怒/動

余命あと九ヶ月 1

 日本神話において、菊理はかなりマイナーな神だ。


 よくいえば謎が多く、悪くいえば影が薄い。神話において、いてもいなくてもいい神様。


 そんな菊理がかろうじて登場するのは、たった一文。日本でもっとも有名な夫婦喧嘩の中にだけ。


 かつて、この地には多くの神々がいた。中でももっとも偉大なのは、二柱の夫婦神だ。国生みの祖神、イザナギとイザナミ。


 しかしあるとき、イザナミが身罷られた。妻を諦めきれなかったイザナギは、亡き妻を冥府へと迎えにいった。


 死が二人を別つまで。死も二人を別つことなく。

 原始の時代の神にとって、死さえも絶対の別離ではなかった。


 しかし黄泉降りをしたものの、冥府の住人となったかつての妻、イザナミのあまりの醜さに、イザナギは逃げ出してしまう。


 夫の薄情さに激怒したイザナミは、地上へ逃げ去るイザナギに向けて、呪いの言葉を吐き出した。


 恨めしや我が汝兄の君。かくなる上は、この冥府より地上を呪い、一日千人の命を奪ってくれよう。やが人の子等は死に絶えて、この世は死の国となりましょう。


 困り果てたイザナギのもとに現れたのが、境界の神、である菊理。妻の呪いに頭を悩ませるイザナギに、彼の神はある助言をした。


「ならばあなた様は、一日に千五百の命を生み出せばいい。さすれば、人の子は途絶えることなく増え続けましょう」


 産めよ増やせよ地に満ちよ。菊理の助言により、人はどんどん増えていった。その数と勢いは留まることなく、やがて神々すらも凌駕するほどに。


 やがて増え続ける人間に、支配者たる地位を脅かされそうになった神々は、そうなる前にと八島を去った。ただ一柱、菊理だけを人の世に残して。


「お前のいらぬ助言のせいで、今やこの地には人が溢れ、神々すらもを追い落とす勢いだ。もはやこの地が人のものとなるのは避けられぬ。かくなる上は責任をとり、汝は我々の『記録者』として、この地に留まり人の世の行く末を見届けるがよい」


 こうして菊理は、世界でたったひとりぼっちの神様となった。

 

 だから私のやることは、いつだってうまくいかないのです。

 

 ◆

 

「神代さん。頼んでおいた原稿のチェック、終わった?」

「すみません、まだです。先に池原さんに頼まれた分を——」


 私が理由を言い終えるより早く。彼女の深々としたため息が響いた。

「……ねえ。あなたの指導担当って誰?」


「不動さんです」


 即答する私に彼女は一度だけ満足げに頷き——すぐ眉をしかめた。


「だったら、まず私の指示を優先しなさいよ。何度も言ってるけど。あなたは私の言うことだけを聞いていればいいの。どうして池原さんの仕事をやってるのよ」

「すみません。そっちの方が締切が先で——」

「もういいわ。あとは私がやるから——それと。出来もしない仕事なら、今度から軽々しく引き受けないでちょうだい。こっちはあなたの力量を把握した上で任せているのに、勝手な判断でスケジュールが狂わされたら迷惑よ」


 キッパリと言い捨てて、ついでに未完だった原稿を引っ掴むと、彼女はそのまま颯爽と会議室に向かっていった。


 また怒られてしまった。


 この出版社に入社してすでに三ヶ月が経つが、職場での私は絶好調とは言い難い。というか出社するたびに、こうして毎日、なにかしらで怒られている。


 まだ新人なのでしかたない、という面もあるが。最大の理由は、教育担当者に嫌われていることだと思う。


 不動巽。


 字面だけ見ると男性のようだが、不動さんは正真正銘の女性だ。明るい茶色のショートヘアに、アーモンド型のくっきりした瞳。艶やかな唇と、形のよい眉毛。いかにも仕事のできる美人さん。ついでに新入社員である私の教育担当——つまり先輩である。


