余命あと七ヶ月 3
東京と一口に言っても、どこもかしこも見上げるようなビルの群れ——というわけではない。テレビで見るような都市部の風景はせいぜい、山手線の内側まで。円環を描く線路の外に広がるほどに、景色は商業ビルよりも住宅街の割合が増えていき、そこにちらほらと緑も混じるようになる。
菊理神社があるのは、そんな都心部から少しだけ外れた都内のある一角だった。いまとなっては、地元の住人ですらほとんど立ち寄ることのない、ひどく小さな古ぼけた社。
『菊理』を祀った神社でもっとも有名なのは白山神社の総本宮、石川県にある白山神社だろうが、本神はこの社にいる。いや——。
そもそも今の人の世に、神はもう菊理しか残っていないのだが。
ともあれ、その古いながらも歴史ある由緒正しい社が。
今やとんでもない有様になっていた。
本来なら本殿と弊殿を隔てる帳は邪魔だと言わんばかりに取り払われ、広くなったスペースにはパソコンにデスク、プリンターに室内用ランプにソーラーバッテリー。果てはコーヒーマシンやベッドまで。家具や家電の数々が自由気ままに置かれている。
さらに床のあちこちには本が高く詰まれ、その合間を埋めるように大量のコピー用紙が散らばっている。いたるところに私物が持ち込まれた室内は、神社というより荒れ果てた独身男性の部屋だ。
年季の入った板張りの床には現在、二人の男たちが膝を突き合わせて座り込んでいる。いや、正確には一人と一柱、というべきか。
そのうちの片方は、いかにもこの場所に相応しい装いだった。見るからに上等の絹で織られた建物に負けず劣らず時代がかった和装。新雪のごとき白髪と神がかった美貌は、見る者に畏怖すらも抱かせる。その手にあるのがA5版の薄い冊子ではなく神器で、耳に赤ペンとかひっかけてなければ完璧だ。
もう一人はごく普通の青年だった。垢抜けたメガネと焦茶の髪。こちらはTシャツにジーンズと割とラフな格好で、床に座り込みながらタブレットと睨めっこをしていた。暗い社の中で、液晶画面がぼんやりと光を放っている。
なにもかもチグハグな状況と組み合わせだが、当人たちはまるで気にしていないらしい。ふと画面から顔を上げた青年が、ぎょっとした表情を浮かべた。
「うっわ、なに? 打ち合わせしてて、急にそんな不機嫌そうになることある? ていうかその本、いまどっからだしたの?」
「んー……」
翔の質問に、ククリは我知らず浮かべていたらしい不機嫌な表情をなんとか修正しようと努力した。手の中の本を見つめ、呟く。
「なんか、あっちの僕が送ってきた」
「あっち? ああ、馬の方か。そんなこともできるなんて、ますます人間離れしてきたなお前。本当に神様みたいだぞ」
「神様なんだけどな。実際」
少なくとも今は。付け足されたセリフには答えず、翔は苦笑を浮かべた。
「思考分割だっけ? 神様ってやつは便利だよな。依代を使えば、どこにでも同時に存在できるなんて」
「もともと分社ってのは、分霊を祀るところだからな。全国に分身がいるようなもんだよ。特に菊理は記録と観測の神だ。人の世の全てを記録するためなら、これくらいはできないとな」
ククリはこともなげに言って、手にした本の表紙を撫でた。
少なくとも彼の認識では、あちら側の自分と今ここにいる自分は、同一であり別存在だ。記憶も感情も共有しているし、その気になれば五感を共有することもできる。だけど、あくまでそれは離れた場所にいる依代であって自身ではない。感覚的には、自分でセリフを選べる体感型ゲームをやっているような感じだ。
だから依代によって、外を覗くことはできても。
今の神様にとって、やっぱりこの小さな社の境内こそ世界の全てなのだ。
「それにしても、随分と懐かしい本を持ってるな。どうしたんだ突然」
