシな気さえしていた。
そんな中、数日前に思い立ってある本を探し始めた。ネットで「ヨシロウさん」「異世界」「冒険」などのキーワードを入れて検索すると、それはすぐに見つかった。十年前に学校の図書館で手に取ったのとまったく同じ表紙が画面に映り、懐かしさが胸に滲む。そのまま通販サイトで買うこともできたのだが、お金が無いのでまずは図書館で探すことにした。近所の小さな市民図書館で見つけることができた時、私はその本がなかなかの人気作だったことを知った。
平日の午前中、人気のない児童コーナーに座り込んでゆっくりとページをめくれば、それはずいぶん前からの蔵書だったらしく、独特のかび臭さがほんのりと鼻を突く。ハードカバーのその本は子供向けにしてはページ数が多く、ずっしりと手の中に重たい。ちょこちょこと盛り込まれた挿絵の中に、ヨシロウさんの姿は確かにあった。
長年私を訪ね続けてくれた彼の何十分の一かのサイズで、ヨシロウさんはページの中に収まっていた。私はもちろん一目見てそれがヨシロウさんだとわかったのだが、私が長年見てきた彼と、本の中の彼は別人と言われれば別人だった。本の中のヨシロウさんには白いひげが蓄えられていたし、顔は異様に大きく、脚はずんぐりと短い。ヨシロウさんはおじさんというよりはおじいさんに近かった。私は自分の記憶力に苦笑したが、人間の脳みそなんてそんなに大したものじゃないのかもな、とも思った。
ヨシロウさんは重要人物なので、挿絵の中では主人公の少年に次いで登場回数が多かった。私はいろいろなヨシロウさんを眺めた。ニッコリと笑うヨシロウさん、怒っているヨシロウさん、困り顔のヨシロウさん、悲しんでいるヨシロウさん。そのすべての顔を知っている。私の話を聴いてくれる彼の表情が数パターンしかなかったのは、そもそもこの本に載っている数パターンしか私の頭にインプットされなかったからなのだと、今では認めるようになっていた。私はしかめ面のヨシロウさんを愛おしく撫でた。いつもこの顔で、セクハラ男についての話を聴いてくれたのが懐かしく思い出される。
ペラペラとページをめくっていると、ふとあるセリフが目に飛び込んできた。私は飛ばしてしまったページを急いで戻し、その箇所を目でなぞった。
――私は夜にしかキミに会えないんだ。太陽は私の体にはまぶしすぎるからね。昼間に外に出ると、私はたちまち光に焼き尽くされてしまうんだ。だから、昼間はキミ一人で戦うんだよ。大丈夫、キミならできる。
私はその部分を数回、かみしめるようにじっくりと読んだ。夜にしか来られないという設定も、結局はこの本に書いてあったことを頭の隅で覚えていただけなのだった。そのまま読み進めると、物語はあっという間に主人公がヨシロウさんと別れるシーンにさしかかった。ヨシロウさんは悪魔のいるお城に向かう主人公と肩を並べ、夜道を歩いていた。主人公の少年は始終不安を吐露し、ヨシロウさんは言葉を尽くしてそれを励まし続けた。少年がやっと勇気を取り戻して顔を上げると、隣にヨシロウさんはいなかった。気付けば日は昇っていて、ヨシロウさんは明るくなる前にいなくなってしまったのだと彼は悟った。物語はそこからクライマックスを向かえるが、私はそこでそっと本を閉じた。表紙に描かれたヨシロウさんのニッコリ顔を数回指の腹で優しく撫でた後、本を元の場所にしまう。悲しみが胸いっぱいに広がったが、泣きたくはなかった。私が泣くとヨシロウさんを悲しませてしまうような気がして、私は図書館の外に出るまで、あふれ出しそうな涙を懸命にこらえていた。
その晩、玄関のドアがノックされた。
急いで扉を開けると、そこにはニッコリ笑ったヨシロウさんが立っていた。昼間に図書館で見たばかりの白ひげを蓄えたおじいさんのヨシロウさんではなく、長年見慣れた顔の彼だった。私もニッコリ笑って、すぐに家の中に招き入れた。私たちはいつものように、ちゃぶ台を挟んで向かい合った。
私は今まで、ヨシロウさんにお茶ひとつ出してこなかった非礼を詫びた。小さい頃から外でお喋りしていた時の感覚が抜けず、ヨシロウさんにお茶を出すという発想が出てこなかったのだ。彼はおかしそうに笑って、いいんだよ、と首を振った。そして、私が湯飲みに注いだ薄い緑茶を美味しそうにすすった。今日のヨシロウさんはなんだか動きが滑らかだった。表情もくるくると変わり、私はパターン化されていない、様々な顔のヨシロウさんを見ることができた。
