三十二話 竹ちゃんとの再会(3)
夕陽がまだ丸く見えるうちに、金森可近・前田利家・浅井道忠の三人は、海辺の大高城へと到着する。
城の内外は三河兵が固め、今川の旗は内部に少し残っている。
周辺から今川が撤退している異常には気付いているだろうが、義元の討ち死にまでは確信出来ないのだろう。
(ここが一番、情報が遅いのか。逃げる連中からすれば、帰路の反対方向だし)
ここに義元戦死の情報を流せば、彼らは速やかに移動を始め、織田が楽に大高城を入手出来る。
その情報の伝え方が、悩ましいけれど。
可近は使者である事を表す為に馬を降りて両手を挙げ、害意がない事を示す。
「織田家赤母衣衆、金森可近と申します。自分の顔が分かる人は、城にいますか?」
「いるぞ〜〜」
十一年ですっかり中年男の顔になった酒井
「金森殿なら、旨い酒を手土産に投降しに来ると思っていた。さあ、お主が本物の金森殿なら、酒を出せ」
可近は、馬の鞍に吊るして持参した瓢箪入りの酒を二つ、酒井忠次(三十三歳)に進呈する。
「確かに本物の金森殿だ」
「まだ飲まないでくださいよ。重要な情報を、持って来ました」
「なんだ、仕事で来たのか」
酒井忠次(三十三歳)が、可近の後方で長い朱槍を肩に担いで臨戦態勢でいる前田利家と、ガクブルで馬の上から落ちそうな浅井道忠に視線をやる。
酒井忠次と目が合うと、浅井道忠はベラベラと用件を話し出す。
「浅井道忠二十九歳、妻子がいます。子供は七歳です。殺さないで、無事に帰して、情報を伝えろと言われただけなんです、殺さないで〜〜」
「彼だけ見ると、敗残兵の命乞いにしか聞こえないのだが、わしの気のせいか?」
話が拗れる前に、可近は風呂敷から『義元左文字』を取り出す。
「松平の殿なら、この刀が誰の所持品であったか、一目で分かります」
「わしにも分かるよ。二度見た。二度目は、一昨日だ」
酒井忠次が、深い溜め息を吐く。
落胆を上回る解放感を噛み殺しながら酒井忠次は、可近と松平元康が、話せるように計らう準備をする。
「金森殿と、そこの…浅井殿? 二人は刀を預けて、城内へ。朱槍の方は、そこで待機してくれ」
「又左、待っていてくれ」
「いいよ」
前田利家は、おとなしく返事をした、次の瞬間。
長い朱槍の穂先を、酒井忠次の頭上に振り下ろして、寸止めした。
「使者に手を出したら、俺一人で大高城を潰す」
そう言って、朱槍を肩に戻す。
肩に戻した朱槍の穂先が、折れた。
酒井忠次が、ニヤリと笑いながら、人差し指を振って見せる。
「…おいおい。今、これ一本しかないのに」
貧乏生活でも手放さずに使っていた朱槍を破壊されて、前田利家がマジ泣きしそうになる。
「あ、ごめん、君も入っていいよ」
なんだか申し訳なくなった酒井忠次が、面談に立ち会う事を許可する。
可近は大高城の陣屋に通され、下座で平伏し、声が掛かるのを待つ。
周囲の兵達から向けられる敵意は、酒井忠次が横で親しくしているという様を見て、薄められている。
彼らの若殿の人質時代に、親切に面倒を見た人物だと知れ渡ると、好感すら湧いてきた。
この空気だと仕事の成果は楽観したくなるが、可近は用心を解かない。
これから会うのは懐かしい竹千代君というより、太原雪斎の弟子である。
太原雪斎に頼りきりで、雪斎がいなくなった途端に、粗い用兵で敗北した今川義元とは違う。
弱小大名の生き残りを賭けて、最高の軍師から全てを学び取った、若い武将だ。
今川義元の側近最強である朝比奈泰朝が、信長よりも元康を警戒して動いていた事も、可近の用心を促した。
これから弱体化する今川を食いに行くのか、今川に恩を売って織田を食うのか、可近はこの機会に情報を得なければならない。
一分と待たせずに、松平元康が上座に座る。
「顔を、あげてください」
十一年ぶりの竹ちゃんは、まずは優しく丁寧に、声をかけた。
可近が、顔をあげる。
十七歳に成長した松平元康(幼名・竹千代)が、黄金色仕様の甲冑を着こなして、大高城の中枢部を仕切っている。
身体も武家に相応しい仕上がりに育ったハンサム少年は、ストレスが溜まると爪を噛む癖にも、磨きをかけていた。
指先に、血が滲んでいる。
幼少からの悪癖を直せていない事を恥じて、元康が拳を握って指を隠す。
「お久しぶりです。福は、息災ですか?」
「元気です。この戦の直前にも、一緒に三河に亡命しましょうと、煩かったです。自分は京都に亡命するつもりなので、交渉は進みませんでした」
「金森殿なら、何時でも歓迎します」
「
挨拶の最中に、今川の武将が陣屋に入り、元康の隣に座る。
「遅れてすまぬ」
「まだ挨拶だけです」
「続けてください」
大高城城主・
大高城の本陣は、三河勢が仕切っている。
昨日まで餓死寸前に追い詰められていた今川の兵たちは、今日は休んで仕事を三河勢に任せきりである。