「……勉強になるからって、職場の先輩に勧められたんだと。あいつが」
ククリが憮然と答えるのと。翔が吹き出すのはほぼ同時だった。
「……笑うな」
「ごめっ……! いや、でもこれは笑う。笑うって。相変わらず、的確にお前の地雷を踏み抜くのが上手だなー、あの子は。それでお前、そんなに不機嫌なわけか」
「違う。怒ってるのはあいつの方だ。今しがた、キレて家を飛び出していった」
スマホくらい持ってけってのに。げんなりと愚痴る神の言葉がよほど意外だったのか、メガネの奥で翔が驚きに目を見張る。
「おっどろいたな……あっちはあっちで、随分と人間味が出てきてるじゃないか。これも全てお前の計算通りってわけだ」
「いや……そうとも言い難いかな。今んところ、進捗は予定の五割ってところだ。もうちょい急がないと間に合わない。なんせ時間はもう半年しかないんだから」
「半年、か。なぁ……お前、本気でこれ最後まで続ける気か?」
唐突な昔馴染みの質問に。
神はぱちくりと目を瞬かせた。
「あったりまえだろ。今さら何言ってんだ翔」
「じゃあ言い方を変える。こんなことをして意味があると、本気でまだ信じてんのか?」
「………………」
「爺さん連中はこの終活を歓迎してるみたいだけど、俺はいまだに半信半疑だよ。というか、ぶっちゃけ無理だと思ってる。神と人は所詮、違う存在だ。種や寿命の問題じゃない。クオリアを共有できないっていうのが、最大の問題なんだ。その断絶は一年やそこらで埋まるものじゃない」
昔馴染みの容赦ない言葉に、神は露骨に顔をしかめた。
「嫌なこと言うなー。お前」
「言わせてんのはどっちだよ。たとえば今お前が手に持ってる本」
翔はびしりと幼馴染の手の中にある本を指差した。
「さっきお前は『もう一人の自分が送ってきた』なんて抜かしたがな。いいかよく聞け。普通の人間は、離れた場所に一瞬で物を送るなんてことはできないんだよ」
「当たり前だろ。何言ってんだお前」
「黙れ。はっ倒すぞ。俺が言いたいのは、それだけ神と人間には違いがあるってこと。なまじ外見が似てるせいで誤解しそうになるが……お前のその思考分割とやらだってそうだぞ」
翔はジロリと目の前の幼馴染を睨んだ。
「少なくとも俺は、自我を分割して依代とやらに入れて、自分の代わりに動かすなんてこと絶対にできない。そんなことしたら多分、正気じゃいられないよ。自分と同一の自我が複数存在するなんて、考えただけでもゾッとする。なのにお前はそれを全く苦にしてない。依代のお前も、今こうして俺の目の前にいるお前も、俺から見ればなんの差もないんだ。感心よりも素直に恐怖すら感じるよ。そんなものが神にとっての普通なら、人と神はきっと永遠に相容れない」
皮肉でもなんでもなく。
心の底から正直に、翔はそう吐き捨てた。
「蛇はピット器官で世界を認識する。犬の視界は白黒だ。ザリガニなんて、口の横に肛門があるんだぜ? そんな生き物の世界や価値感なんて、俺には想像もできないよ。同じように神の視点も俺には理解出来ない。それは種や寿命より、もっと明確で残酷な隔りだよ」
長い長い歴史の中で、神はずっと一人だったわけではない。
人の中には無論、神に歩み寄ろうとする者もいた。だけど結局、その手は届かなかった。
寿命の差を乗り越えられても。種族の差を気にしないなんて言っても。
人間たちは神の孤独を本当の意味で理解していなかった。
同じ感覚を共有できない。見えるモノ、聞こえるモノ、感じるモノの全てが違う。誰とも、何も共有できない。
たとえ同じ場所に、同じ時代に、同じ国に生きているからって、そんなもの。
最初から、住んでいる世界が違うのと同じことだ。
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