余命あと九ヶ月 6
一体いつからそこにいたのか。食堂の入り口には、見慣れた昔馴染みが立っていた。
「……翔」
「コラ。いくら顔見知りとはいえ、会社ではきちんと佐々木さんと呼びなさい。まだ休み時間じゃないんだから」
彼はツカツカとこちらに歩み寄ってくると、そのまま流れるように迷いなく私の脳天にチョップした。
どすっと。かなり容赦なく。割と普通に痛かった。
「で、本気で何してるの? 君たちの課、隣の課にも伝わってくるくらい険悪なムードだったけど。こんな所で油を売ってていいわけ?」
「それは——」
「不動さんの担当作家の原稿がなくなったそうで。それを神代ちゃんが任されていたものだから、俺に相談しに来たんですよ。どうにかならないかって」
「ちが……っては、いない、ですけど……!」
真実ではない癖に微妙に間違ってもいない説明に、素直に同意することもできず。さりとて否定もできない。話を聞いた翔が「ふぅん」と気のない態度で頷く。
「だったらなおさら、こんなところにいる場合じゃないだろ。早く戻ったほうがいいんじゃないか?」
「そうだけど……! でも、まだ池原さんが原稿を」
「だから俺のところにはないって言ってるだろ、しつこいな。それとも何か? 俺がなくしたって証拠でもあるわけ?」
「だって……私が渡したときより、原稿が少し薄くなってたし……」
なぜあの場ですぐに気づかなかったのかと、あのときの自分を大声で罵りたい。違和感はあったはずなのだ。あのとき彼から受け取った原稿は、記憶の中の厚みとほんの少しだけ違っていたから。
池原さんは、はぁ? と露骨に馬鹿にしたような表情を浮かべたし、翔はやれやれと言わんばかりに静かなため息をついた。
「池原さんの言うとおりだよ」
「翔⁉︎」
「だから、会社では佐々木さんって呼びなさいと。というか、いま重要なのはそこじゃないだろ。どうあれ、君が任された仕事でトラブルが起こったのは事実なんだ。だったらまず、そのリカバリーをするのが先決だよ」
俺も手を貸すからついておいで。言うなり、翔は私の手を掴むとスタスタと出口に向かって歩き出した。特に止める気もないのか、池原さんはそんな私たちを余裕そうに見送っている。
原稿の紛失が彼の故意であった以上、悔しいけどその態度にも納得だ。たぶん、今さら彼のデスクを探し回っても出てこないだろう。
だったら果たして、先生の原稿は一体どこにあるのか。想像するだけで暗鬱たる気分になってくるが、事態を把握しているのかいないのか、翔は平然としたままだった。ただ去り際、食堂の出口で一度だけ振り向き、池原さんに向かって素っ気なく告げる。
「ああ、それと。今回は見逃しますけど、あまり彼女をつまらない揉め事に巻き込むのはやめてもらえますか? あとで俺が馬に蹴られるので」
馬? と池原さんが不思議そうに首を傾げるが。それには答えず、翔に手を引かれて、私たちは食堂をあとにした。
食堂のフロアは四階。
そして私たちのオフィスは八階だ。歩いて上がるにはちと厳しい。翔は迷いなくエレベーターホールに向かった。ブウウゥンと重い音を立てて、エレベーターが起動する。残念。下行きだ。
「……翔。あの、ありがとう。助けてくれて」
「別に気にしないくていいよ。助けられたと思うなら、今度から気をつけて。俺もいつでも動けるわけじゃないから。そんなことよりヒメ、今日これから急ぎの仕事はある?」
昔馴染みの唐突な質問に、私は脳内スケジュール帳を開いた。答えはすぐに出る。
「急ぎっていうのはないかな。とりあえず午前中は」
本当は不動さんのチェック待ちの案件がいくつかあるが、あの様子だと取り掛かるのは無理そうだ。翔はこくりと頷いた。
「なら俺が会議室を押さえておくから、作業はそこでやろう」
「あの、翔……作業って? それより早く原稿を……」
「焦らないで。だからその準備をするんだよ。あの池原とかいう奴に取られた分については、もう諦めた方がいい。どうせ探しても見つからないから」
「……やっぱり?」
「なくなったのは数枚なんだろ? 手書き原稿と言ったって、所詮はただのA4用紙だ。隠す方法はいくらでもある。というか、下手するともうこの世にない可能性だってあるな。俺ならそうする。ここまでハッキリ嫌がらせをしかけてくる奴が、証拠なんて残さないよ」
私だって、その可能性を考えなかったわけではない。だけど、こうもはっきり断言されるとさらに落ち込む。ゆっくりと下がっていたエレベーターのランプが、地下二階まで到達した。
「発想を逆転すればいいんだよ。無くなったのは赤の原稿用紙なんだろ。これが初稿だったら本当に致命的だったけど……さすがにそこまでの度胸はなかったってところかな」
というより、君の記憶力を舐めてるんだろうな。翔の呟きと同時に、ランプはようやく地下から地上へと上がり始めた。
「……翔?」
「要するに、実際に紛失したのはほんの数百字程度だってこと。入稿までの流れを思い出してごらんヒメ。まず作家さんから初稿が上がり、それをうちで枠組みして校正に依頼。その後、返却された原稿を作家さん自身が修正してまたうちに送る。今回、無くなったのはこの校正済みの赤なんだろ? だったらテキストデータそのものはまだ残ってるはずだ」
「あっ……」
そうだ。指摘されるまですっかり気づかなかったが、手書き原稿といっても、校正に渡った時点でそれらは一度、データ化されている。
「だから書き起こすのは全部じゃなくて校正後の修正箇所だけ。ここまで騒ぎになっている以上、コピーもないってことなんだろうけど……幸い、バックアップはもう一つある」
ここにね。と、翔の指がトン、と私の頭をつつく。
ここに至ればいい加減。
彼が何を言いたいのか分かってきた。
「い、いやでも……さすがにそれは……」
まずいのではないか。そう言おうとしたがしかし、それより早く首を振られた。
「あのね、理由がどうあれ預かってた原稿が君のせいでなくなったのは事実なんだ。だったら四の五の言う前に、まず君にできることを全部やるべきじゃないかな」
「でも、もしそれで間違ってたりしたら……」
「そのときはそのとき。先生のところに謝りに行こう」
二人で一緒に、と。彼はごく当然のようにそう言ってくれた。
「なんでよ。翔は関係ないでしょう?」
「あるよ。君をこの会社に紹介したのは俺だからね。何より俺だって一応、菊理神社の氏子だ。君がやらかしたことなら、責任を取るくらいはするよ」
なによりね。と眼鏡の奥の焦茶色が、少し柔らかな色味を帯びる。
「俺はこう見えて、君以上に君のことを信じてるからね。ヒメならできるよ。大丈夫」
にっこりと微笑む翔の笑顔は妙に迫力があって、見る人によっては緊張と恐怖を覚えるかもしれないが。
このときの私には不思議と、彼がキラキラと輝いて見えた。別に、偉大だからとかそういう理由ではなく。
チーン、と音を立てて、エレベータがようやく到着した。
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