 そしてたぶん、私ととても相性が悪い。


 嫌われている原因については正直、心当たりがある——というか、心当たりしかない。間違いなく、初日にしでかした私の『やらかし』が原因だ。


 なのである意味、この状況は自業自得なのだが。直属の先輩に、こうもあからさまに嫌われてしまうのは、さすがに困るというかなんというか。


 どうしたもんかなぁ。

 などと考えていると、不意に声がかけられた。


「……ヒェー。相っ変わらず、おっかねえなぁ不動サンは。大丈夫だった? 神代ちゃん」

「池原さん」


 声の主は池原さん——こちらもまた同じ部署の先輩だ。


 つんつんと跳ねた黒髪と、やや幼めの人懐っこそうな顔立ち。歴とした成人なのだが、見ようによってはまだ学生にも見える。ついでにいえば不動さんの同期でもあるらしい。そのせいか、私と不動さんの仲を心配してよく声をかけてくれる。


「……彼女もなぁ。悪い人間じゃないんだが。口で損するタイプというか、言い方がキツすぎるんだよな……俺が頼んだ仕事なんだから、文句があるならこっちに直接言えばいいのに。わざわざ人が席外ししてるときじゃなくてさ」


 彼はプンスカと憤慨しながら、不動さんの去っていった方向を睨んだ。


「神代ちゃんも、ああやってしょっちゅう怒られてちゃ気が凹むかもしれないけどさ。彼女、誰にでもああいう物言いの人だから、あまり気にしないでね」

「そんなしょっちゅうでもないですよ。前回叱られたのは五時間と四分三十二秒前だったので。これでも最近は、一回ごとの間隔がだいぶ長くなってきているのです」


 えへんと胸を張る私に、池原さんはなんというか、脚が生えた水槽の中でとイキリ散らしているオタマジャクシを観察するような、とても生暖かい眼差しを向けた。


「とはいえ、私としてもできればもうちょっと、お近づきになりたいとは思ってるんですけど……池原さん、同期としてなんかいいアイデアありませんか?」

「え、俺? そこで俺に聞いちゃう? えー……女の子同士のことなんて分からないけど、一緒にランチとかしてみるのはどう? 女子って、なんかやたらランチするの好きじゃん」

「ランチですか。それは名案ですね」


 さすが同期。GWの件以来、密かに料理に目覚めた私の新しい特技が役に立つかもしれない。そうだ、せっかくだから忙しい不動さんのために、私がお手製のお弁当を——


「彼女もああ見えて結構家庭的っていうか、家事が得意なタイプらしくてさ。たまに持ってくる弁当とか、まじで料亭並だからね。編集やめて料理人になれよってレベル」

「………………」


 踏み出しかけた勇み足を、私は寸前で引っ込めようとして間に合わず、その場で何度か架空の踏み台昇降をすることでやり過ごした。


「神代ちゃんには気の毒だとは思うけど、いま焦ってるんだよな不動サン。ほら、隣の課の佐々木さんっているだろ? うちの会社のドル箱作家、賀城紀を担当している筆頭エース。若きヒットメイカー」

「ああ、いますね」

「そいや、神代ちゃんは佐々木さんの紹介でうちに入ったんだっけ? その佐々木さんが近々、昇進するらしくてね。そうなると、賀城紀の担当が空席になる。不動サンはその後釜を狙ってるんだよ。なにせ彼女はもともと、賀城紀のファンでうちに入ったようなもんだから」


 池原さんはひょい、と肩をすくめてみせた。不機嫌さを隠しもしない態度で「けどさぁ」と、私のデスクに積まれていたある原稿を手に取る。


「いくら点数稼ぎに必死だからって、後輩いびってポイントあげるのはどうかと思うけどね。この原稿なんて、大石先生の校正戻しだろ? そんなの、新人に任せる仕事じゃないっての」


 校正、というのは原稿にある表記揺れや誤字脱字、用法や内容に矛盾がないかチェックする作業のことだ。


 原稿が本になるまでには順序がある。


 まず初稿。これは作家さんが最初に書く原稿のことだ。


 それを編集が確認し、内容や展開などを確認。この時点で修正希望があれば、作家さんに戻して相談する。


 この戻しが終われば(あるいは特に変更がなければそのまま)校正と呼ばれる作業に入る。これは編集者がする場合もあれば、専門の業者に依頼する場合もある。会社によりけりだ。うちは小規模なので、逆に編集だけでは手が回らずに外部委託している。


