余命あと九ヶ月 5

「……だから、こんなことになる前に、どうしてもっと早く報告しなかったんですか!」

「本当に、申し訳ございません……!」

「謝って済む問題じゃないでしょう。こんな初歩的なミスなんて、いまどき新入社員でもしませんよ。一体、勤続何年目だと思ってるんですか」


 出社するなり耳に届いた怒声に、私は思わず目をぱちくりさせた。


 小規模ならではのアットホームさ(もちろん例外もある。私とか)が売りな我が社にしては珍しい。さながら、火サスもかくやと言わんばかりの緊迫した空気が漂っている。


 それだけでも驚愕だが、さらに驚くべきことに、叱られているのはなんと不動さんだった。いつもは凛と前を見据えている彼女が、今は項垂れて課長席の前に立たされている。橙色のリップを塗った綺麗な唇が、硬く引き結ばれていた。


 どうにもただごとではない。


 すわ何事かと驚いていると、ちょうど通りがかったパートのおねえさま——結婚を機に一度引退したものの、子供たちがみな大人になって再び復帰した大ベテラン——の森田さんがこっそり教えてくれた。


「あら、神代さんおはよう」

「おはようございます森田さん。これ……何事ですか?」

「びっくりするわよねぇ……なんか、不動さんの担当作家さんの原稿が一部、紛失してしまってんですって」

「エッ」


 なんでも昨晩、先方から急に修正したい箇所があるとの連絡があり(それ自体は別に珍しいことではない。作家とは気まままままな生き物なので)会社にある原稿を返送したところ、ページ数が一部足りないことが発覚した。その上、無くなったのは『赤』だった。作家自身の手で、修正が書き込まれたオリジナル原稿。


 おかげで編集部は朝からてんやわんや。課内を総浚いし、ゴミ箱までひっくり返したものの結局、原稿は見つからず。


「しかもそれが、よりによって大石先生の原稿だったそうなのよ。最近は、作家さんによっては赤原稿でもメールで送ってくれる人も少なくないけど、大石先生は昔から手書き一本の人だったでしょう?」

「大石先生の、原稿……?」


 途端にものすごく身近になってきた展開に、私は森田さんにお礼を言うと、慌てて課長の元に向かった。


「課長……!」

「なんですか神代さん。見ての通り、今は取り込み中なので……」

「あの、大石先生の原稿の件なんですが。それ実はわた」

「——黙りなさい」


 私ですと告白しようとした声は。

 他ならぬ、不動さん自身によって遮られた。バッサリと容赦なく、介錯のように。


「でも……!」

「学級会じゃないんだから、別に犯人探しなんてどうでもいいのよ。今は責任の所在の話をしているの。私はあなたの指導担当なんだから、どうあれ今回の件で責任を取るべきは私。それ以上でも、それ以下でもない。そんなことも分からない新米が余計な口出しをしてこないで。いいから、あなたはさっさと自分の席で仕事でもしていなさい」


 ピシャリと言い切られ、けんもほろろにあしらわれてしまっては、それ以上、食い下がることもできなかった。だけど、さすがにこのままでいられるわけがない。


 確かに、大石先生は不動さんの担当だけど。私が提出したのは三日前だけど。その間に、紛失した可能性だってあるのだけど。でも。


 紛失しそうな場所が、実はもう一つある。


 私は急いで池原さんの席に向かった。


 ◆

 

「……っ、池原さん! 前にお預けした大石先生の原稿、まだ残ってませんか?」

「あっれー? どうしたの神代ちゃん。そんな必死そうに息切らして」


 お茶でも飲む? と呑気に聞かれて、私が首を振った。


 おっとり刀で池原さんの席に向かった私だったが、彼は不在だった。ホワイトボードの予定を見ても、特に会議の予定はなし。結局、社内をあちこち探し回った末、食堂でのんびりコーヒーを買っている彼を発見した、という次第である。


 仕事中は席にいて欲しい。いや、飲み物くらいは自由に買っていいと思うけど。


 まだ昼休み前だからか、食堂は人もまばらでほぼ貸切状態だ。とにもかくにも彼に事情を説明すると、池原さんは急いで席に戻って——くれる様子もなく、自販機にもたれかかり、つまらなさそうにため息をついた。


