第2話
高校を卒業すると、フリーターになって一人暮らしを始めた。私はコンビニの夜勤バイトに週六で入って生計を立てた。東京の郊外に借りたアパートはお母さんと住んでいたころの部屋によく似ていて、特に不便はなかったが、自分だけの家を手に入れた実感がなくていつも居心地が悪かった。でも、引っ越すときに譲ってもらったちゃぶ台だけは気に入っている。お母さんは“手切れ金”と言ってこのちゃぶ台をくれた。もう連絡してこないでほしいと彼女は言ったし、私としてもそのつもりだった。私はそれを四畳の部屋の真ん中に置き、ヨシロウさんが来たときに使った。
ヨシロウさんとは週に一回しか会えなくなっていた。アルバイトが休みの夜にだけ、彼は玄関の薄い紺色のドアをノックする。家族について語ることをなくした今、話題はもっぱら私のバイト先の同僚であるセクハラ男についてだった。十歳年上のその男がレジカウンターの下で執拗にお尻を触ってくる話をすると、ヨシロウさんはいつも眉毛を立ててしかめ面をした。彼の表情が数パターンしかないことにはとっくの昔から気づいていて、セクハラ男の話をする時ヨシロウさんはいつもしかめ面だった。でも、毎回本気で怒ってくれているのだということが伝わってきて嬉しかった。言葉や態度を器用に操れる人よりも、純朴なヨシロウさんから伝わってくるいたわりの方がよっぽど温かかった。
コンビニで働き始めて半年経った頃、セナという新しいアルバイトの女の子が入ってきた。彼女は私と同じ十九歳で、シフトもほとんど被っていたからすぐに仲良くなった、というか仲良くならざるを得なかった。私はこれまで友達という存在を持ったことがなかったし、欲しいとも思わなかったが、こういう近づかないと不自然な状況で露骨に相手を避けるわけにもいかない。でも、幸いにもセナは悪い人ではなかった。女の子にありがちの無駄にベタベタしているところがなかったし、仕事は早く、いつも穏やかに喋るところが好きだった。それに、セナが一緒の時はセクハラ男の悪行が分散され、お尻を触られる回数が半減するので嬉しかった。
そして一緒に働くようになって二か月も経たないうちに、セナは私の正体を見抜いた。
「美奈子は文句、言わない人なんだね。」
彼女が唐突に呟いたその言葉が、セクハラについての話だとわかるまでに少し時間がかかった。確かに私は彼女にも誰にもその件で愚痴ったことはなかったが、それはヨシロウさんにいつも話を聴いてもらっているからだった。ヨシロウさんに話すことで浄化されているから、他の人にわざわざ話す必要がなかったのだ。
「まあね。」
「いつもそうだよね。美奈子は絶対に、他人に弱音を吐いたりしない。嫌なことされても何も言わない。」
深夜三時、店内にお客さんはいない。もう一人のアルバイトの人は休憩に入っていて、私たちはカウンターに並んでダラダラと他愛もないお喋りしていたが、セナは急にそれを深い話に持っていこうとしているようだった。彼女の目が寂しげに伏せられるのはわかったが、私は彼女が何を言おうとしているのかを掴みかねていた。
「あのね、気を悪くしたら申し訳ないんだけど。」
そう前置きして、背の高い彼女は少しかがんで私の顔を覗き込んだ。
「家族とか、身近な人にひどいことをされたことがあるでしょ。」
「え?」
「なんとなく、雰囲気でわかるの。私もそうだったから。」
「……なんの話?」
「ごめんね、話したくなかったらいいの。でも、なにか美奈子の力になれたらと思って。」
セナはそれ以上何も言わなかった。私は突然の出来事に呆然としてしまったが、心の片隅でお母さんの腫れあがった顔を思い出していた。そうやって、家庭のことについて他人から言及されるのは初めてだった。呼吸が浅くなり、目の前がぼんやりと滲んでいく。背中を丸めて息を整えていると、セナが体をさすってくれた。
その日、早朝の帰り道にセナは彼女自身の過去について囁くように語った。
セナは二歳の時に実のお父さんを病気で亡くした。その三年後にお母さんは再婚し、新しいお父さんと、十歳年上のお兄さんができた。お兄さんは成績優秀でスポーツ万能で、学校でも人気者だった。一人っ子だったセナはずっと兄弟が欲しいと思っていたから、一夜にしてそんなに立派なお兄さんができたことが嬉しくて仕方なかった。
しかし一緒に暮らすようになってすぐ、夜になるとお兄さんはセナの布団の中に入ってくるようになった。まだ小学生にもなっていなかった彼女は、自分が何をされているのかが理解できなかった。体をまさぐられているときに感じる不快感で、かろうじて自分の身に何か悪いことが起こっているのではないかと思った。しかしことが終わると、お兄さんは毎回「誰にも言っちゃいけないよ」と耳元で囁いた。だからセナはそのことを誰にも言えなかった。お兄さんが大学を卒業して家を出るまで、いたずらは実に七年間に及んだが、彼女は本当に、誰にもそのことを打ち明けなかった。
高校生の時に受けた保健体育の授業で、セナは自分がされたことが性暴力であったことを知った。彼女はお兄さんを激しく憎むようになった。何も気づかなかったお父さんやお母さんにも、滅茶苦茶に怒りをぶつけた。そして何より、無知だった自分を呪った。彼女は毎日、体中の水分が枯れるまで泣いた。両親は離婚し、家族は散り散りになった。セナは心のバランスを保てず、高校を辞めた。