 校正は編集とは逆に、内容や展開についてはなにも触れないが、時代背景や描写に矛盾があれば、そこに指摘を入れる。


 その後、原稿は再び作家の手に戻され、指摘内容を確認しながら、更に作家が赤字で修正を行い、場合によっては展開そのものが変わることもある。この段階の原稿は修正に使われるペンの色をとって赤原稿——あるいはもっと単純に略して『赤』と呼ばれる。


 これを二、三度繰り返して、ようやく本文の完成だ。もちろんその間も、表紙を決めたりタイトル文字を決めたり紙を選んだりデザインを決めたり(表紙とタイトルとデザインはまた別枠だ)枠組を組んだり、編集の方でもやることは山ほどある。


 ちなみに件の大石先生とは、江戸時代の人情ものをシリーズを連載しており、編集部内でも特に校正からの赤が多い作家として有名だ。


 すなわちそれは、読み込む編集者側にもそれなりの知識が求められる、ということでもある。

「これは俺がやっておくから、神代ちゃん今日はもう帰りなよ。最近、残業続きだったろ?」

「でもそれは、私が任されたもので……」


 任されたものの、まだ終わってないのだけど。一応、読み込みだけはすでに終わっているが、肝心の修正箇所の内容確認がまだなのだ。時代もので——特に、時代背景の絡んでくる修正の場合、ここにかなりの時間がかかる。


 まあ私の場合、菊理神社で過ごした時間があるから歴史もの知識はもとからかなりある方だが。そのせいか、不動さん以外のヒトにも歴史関係の仕事を振られることが多い。


 そんな背景もあるので、池原さんの厚意自体は大変ありがたいのだが。とはいえ、自分に振られた仕事を人に肩代わりしてもらう、というのはあまり好ましくない。


 失礼にならないよう、やんわり断わろうとするが、肝心の池原さんは「いーからいーから」と聞く耳を持たなかった。


「最近、帰り遅いんだろ? 神代ちゃんが仕事手伝ってくれるようになってから、俺もすごい助かってるしさ。少しは先輩を素直に頼りなさいって。ちょっと肌も荒れてるし。せっかくの金曜なんだから早く帰って休みなよ」

「最近はそこまで遅くはないですよ。肌荒れはまた別の理由というか……最近、ちょっと夢というか」


 そのせいで妙に眠りが浅いのだ。夢見が悪い、と言う言葉に、池原さんは顔をしかめた。


「それって……もしかしてストレスとか? 職場にあんな先輩がいたんじゃ無理もないだろうけど」

「いえいえ、そんな深刻な話じゃなくてですね。たんに、ものすごーく昔の夢を見るんです。本当に、なんで今さらってくらい」

「……ああ、夢って記憶の整理っていうもんね。神代ちゃんは記憶力もいいし、そういうこともあるんだろうね」


 ククリなら、ここでバッサリ「知らん」と切り捨ててきそうだが、わざわざ話を合わせてくれる池原さんは、なんというか社会人で大人の男性だった。


 けどまあ、確かに。


 職場の後輩に、昔の夢を見て寝付けない、なんて話を急にされても困るだろう。本当に悪夢でもなんでもないわけだし。ただすごく昔の——人の文明が生まれる前、神の御代を夢に見るっていうだけで。


「でもやっぱりちょっと心配だな。もし本当に眠れずに困っているようなら、頼れる人に相談してみたほうがいいよ。よかったら俺が……」

「あ、大丈夫です。そういう相手になら、心当たりがあるので」


 頼れる人というか、まあ正確には人ではなく一柱なのだが。 


 困ったときに頼る相手として、神様以上の適任者はいないと思うんだよね。


 私の返答に池原さんは一瞬、鼻白い表情を浮かべ、すぐにいつもの人懐っこい笑顔で「ならよかったね」と言ってくれた。


 そんな風に談笑している最中。ふと視線を感じて、顔を上げると。



 

 ——フロアの入り口で、先ほど去ったはずの不動さんが、鬼のような形相でこちらを睨んでいた。

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