ヨシロウさん

得能かほ

第1話

 ヨシロウさんが初めて家にやってきたのは、私が小学三年生の頃だ。学校の図書館で借りた本の中に、ヨシロウさんはいた。“異世界への案内人”である彼は、その本の中で主人公の男の子の不思議な冒険を手助けするのだ。でも、ヨシロウさんは私を異世界へ連れて行ってくれることはなかった。私たちはただ、暑い夜も寒い夜も、隣家との境のフェンスに寄りかかって座ってお喋りしただけだった。

 ヨシロウさんはいつも、私の部屋の窓をコンコンとノックして到着を知らせてくれた。玄関から出るとお母さんにばれるかもしれないから、私は音を立てないように気を付けて窓から外に出る。部屋は一階だったから、小学生の体でも抜け出すのは造作なかった。

「こんばんは、ヨシロウさん。」

 ――こんばんは、美奈子ちゃん。

 ヨシロウさんは本の挿絵のとおりの、背の低い小太りなおじさんだった。そして彼は、あくまで“絵”でしかなかった。灰色の髪もやたらと白い肌も小さな小さな目も、人間としての質感を持っていなかった。もちろんいつも着ている黒いタキシードも、布ではない。はっきりと縁どられた輪郭の内側は全体的に淡くモヤモヤしていて、でもそのタッチは私にはとても優しげに見えた。

「今日もね、お父さんがお母さんを殴ったの。その後に、お母さんが私を叩いたの。」

 ――そうか、それはつらかったね。

 ヨシロウさんの声は声ではなかった。一本の曲線でしかない口を小さく動かせば、相手の心に直接語りかけることができるのだ。私は耳にせずとも、ヨシロウさんの言葉を知ることができた。

「ねえ、いつまで続くのかなあ、これは。お父さんはこの先もずっと、お母さんをいじめるのかなあ。」

――それは私にもわからない。

「私が大人になるまでかなあ。」

――大丈夫、大人になればいろんなことから逃れられるよ。

「ヨシロウさんは、私が大人になっても会いに来てくれる?」

 ――もちろん。美奈子ちゃんが来てほしいと思えば、私はいつでも会いに行くよ。

 ヨシロウさんはいつも優しく語りかけてくれた。三十分ほどお喋りしたら、彼は闇の中に溶けて消えてしまうのだった。後には髪の毛一本も残らず、座っていたはずの場所はひんやりと冷たい。私は満たされた思いで、また窓から自分の部屋へ戻っていった。



 私が小学校に上がった年にお母さんは再婚した。だから私が“お父さん”と呼ぶのは本当のお父さんではなくて、そのせいか“お父さん”にお父さんらしいことをしてもらった記憶は一つもない。二人が籍を入れてすぐに私たちは真新しい綺麗な一軒家に引っ越した。初めてその家に足を踏み入れた瞬間の感動を、今でも忘れはしない。それまで小さなアパートで極貧生活を送っていた私とお母さんからすれば、広々とした一軒家は天国のように神々しく輝いて見えた。

 その家で初めて過ごす晩、お父さんはお母さんを殴った。顔の左半分を何度も、何度も殴った。唇は切れて血が滲み、真ん丸に腫れた瞼の青黒さはとてもグロテスクだったが、もっと驚いたのはお母さんが泣いたことだった。私はそれまで大人が殴られているところも、泣いているところも見たことはなかった。新しいお父さんは怒っているのだろうか?怒っているからお母さんを殴ったのだろうか?お母さんは悪いことをしたから殴られたのだろうか?私も悪いことをしたらこんな風に殴られるのだろうか?自分の身にも起こるかもしれないと思うとさすがに恐怖で震えたが、結局お父さんが私に手を出すことはなかった。私は最初のうちはお母さんが殴られるのを黙って眺めていたが、しばらくすると与えられた自分の部屋に逃げるようになった。

 お父さんの暴力が終わると、お母さんは部屋に入ってきて私をぶった。跡がつかない程度に顔を平手で打ったり、体を蹴り飛ばしたりものを投げつけたりした。服を脱げば体はいつもアザだらけで、体育の授業では汚い部分を隠しながら着替えるのに苦労した。でも、顔の原型が無くなるぐらい殴られるお母さんに比べれば、私の傷なんてたいしたことなかった。この世にはもっと恐ろしいものがあって、私はそこから逃れられただけマシなのだと知っていた。

 中学二年生の時、お父さんの経営していた会社が倒産して、両親は離婚した。私とお母さんは元の極貧アパート生活に戻ったが、その狭い部屋の中でもお母さんは私をぶった。でも年齢のせいかお母さんの力は年々弱くなっていき、私はあまり痛みを感じなかった。お父さんがしたような、際限のない暴力は私の世界にはもうない。今はただ、私がちょっと我慢すればすべては丸く収まるのだ。

自分の部屋がないので、ヨシロウさんが来た時は台所の小さな窓をノックするようになった。お母さんは夜勤の仕事で家を空けていることが多かったから、私は室内にヨシロウさんを招いた。私たちは小さなちゃぶ台を挟んで向き合い、静かに静かにお喋りした。

「ヨシロウさん、昼間には来てくれないの?」

 ある日、私はずっと疑問に思っていたことをぶつけた。

「私、学校でも嫌な思い、いっぱいするんだよ。上履き隠されたり、髪の毛引っ張られたりするんだよ。そういう時、ヨシロウさんが話を聴いてくれたらなあって思うの。ねえ、学校にも来てくれない?校舎裏とか、人気のないところでならお喋りできるよ。」

 ヨシロウさんは悲しそうに首を振った。

 ――私は、夜にしか来られないんだ。

「どうして?」

――日光は私にはまぶしすぎて、耐えられないんだ。だから美奈子ちゃんが困っていても、どうしても昼間には会いに行けない。

ヨシロウさんはそれまで横一本だった眉毛を器用に八の字に下げて、心からすまなそうな顔をした。それを見ると私は何も言えなくて、ふうん、そういうものかと自分を納得させる他なかった。仕方がない。ヨシロウさんが来られないと言うなら来られないのだ。その日はとりとめもない話をして、ヨシロウさんが元の優しいニッコリ顔に戻るのを待った。相手の都合もあるんだからわがままを言っちゃいけない、ということを私は学んだ。

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