「ふぅーん……それで神代ちゃんは、まっさきに俺を疑ったってわけか。後輩にそう思われるなんて、悲しいなぁ」

「それは……すみません」


 俺、結構神代ちゃんには優しくしてきたつもりだったんだけど。などとじっとり恨めしげに言われては、こちらも恐縮するしかない。


「だいたいあの日、俺は原稿を渡したじゃん。渡したよね? そこで俺の責任は終わりでしょ? それとも神代ちゃんは、受け取った書類の中身をちゃんと確認しなかったってこと? それはちょっと、いくらなんでも無責任なんじゃない?」 

「……仰る通りです」


 池原さんの指摘に頭を下げる。反論のしようもない——いや、そんな情けない言葉を垂れる余地もなかった。


 預かった仕事の責任は、自分が持つべきもので。それを誰かに託したとしても『託した選択ごと』自分の責任なのだと。私はそれを、まったく理解していなかった。少しは仕事にも慣れてきた、なんて。


 いったいどの口がそんな無責任なことを。


「そう落ち込まないでよ。俺がいじめてるみたいで気分悪くなるじゃん。けどまあ、神代ちゃんがそんなに心配しなくても大丈夫だと思うよ」

「え」


 この状況で、なにか打開策があるのだろうか。ぱっと顔を上げる私に、しかし彼が告げたのは予想もしない言葉だった。


「だって神代ちゃんの担当って、不動サンじゃん。あのカッコつけが年下の後輩のせいにするわけないし。なにかあってもどうせ、君の名前は出さずに自分で責任全部おっかぶるでしょ。問題ナイ問題ナイ」

「……は?」


 一瞬。言われた意味がわからずに。

 私はぱちくりとまばたきをした。


「なに、言って……」


「いや〜、あいつって昔からそうなんだよねー。理想主義っていうか、いつまでもお嬢さんっっていうか。だいたいさぁ、今の時代に必死こいて真面目に仕事するなんて流行らねぇよ。なのにあいつは、そういうのがまるで分かってないなんだよな。誰にでも真剣に向き合って、恥ずかしいような正論ばっか振り翳して、挙句にこうやって貧乏くじだって引いて……本当、バッカみたいだよね」


 くつくつと笑いながらそう吐き捨てる池原さんは、今まで私が知っている彼とはまるで別人のようで。


「あの……大石先生の原稿、返してください」


「だから持ってないって言ってんだろ? それに、もし本当に俺が原稿を持ってたりしたら、神代ちゃんにとっても都合が悪いんじゃない?」

「はい?」


 本気で理解ができず盛大に首を傾げると「だってさぁ」と彼は屈託なく笑った


「わざわざ一人で俺を探してたってことは、つまりそういうことだろ? 本気で原稿を探すつもりなら、俺に預けてたことを上に素直に報告すればいいんだから」

「それもそうですね。伝えてきます」

「待て待て待て待て。待ちなさい」


 その発想はなかった。ポンと手を打って早速、課長のもとへ報告へ向かおうする私の肩を、池原さんがやや食い気味に掴んだ。


「ノータイムで予想外の方向に突き進もうとするんじゃないよ。余計なことすんなって。俺はさぁ、神代ちゃんのことは結構気に入ってるんだよね」

「痛っ」


 肩に食い込む指先が、予想以上に強くて皮膚の奥、骨と骨の隙間に潜り込む。恐怖よりも何よりも、その感触に引き攣るような不快感を覚えた。


「素直で便利で可愛くて。だから余計なこと言わず黙ってなよ。どうせなくなったのなんて、一章節にも満たない分だ。そんな些細な間違いなんて、誰も気になんかしないでしょ」


 くしゃりと、人懐っこい笑みでそう提案されて。

 反射的に、口を開きかけた瞬間。


「——まだ昼休み前なのに、こんなところでサボってるなんて感心しないな。神代さん」


 不意に耳馴染みのある声が聞こえて、私はそちらを振り向いた。

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