やろうと思えば、今川の将兵に聞かせないままでも話を進められたが、松平元康は城主の
その配慮に、可近は元康が今川の敗北を察していると見た。
そして、腰の重い理由も。
「では、本題に入ります」
可近は、『義元左文字』が入った風呂敷を、広げて見せる。
松平元康の顔色は、全く変わらなかった。
指をモゾモゾと動かしたので、爪を噛みたかったのかもしれないが。
(大した狸に仕上がったな、竹ちゃん)
「桶狭間の戦いにて、我が軍は今川の本陣を奇襲する事に成功しました。今川義元と、周囲の旗本衆は、全滅。織田の大勝利です」
「刀一本では、信じられない話ですな。これは盗まれた物か、模造品かもしれませぬし」
松平元康が、平然と疑義を挟む。
「これから桶狭間に家来を向かわせて、本当に太守様(今川義元)が討たれたのか、確認します」
慎重過ぎる行動方針に、前田利家が思わず発言する。
「あのう、大高城からの撤退が遅過ぎると、織田の軍勢が攻め寄せてしまいますが?」
松平元康は許可のない発言を咎めずに、態度と図体の大きな利家に、逆に質問する。
「君は『織田信長が合戦で討たれた』という知らせを聞いたら、即座に持ち場を捨てるのかい?」
利家は、即座に頭を下げる。
「しません、まずは情報収集です。余計な発言をしてすみません」
余計では、なかった。
鵜殿長照が席を立ち、
「我々も桶狭間に急行して、事の次第を確かめます。後の事は、松平殿の好きにどうぞ」
と言い捨てて、今川の兵を全部連れて、ダッシュで大高城から離脱していった。
どう見てもトンズラにしか見えない。
「今の、俺の手柄でいいですか?」
前田利家は帰参可能な手柄に飢えているので確認したが、可近は首を横に振る。
「離脱の時期を聞いても、よろしいでしょうか?」
「桶狭間に向かわせた斥候が戻り次第、城を出て岡崎城へ向かいます」
逃げている今川の兵で道が渋滞している可能性も考慮して、松平元康は出発時間を遅らせる。
「それだけ聞けば、充分です」
可近は『義元左文字』を風呂敷に包み直す。
「今日は、これにて、お暇を」
「お急ぎでしたか?」
「実は、この刀を刀匠に預ける途中でして」
「松平は、刀の次いで、でしたか」
「いえ、本来は水野殿が請け負い、ここにいる浅井殿が命じられた仕事ですが、心許ないので自分が加勢した次第です」
「それで良かった。叔父貴が来ていたら、織田の傘下になれとしつこく勧誘されて、喧嘩別れになったでしょう」
「傘下が嫌なら、同盟では?」
松平元康は、苦い顔をして考えたが、首を横に振る。
「まずは岡崎城に、帰ってからです」
松平元康は、慎重に返事をする。
確率は低いが、今川が再建するのかどうかを見極めねばならない。
大勝した織田信長が、美濃だけでなく三河に食指を伸ばす可能性もある。
独立するチャンスではあるが、東西のパワーバランスに神経を遣う日々に、変化はない。
「織田との話し合いは、岡崎城で三河衆をまとめてから、いずれ…」
そこで話を切り上げるつもりだったのに、浅井道忠が松平元康の足元に、土下座している。
「浅井道忠、通称・六之助、三河の
土下座。
大マジで、頭を擦り付けて、嘆願している。
長年、今川か織田にバイト身分で仕えるしかなかった三河者が、若殿の采配で独立するという話を直に聞いてしまい、移籍を決断してしまった。
「街道の普請に参加した実績がございますので、道案内には自信があります。どうか」
松平元康が目線で可近に
「この人、大丈夫?」
と問い掛けてきたので、可近は適当に首を縦に振る。
「水野殿には、自分が言っておきます」
知らんけど話を切り上げて本来の用事を済ませたいので、可近は引き止めない。
可近が保証したので、元康も気兼ねなく帰参を許す。
「よし、頼むぞ、浅井ミッター」
「道忠です」
帰りの夜道で、前田利家がボヤく。
「あれさあ、本当に良かったの? これからますます上り調子の織田から離れて、発展途上の三河に戻るとか。損得勘定が、壊れていないか?」
「本人の希望だもの。好きな所で働けばいいさ」
可近の興味は、今日の事を嫁さんに話したら、どんなリアクションが返ってくるだろうかに向けられている。
(喜ぶだろうなあ、福。喜び過ぎるだろうなあ、福。自分を引き摺ってでも、三河に引っ越すかも)
それもありかと心が傾く、可近だった。
浅井道忠は、金森可近のように大名にはならなかったし、前田利家のように百万石の大大名にもならなかった。
それでも遺漏なき道案内を評価され、奉行職を得てから高評価を貰い、後には信長から褒美を貰う程の働きをするが、それはまた別の話。
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