――今日は美奈子ちゃんに、お別れを言いに来たんだ。
ヨシロウさんは穏やかに言った。
――ここに来るのは、今晩で最後になる。
なんだかそんな気がしていたから、私は大して驚きもしなかった。ただ、悲しみとも寂しさとも言えない痛みがじんわりと体中に染み渡った。ヨシロウさん、と私は呼びかけた。渾身の優しさと愛しさを込めて、私は彼に尋ねた。
「あなたの存在は、私が作り出したの?」
――そうだよ。
ヨシロウさんの答えは真っすぐで、澱みが無かった。
――キミが私を強く望んだから私は生まれたんだ。だからある意味では、私は美奈子ちゃん自身なんだ。私はキミの分身であり、キミが私を必要としなくなればまたキミの内側へ返っていくんだよ。
「でも、私はヨシロウさんのこと必要としているよ。」
ヨシロウさんは静かに、宥めるように首を振った。
――キミはもう、自分自身で自分を支える必要はないんだよ。もう一人きりで頑張らなくてもいいんだよ。
「どういうこと?」
その時、私の携帯が鳴った。着信画面に出てきた名前はセナだった。彼女はこれまでに何度か電話やメールをくれたが、私はそれをずっと無視していた。ヨシロウさんは電話に出るように促した。私はドキドキしながら、通話ボタンを押した。
「……美奈子?」
一か月ぶりに聞く声は懐かしく響き、手足がポカポカと暖かくなるのを感じた。私はセナに、連絡を無視していたことを謝った。気にしないで、と彼女は言った。電話の向こうで、セナは泣いているようだった。
「今ね、ヨシロウさんが来てるの。」
「そっか。」
「セナ、ヨシロウさんが家に来てくれるのは今晩が最後なんだって。」
「そっか。」
ヨシロウさんの話をしても、彼女は前みたいに取り乱したりしなかった。それどころか、こんなタイミングに電話してごめんね、と謝った。彼女の声はヨシロウさんにも聞こえているらしく、ヨシロウさんは私の目の前でニコニコしていた。
「美奈子、この間はひどいこと言ってごめんね。」
セナは重ねて謝った。私はもうそんなにしんみりしたくなかったので、気にしてないよ、と明るく言った。セナはバイトの休憩中に電話をかけているらしかった。終わる頃に迎えに行ってもいい?と訊くと、彼女は喜んだ。嬉しいよ、美奈子の顔が見たい、とセナは弾んだ声で言った。そんな風に言われたのが、私もとても嬉しかった。
電話を切ると、ヨシロウさんはいたずらっぽく微笑んだ。
――ほら、キミにはもう支えてくれる人がいるんだよ。
そうだね、と私も恥ずかしく微笑んだ。セナという存在に、私はいつの間にか心を許していたことを知った。ヨシロウさんは私でも気づかなかった私の奥底まで眺めることができるのだった。
カーテンを開けた窓際に布団を寄せ、私とヨシロウさんはそこに並んで座って静かにお喋りした。満月の夜だった。私は小学生の頃を思い出した。あの頃もしゃがみ込んで、二人で月を見上げていた。あの忌まわしい大きな一軒家、フェンスにもたれてヨシロウさんに様々な怒りや悲しみを吸収してもらっていた日々。その歳月の重みを思い出すと泣きそうになるが、すべては私の内側に返っていくのだ。私は何一つ、失ってはいない。
時が過ぎ、地平線の辺りが白く染まりだした頃にヨシロウさんは消えた。後には彼の尻の形にへこんだ布団と、ちゃぶ台の上の空っぽの湯飲みが残された。私は台所で湯飲みを洗い、丁寧に拭いて食器棚に戻すと服を着替えた。洗面所に行って歯を磨き、髪を軽くとかしてさっぱりと一つにくくった。財布と携帯をポケットに突っ込み、玄関でスニーカーの紐を丁寧に結びなおした。そしてドアを開けた。夏の朝の、少し湿った涼しい空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
さあ、これからセナに会いに行こう。
もう夜は明けたのだから。
ヨシロウさん 得能かほ @KahoTokuno
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