「ごめんね、こんな話。でも私、どうしても美奈子に話したくなっちゃって。」
セナは途中から泣いていた。涙は音もたてず、彼女の白い頬を滑らかに流れていく。私は心底セナをかわいそうに思った。誰かにこんなにも同情したのは初めてだった。
「私、お尻触られてる時の美奈子の目を見て、ピンときたの。ああ、これはあの頃の私と同じだって。この子も我慢するのが当たり前だと思ってるんだって。だから、何とかしてあげたかった。我慢しなくていいんだよって言ってあげたかった。」
でもセナの話は壮絶で、私は自分が彼女と同じだなんて思えなかった。
私にはいつだってヨシロウさんがいた。私には気持ちを吐き出す場所があり、慰め寄り添ってくれる存在があった。でもセナはいつもたった一人で戦っていたのだ。小さい頃から、ずっと。私は空を見上げた。太陽はとっくに昇り始めていて、夏の空は青々と澄んでいる。私はセナに、次の休みの夜に家に来るように言った。今こそ、ヨシロウさんが必要だと思った。あの温かい愛が、セナには必要だと思った。
約束の夜、私とセナはちゃぶ台を挟んで座り、彼の到着を待っていた。
私が「ヨシロウさんが――」と語り始めると、セナは彼氏か何かだと思ったらしかった。私はそれを笑って否定した。そんなんじゃない、ヨシロウさんは小太りのおじさんだよ、と。でも、ヨシロウさんの肩書について説明しようとすると、言葉が出てこなかった。ヨシロウさんは私の何なんだろう。友達とも言えないし、家族でもない、ただの知り合いとも言いたくない。とにかくヨシロウさんはヨシロウさんであり、大切な人なのだと私は熱弁した。人生において、なくてはならない人なのだと。
そこから先の説明はもっと難しかった。セナは私の一言一句に首を傾げた。ヨシロウさんは本の中のキャラクターで、小学生の時に初めて家にやってきて、人だけど絵で、声を出さずに話すことができる。これだけの説明が、何度言っても伝わらなかった。セナはしばらく眉をひそめていたが、徐々にその顔は泣き出しそうに歪んだ。ヨシロウさんの表情は数パターンしかなくて、どれも単純なものなのだという話を私はウケを狙って喋ったが、セナはちっとも笑わなかった。彼女は私の手を取り、いたわるようにさすった。
「ヨシロウさん、今日は遅いな。ごめんね、もうすぐ来ると思うんだけど。」
「ううん、もういい。美奈子、もういいよ。」
セナは激しく首を振った。でも私はどうしても彼女にヨシロウさんを会わせたかった。私が小さい頃から彼から授かってきた慈愛を、かわいそうなセナにも分け与えてあげたかった。壁にかかった時計を見上げると、一時半を回っていた。
「ちょっと、外見てこようかな。」
私はそう言って腰を浮かせた。するとたちまちセナの腕が伸びてきて、力強く私を座らせた。そのままがっちり私の肩を掴み、彼女は言った。
「美奈子、私はなるべく何も否定したくないの。」
いつの間にか、彼女の目には大粒の涙が浮かんでいた。セナは更に強く顔を歪め、その拍子に涙はボロボロとこぼれていった。何が起こっているのかわからず、私はオロオロと目を泳がせたが、彼女は強い口調で押さえつけるように言った。
「でも、このままじゃいけないと思う。あなたの中で何かが歪んでるんだと思う。美奈子、見えないものを見ていちゃいけないよ。私、一緒に病院行ってあげるからさ。」
セナは激しく震えていたが、自分自身で懸命にそれを抑えようとしていた。私は本当に、彼女が何を言っているのかわからなかった。見えないもの?病院?まったくキーワードが繋がらない。でも、何となく不吉な予感がした。私はその場から逃げ出してしまいたかったが、それでもセナは言葉を続けた。
「美奈子、目を覚まして。ヨシロウさんなんて人はいないよ。ヨシロウさんは、あなたが作り出した幻覚なんだよ!」
聴き馴染んだはずのセナの声が、まるで知らない人のもののように意識の遠くで響いていた。自分の内側と外側が剝がれていく感覚の中で、私は玄関のドアを見つめた。今にもその薄いドアをヨシロウさんがノックする音が聴こえるのではないかと思って、私は懸命に耳を澄ませた。しかしドアは鳴らなかった。私はずいぶん長い時間待った。いつの間にか日は昇り、セナはもう部屋にはいなかった。とうとうヨシロウさんは来なかった。私は押し入れから布団を引っ張り出してきて寝転がった。サイズの合わないカーテンの隙間から光が漏れ出してきて、部屋の中を明るく照らす。不愉快なその刺激は目を閉じても消えなかったが、それでも眠気はやってきた。せめて夢の中にでも、彼が現れてくれればいい。そう思ったのだが、その日の夢に出てきたのは顔に青黒いあざを作ったお母さんだった。お母さんは泣いていた。私も一緒になって泣いた。悲しくて悲しくて、心から泣いた。大切な人を失ってしまったのだと思った。もう二度と、ヨシロウさんの温かい愛を感じることはできないのだと思った。
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